彼女が赤に染まるまで

龍崎操真

前編

 イギリス首都、ロンドン。

 星が空を彩る頃、とある繁華街を歩く一人の女性がいた。空のように青い瞳には疲労の色が宿り、ブラウンに染めたショートボブの髪を揺らしながら歩く彼女の足取りはおぼつかない。服装は襟にフリルがあしらわれた白のブラウスにブルーのミニスカート。右手に紫のハンドバッグを抱える背中は寂しげだった。

 だが、暗い彼女の様子に反して街はまだまだ夜はこれからと言わんばかりに輝きを放っている。もう日付が変わってから一時間は経過しようというのにも関わらずだ。


「あ……」


 足がもつれて倒れてしまった。その際に化粧品など、ハンドバッグの中身が散乱してしまう。緩慢な動作で散らばった持ち物を回収する彼女はひどく酔っ払っているように見えた。

 しばらく時間を掛けて落ちた物を拾い集めると女は立ち上がり、また歩き出し帰路に着いた。

 背後から一連の様子を眺めていた影がいることも気づかずに……。




 重い体を引きずりながらも女はなんとか帰宅した。だが、何をするでもなく床に座り込み、呆然と目の前の何かを見つめるだけだ。

 ここまで彼女が上の空なのには理由がある。

 それは長年付き合っていた彼氏に別れを告げられたことによる失恋だ。しかも、たちの悪い事にその彼氏は浮気をしており、浮気相手の方が自分より魅力的になってしまったからという理由でだ。


『アリス……、ごめん』


 別れ際の申し訳なさそうに自分を呼ぶ声がフラッシュバックした。その度に裏切られた怒りと同時に楽しかった思い出が蘇り、どうしたらいいのか分からなくなる。

 ショックで言えなかった思いが帰宅した今になって溢れ出してきた。


 何がいけなかったの? 気づかない内に傷つけるような事を口にした? 単純に本当の恋人が向こうの方で自分が遊び相手だった? いや、なによりもまず……。


「謝るくらいなら浮気しないでよぉ……! わたしの今までを返してよぉ……!!」


 お互い好きだと信じてきたのに。だからこそずっと一緒にいてもらえるように頑張ってきたのに。

 その果てが浮気されて捨てられた、なんて惨めにもほどがある。

 冷静に振り返るほど自分がバカみたいな女に思えて惨めさに拍車がかかり、涙がとめどなく溢れてきた。


「ねぇ―――」


 だからだろうか。悲しみに共鳴し付いてきた者がいたのは。


「どうして泣いているの?」


 ふと聞こえた誰かの声でアリスは我に返った。

 同時にこの部屋には自分以外いるはずがないのにどうしてと疑問が頭に浮かぶ。

 答えを求めアリスが声のした窓の方へ視線を送ると、そこにはなんと窓のへりに少女が腰掛けていた。

 その瞬間、アリスは言葉を失うほどにその少女に目が釘付けになってしまった。

 夜風が流す金の髪は絹のように滑らかで非常に目を引くし、胸元に大きな白いリボンを結んだ紫のドレスが見せるボディラインは美しい流線型を描いている。

 あどけない顔立ちから十代半ばである事を伺わせ、微笑む色白の顔を彩るその真紅の瞳が目を引いた。

 おそらく同年代の男子が目にしたのなら、すぐに魅了される事だろう。

 これほどの存在感を放っているのにも関わらずに、だ。声をかけられるまで気付かなかったのはいったいどういう事だろうか。

 驚きのあまり固まっているアリスを眺める少女はクスクスと面白そうに笑っていた。


「こんばんは。私、ラミカ。気軽にラミィって呼んで良いわ。よろしくね」

「あ、どうも……って、どうやってこの部屋に入ったの!?」

「どう、ってあなたに付いてきて普通に入ったんだけど?」


 何か問題あるかと言いたげにラミカと名乗る少女は首を傾げて見せた。


 問題があるどころの話ではない。

 傷心を紛らわせるためのヤケ酒帰りとはいえ、見知らぬ少女が背後にずっといたのに気づかないなどという事があり得るのか?


