第16話 散った若い命

天正八年 織田信忠の嫡男となる三法師が誕生した。

この頃の信忠は側室であるすずの懐妊の一報を聞いても笑顔ひとつ見せず、一年にも及ぶ籠城を続けた有岡城を陥すことに、精神を統一してきた。その年の秋、当主である荒木村重が城を捨てて逃げたこともあり、城は堕ち、信忠も無事に岐阜城へ戻った。当時妊娠後期であったすずの出迎えにも素っ気ないふりをしたのは、この半年前に起きたある事件が尾を引いていたからだ。


信忠が朝、目覚めた時はいつもの通り新太郎と甚七郎のふたりが寝室の外で信忠の衣服の用意、洗顔の手伝い、結髪などをした。そう普段通り、何の変哲もない一日のはじまりだったのだが。

その日の午後、新太郎と甚七郎は些細な事から口論になった。元々、考え方も性格も異なるふたりであったが、信忠を挟む形で、ふたりは上手に歩んできた。若気ゆえ、衝突することがなかった訳ではない。だが生真面目な新太郎は自分を押し殺した。信忠の前で醜態を晒すのは避けたかったし、何より、織田信忠の小姓としての役割を理解していたからだ。自分が言葉を慎めば治まる。そう信じていた。甚七郎も同じである。新太郎との意見の食い違いがあっても、それを愉快なやりとりに変える事で誤魔化せた。しかし不幸なことに、そういう日々の積み重ねが、ふたりの中のわだかまりを膨らませていたのかも知れない。


「甚七郎、いつも思うのだが、松姫様の肖像画をそう眺めるものではない」

「なぜだ新太郎、美しいお方を眺めていると心が研ぎ澄まされるではないか」

「しかし、その絵のお方は、殿の許嫁であるぞ。美しいと口にすることさえ不謹慎だ」

「固いなあ新太郎は。儂がこの肖像画の方を誉めると、殿はいつも喜ばれておるではないか。いちいち細かいことを申すな、小姑でもあるまいし」

「小姑」

新太郎が寝室の窓を抜けると、夕焼けが差し込み、壁の肖像画を赤く染め、眩しいくらいだった。信忠は湯殿で汗を流している。着替えを取りに寝室に来た甚七郎はいつもの様に肖像画に見入っていた。それが新太郎の気に障ったのだ。