 それもこのような現実離れした容姿をした美少女が背後に付いていたのなら、どんなに酔っ払っていたとしても道行く人の反応からなんらかの違和感を持つくらいの事は誰だってできるはずだ。

 だが、道中の記憶を振り返ってみてもそのような反応をした通行人を見た覚えはない。

「酔っ払っているから気づいていないだけだろ」と言われたら即座に萎んでいく程度の自信だが、それでも普通に付いてきたわけではないことだけはアリスは本能的に感じ取っていた。


「あ、その表情.......信じられないって言いたそうね」

「まぁ.......」


 アリスが考えていることをピタリと言い当てたラミカは、子供が拗ねた時のように頬を膨らませて睨んでいる。

 その様子をちょっと可愛いかもと思い始めていたアリスは、ラミカがいる状態に慣れてきた事もあり少し油断していた。


「そう。なら、ちょっとしたマジックを見せてあげる」

「え?」


 次の瞬間、ラミカは何の前触れもなく忽然こつぜんと姿を消した。ずっとアリスとお互いに顔を突き合わせて話をしていたのにも関わず、一瞬で。


 まさか、ヤケ酒のせいで幻覚を見ていた? いや、それにしてはやけにリアルなような気も.......。


 自分がおかしくなってしまった可能性を疑いつつ、アリスは部屋中を見回した。だがそんな心配は杞憂だった。

 なぜなら、探していた少女はまたすぐに現れたのだから。


「ハイ♪ 探しているのは私かしら?」


 耳もとでからかうような声が聞こえた。同時に背後から首に両腕が回され、冷たくも柔らかい感触がアリスを包み込む。

 特筆すべきはその冷たさが夜風に当たって冷えたそれではなく、まるで冷たさだという事だろう。

 驚きと恐怖のあまり凍りつくアリス。だが、そんな事を気にする様子もなくラミカはアリスに甘く囁く。


「私ね、影に潜んで移動できる特技を持っているの。あなたの部屋に入った時もこれを使って一緒に入ったのよ?」

「い、いったい……!? あなたは……!?」


 アリスの疑問は当然だろう。普通の人間にこんな芸当ができるはずがないのだから。

 対してラミカは待ってましたとアリスを解放し、再び彼女の視界に姿を現した。その後、微笑みながら自分の胸に手を当てて答えを口にする。


「そうね……分かりやすく言うのなら吸血鬼ヴァンパイアと言えば伝わるかしら?」

「ヴァ……!?」


 ついにアリスは言葉を失ってしまった。その様子を眺めるラミカはイタズラが成功した子供のように笑う。


「ふふ……あ、そういえばあなたの名前を聞いていなかったわね。どう呼べば良いのかしら?」

「え? わたしの名前はアリスだけど……」

「そう。アリスっていうのね。お互いに自己紹介が済んだところでアリス、そろそろメイクを落としてお風呂にでも入ったら? あなたの顔、凄いことになってるわよ?」




 ラミカに言われるまま、帰宅後の身支度を整えたアリスはパステルブルーのパジャマに着替えると再び彼女が待っている居間へと戻った。先ほどに比べれば幾分かは落ち着いているものの、まだ自らを吸血鬼だと言う少女に対して、アリスは懐疑の念を抱いていた。

 吸血鬼なんてホラー映画の定番、聖なる物と太陽に弱くて血を吸う怪物程度の認識しかない。つまり、アリスにとっては画面の中、フィクションの住人でしかないのだ。

 百歩譲ってラミカが正真正銘本物の吸血鬼だとしよう。なら、なぜ彼女は画面の中から飛び出して来て自分の前に現れたのだろう?

 他にも疑問は尽きないが、とりあえず何よりもまず気になるのは……。


「ら、ラミィ……?」

「はい、どうしたの?」

「ココア、美味しい?」

「ええ。とっても」


 腰掛けたベッドの上で優雅に脚を組み、冷えたミルクココアを飲んでいる吸血鬼ラミカだ。

「喉が乾いたわ。できればチョコレート系のドリンクを貰えたら嬉しいんだけど」と言われて作ったのだが、ちょっと待って欲しい。彼女は先ほど自分の事を吸血鬼だと言ったばかりだ。それにも関わらず、さっそく血以外の物を口にしているのはどういう事なのだろうか。

 困惑気味に見つめる視線に気づいたのかラミカはココアを飲む手を止め、アリスの方を向いた。


「どうしたの?」

「その……吸血鬼ってこういう時、血を飲むんじゃないかと思って……」

「あら、吸血鬼が血以外の物を飲んじゃダメなの?」

「いや、そんな訳じゃないけど……」


 おかしな物を見るかのような表情をした後、ラミカは再びココアを飲み始めた。

 そしてココアが入っていたカップをテーブルに置くとラミカは「それで」と口を開いた。


「どうしてアリスはあんなに泣いていたの?」

「そ、それは……」


 最初と同じように投げかけられた質問に対し、アリスは言葉を詰まらせた。

 今日の出来事を思い出す度に捨てられたという事実がアリスの心に槌を振り下ろし鉄杭を打ち込んだ。

 先ほどまで止まっていた涙が溢れだし、再び視界を濡らし始める。

 目にいっぱい涙を浮かべたアリスの様子で、なんとなく察したラミカは何も言わず隣に座れと促した。

 素直に従いラミカの隣に座ったアリスは次の瞬間、ラミカから抱きしめられた。


「言いたくないなら無理には聞かない。でも、ずっと溜め込んでいるよりは誰かに話して、泣いたりした方が良いこともあるわよ」

「……っ!」


 その言葉でアリスは再び堰を切ったように泣き出し、そのまま抑えきれなくなった気持ちの全てをラミカにぶつけた。その場では言えなかったこと、恨みつらみを込めた恋人だった者への口汚い罵倒。ずっと一緒にいて欲しかった事。その全てをラミカは何も言わずに聞いていた。時折、愛しい我が子を愛でる母親のような表情で頭を撫で、慰めの言葉を贈りながらアリスの思いを受け止めていた。

 全て吐き出し、嗚咽が止んだ頃を見計らって頭を撫でる手を止めたラミカはバックハグした時と同じような声でアリスの耳元で囁いた。


「ねぇ……その辛い記憶、忘れたい?」

「え……?」


 次の瞬間、言葉の意図を確認する暇もなくアリスはラミカにベッドへと押し倒された。

 そのまま馬乗りになりマウントポジションを取ったラミカは、仰向けになったアリスに覆いかぶさり押さえつける。


「ラ、ラミィ!? いったい何を!?」

「前の男の事を忘れさせてあげる。私はな吸血鬼なの。言ってる意味、分かる?」

「分かるけど! でも……いきなりこんな事……!」


 不意打ちで押し倒され、混乱しながらも抗議をするアリス。対して、ラミカは獲物を前に舌舐めずりをするような笑みを浮かべた。


「だって話を聞いていると、まだ好きで苦しいって聞こえるんだもの。そんなの、ただ辛いだけじゃない。なら、自分の事を捨てた男なんてさっさと忘れて次に進んだ方が良いと思わない?」

「あぅ.......」


 正しいと思える主張だ。

 実際、アリスはこの言葉に反論できる術を持ち合わせていなかった。それを好機と見るや、ラミカは畳み掛けるように言葉を続ける。


「私があなたを虜にしてあげる。でもその代わり.......」

「その代わり……?」


 なんとなく次に来る言葉を察しながらも、アリスは続きを待つ。やがて、一秒ほど間をおいたのちにラミカはその言葉を口にした。


「私にあなたの血を吸わせてちょうだい。それがこの続きをする条件よ」


 おそらく最初からそのつもりだったのだろう。ラミカがアリスへ向ける眼は血走っており、本気である事を伺わせる。

 その証拠に気持ちが高ぶってきているのか、ラミカの呼吸は荒い。まるでごちそうを前にお預けをされる狼のようだ。

 だが、まずは本人の意思確認が大事だという表情でラミカは話を続ける。


「もちろん、無理にとは言わないわ。ココアを飲ませてくれたお礼に話は聞いてあげたけど、これ以上は無料タダってわけには行かないわ。本当は背後から襲ってすぐに血を吸い尽くしておしまいのつもりだったけど気が変わっちゃった」