「小姑は言い過ぎたな、すまぬ。ただな、この絵のことで不可解なことが」

「不可解とはどういう意味だ」

甚七郎は腕を組み、寝室を出て居間の隅に立った。

「何だ甚七郎、不可解とはどういうことだ。説明しろ」

「いやな新太郎。これはあくまでも噂なのだが」

そう前置きした後で、甚七郎は珍しく愁眉な面持ちになった。

「実は武田にゆかりのある人物を知っていてな」

「武田に?」

新太郎が声を荒げると、甚七郎は周囲を気にしたように、両手を上げ下げした。

「そう目くじらを立てるな」

「貴様、敵と通じておるのか」

「そうではない。まあ話を聞け」

「ああ」

新太郎は小さく息を吐き、甚七郎を睨む様にして見た。

「そいつは昔、武田に仕えていたそうだが、いまは織田に取り立てられておる。怪しいものではない」

「最初からそう言え」

「悪かった、悪かった」

不本意さは隠さないまま、新太郎はうなずいた。

「その者の話しによると、松姫という人の容姿と、この肖像画の容姿とは、ちと異なる」

「貴様、肖像画をそいつに見せたのか」

「ちがうちがう。早合点をするな新太郎」

甚七郎は激しく手をふった。

「飲みの席で、絵の中の松姫の容姿を、ちと申しただけ」

新太郎は舌打ちをし、背中を向けた。

「それで、先を話せ」

「その者は松姫を実際にお見掛けしたことがあるそうで」

「俄かには信じがたい」

「偶然のことだが、松姫様が庭を散歩しているところに出くわせたそうだ」

背中を向けていた新太郎が振り返った。

「その者が言うには、松姫様は背が高く、目鼻立ちのはっきりしたお方だったそうで」

「しかし、そう近くで見た訳ではあるまい」

「それはそうだ。しかしなあ、その時にお供していた侍女の容姿も聞いたのだが、それがあの肖像画の女そのものだったのだ」

「何が言いたい」

新太郎は怠そうな声を出した。

「別に、何がって。ただ、その、まあ」

言葉を詰まらせ、着替えを取りに寝室に向かう甚七郎を新太郎は追った。

「お前、その下らない話を殿はおろか、他の者にしていないだろうな」

「某はしていない。しかしその場には数名同席していて、面白おかしく」

「面白おかしくとは何だ」

箪笥から着替えを取り出した甚七郎は湯殿に向かおうと早歩きをした。

「甚七郎、聞いておるのか」

「早く着替えを届けなければ」

湯女に着替えを手渡した甚七郎と新太郎は、信忠の居室にある庭先に立った。

「酒に酔っていたのかは知らぬが、お前のしている事は殿を貶める行為だ」

「聞き捨てならないな新太郎」

珍しく甚七郎が真面目な顔をした。

「某が殿を貶めるだと」

「殿の居ぬ間に、松姫様の肖像画を眺めたり、こともあろうに酒席で松姫様の話題に触れるのは愚行である」

新太郎の言葉が身に染みたのか、甚七郎は扇子を取り出し、顔を扇いだ。

「酒場で殿に関係する話題をした事は反省しておる。しかし肖像画に関しては、武田の元家臣から興味深い話を聞いたゆえ興味を持っただけで他意はい。先程、美しい人を眺めると、など、ふざけた事を述べたのも特に意味はないのだ。貴様が青い顔をして怒るから面白くなり、つい」

扇子を畳んだ甚七郎はそれを帯に挟み、新太郎を強く見た。

「ましてや殿を貶めるなどと、いくらお前でも許せぬ」

「行為の事を申しておるのだ。いつもの軽口を慎まねば、結果として殿を貶めることになると」

「いや許せぬ。儂はこれまで殿のことだけを想い、考え生きて来た。その儂に対してその言いよう。新太郎、いまの言葉を撤回し、謝罪しろ」

「なにゆえ」

新太郎は目を細めて甚七郎を見た。甚七郎の手は刀に触れている。

「謝罪をせねばならぬ所以はない。甚七郎、見損なったぞ」

「儂もだ。これまで貴様のことを友だと思っていたのに、ゆえに耐えてまいったのに。この様な汚名を…」

「耐えて来ただと。耐えたのは某の方だ。もう良い、お前とはお別れだな」

「別れ?」

甚四郎は首をかしげた。

「きょうお前から聞いた全てのことを殿に申し伝える」

「そんな、お前」

「真面目な話だ甚七郎。あとは殿のご判断にお任せる。お前を取るか、某を取るか」

「なんと」

「案ずるな、全てと申してもお前が肖像画に見入っていたことにはふれぬゆえ」

向き合って立つふたりの間に、夏の暖かい風が吹き抜けた。ふたりは軽く瞼を閉じ、夏のはじまりの草木の匂いを嗅いだ。

「残念だが甚七郎、貴様とは反りが合わなかったようだ。絶縁と思ってくれて構わぬ」

背中を向け、その場を去ろうとした新太郎の背中越しに甚七郎が刀を抜いたが、新太郎の方が剣の腕は上だった。先に刀を抜いた甚七郎よりも素早く、新太郎は刀を振り下ろした。

地べたに倒れた甚七郎には息があった。刀を鞘に戻し、新太郎は甚七郎を抱きかかえた。

「なにゆえ…」

口から血を流す甚七郎に、新太郎は語りかけた。

甚七郎は微笑んだ。涙を一筋流し、口で細かく息をしている。

「すまぬ甚七郎、すまぬ」

最期の力を振り絞る様にして、甚七郎は首を横に振った。そして口を開いた。

「ん、なんだ甚七郎」

甚七郎の口に耳を近づけた。

「これまですまぬ、あとは、殿をお頼み申す」

そう甚七郎が言っているのを、新太郎が言葉にした。

「わかっておる。わかってるが甚七郎、お前も一緒に」

こぼれる涙が甚七郎の頬に落ちた時、甚七郎は息絶えた。がくりと肩を落とした新太郎は、甚七郎の亡骸を抱きしめ、震える様に泣いていた。

「し、新太郎」

小さな嘆息を洩らし、信忠が言った。湯殿から上がり、ふたりの姿を求める様にして庭に来た。その時、目に入ったのが血だまりの上で重なる、ふたりの部下の姿であった。

信忠の声に反応し、新太郎はびくりと身体を起こした。恐る恐る信忠に顔を向け、真っすぐに見つめた。なんとも悲しげな表情だった。

「新太郎」

問いかける様に自分の名を呼ぶ信忠に、新太郎はコクリとうなずいた。

そして眠る様な安らかな顔をしている甚七郎を丁寧に下ろすと、何とも素早い動きで襟を抜き、胸を開いて短刀を腹に刺し、果てた。


ふたりの間に何があったのか、信忠は知る由もない。ただ紋々と日々を暮らし、夜が更けると一層、ふたりを失った悲しみに信忠はもがき苦しんだ。

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