「どうして?」


 率直な疑問を投げかけるアリスに対し、ラミカは必死に自分を抑えつつ、遠い過去を振り返るような表情で答えた。


「人から人へ渡り歩いているとこんな気持ちになることがたまにあるのよ。一目惚れっていうのかしらね……。なんとなくこの子と一緒にいたいなって思う時があるのよ」

「ラミィ……」


 思わずアリスは首を縦に振りかけた。が、「忘れたのか? お前は今日裏切られたばかりなんだぞ」と理性が感情に待ったを掛ける。


 たしかにそうだ。ラミカは行き場のない思いを受け止めてくれたし、慰めもしてくれた。正直言って胸の高鳴りすら覚えている。

 だが、それが全部血を吸うための演技だとしたら? こうやって心を開かせて一気に吸い尽くして殺すつもりだとしたらどうする?、という疑念が鎌首をもたげる。

 その疑いの念を感じ取ったのか、ラミカはもう限界なのを隠すように精一杯の笑みを浮かべた。


「裏切られるんじゃないかって考えているのね……。大丈夫。私はあなたを裏切ったりしないわ」

「ほ、本当に信じていいの……?」


 おずおずと身を委ねて良いのかと確認するアリス。

 ラミカはしっかりと頷き、アリスの想いに応える。


「ええ。もちろんよ」


 その言葉を口にした瞬間だった。

 アリスはラミカの首に手を回し抱き寄せ、唇に吸い付き口付けを交わす。

 初めてした女同士の接吻キスはココアの味だった。

 数秒ほど重なっていた唇が離れるとお互いに見つめ合う。熱に浮かされたように潤むアリスの射抜くような視線。

 その視線だけで興奮は最高潮へと上がっていき、ラミカはアリスに接吻キスを落としていく。

 やがて、ついばむように吸い合っていたキスは貪るように、より愛し合うための舌を絡め合う物へと変化していった。

 そして、ついにその時がやってきた。


「本当に良いのね?」


 焦らすようにパジャマの上着のボタンを弄り、もう後戻りできない事をアリスに伝えた。

 三日月の形に歪む口の中から覗く白く細長い牙。これから首筋にこれが突き立てられるんだと少し不安になりながらも、アリスは覚悟はできてると頷いて伝えた。

 やっとお預けの時間から解放される喜びを表情ににじませる。だが、あくまでお淑やかに、さっさとボタンをちぎって飛びかかりたいのを抑えながらラミカは丁寧にボタンを外していく。

 そして露出した白い首筋に口付けをし、いよいよ血を吸うために噛みつこうとした瞬間だった。アリスが「待って」とラミカを静止した。


「なぁに? 怖くなった?」

「うん……。その、本当にこれで死んじゃったりしないよね?」


 不安げに確認するアリス。その表情がなんとも愛らしく、ラミカはクスリと微笑んだ。


「大丈夫よ。私、少食だから」

「あっ……!?」


 ついにアリスの首筋に牙が立てられる。

 痛みは想像していたより大した物ではなかった。せいぜい、指先を噛んだ時に感じる疼痛とうつう程度しかない。

 むしろ、予想外だったのは血を吸われる事によってもたらされる快楽のほうだった。


「んっ……!? あっ……あっ……!?」


 ちゅうと一度吸われる度に理性が吸い出され、溢れ出す真っ赤な蜜を味わうために首筋を這うヌメッとした感触が傷ついた心を癒すように甘美で危険な快感がアリスの身体を駆け巡る。


 もっと……もっと……!


 ゴクリと喉が鳴る度にもっと強い刺激が欲しいとアリスはラミカの頭を自分の首筋へと押し付けていく。

 たっぷり数秒ほどアリスの血液を楽しんだラミカは名残惜しそうに舌先で首筋をくすぐりながら頭を離した。


「あ……」


 快楽が途切れてしまった事でアリスの表情は即座におやつを取り上げられた子犬のような寂しげな物へと変わってしまった。

 その様子を愉悦を感じながら眺めるラミカは、優しく頬に手を当てアリスの耳元へと顔を寄せた。


「ああ……その物欲しそうな目……たまらないわね……! 大丈夫よ。そんな表情をしなくても夜は長いわ。たっぷりよろこばせてあげるから……」


 囁きながら胸元のリボンを解き、衣服を脱ぎ捨てた彼女は再び首筋に舌を這わせつつ、アリスの残りのボタンへと手をかけた……。

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