第10話 織田家の五男と対面

春の夕焼けが躑躅ヶ崎館を、赤く染めていた。

昨年の今頃、松姫の父、武田信玄が陣中で病死したとの訃報を受けた。信玄の死後も織田との関係は悪化の一途。信玄の四男、勝頼が一時、和睦を申し出たが、織田方がそれを拒否した為、和睦は成立していない。そしていま、長篠の戦いで敗れた武田方が帰陣の途にある。

「これから騒がしくなます。その前に、少しだけ城内を散歩してみたい」

この数か月で松姫は極端に痩せた。長篠の戦には信忠も出陣している。どちらの味方という訳ではないが、そういう曖昧な立場だからこそ、気苦労も多い。

「さくら、織田から来たお坊丸を知っているわね」

「はい、実際にお会いしたことはありませんが、信長公の伯母に当たる方へ養子に出され、伯母のおつやの方様が、我が武田方の秋山虎繁殿と再婚した際、人質としてこの城に参ったと」

「会ってみたい」

「えっ」

ふたりは城の内堀の淵を歩いていた。戦とは全く無縁と思えるほど、穏やかな午後だった。

「信忠殿の文によれば、お坊丸を人質に出したおつやの方様のこと、信長公は大変にご立腹とのこと。むりもない。夫を亡くし、落胆していた伯母を想い、大切な息子を養子に出したというのに、敵方へ人質に出されたのだから」

「聞いたところ、おつやの方様には実子がなく、それこそ、お坊丸君を我が子以上に慈しんでいたと」

「我が子以上という意味は良くわからぬが、武田に城を包囲され、危機的な状況であろうとも、我が子であれば敵方に人質に出すまい。織田の援軍を待ち、それでも耐えきれなければ、お坊丸君だけでも織田へ帰し、自分は自害したら良いのだ。子を持ったことのないわたくしがいうのも可笑しいが、おつやの方様は、他人が産んだお子よりも恋を選んだのではないのか」

「良くわかりまぬが、おつやの方様なりに、遠山家を思ってのことでは」

「ならば、なぜ秋山と再婚したのだ。秋山と再婚したということは、武田に降伏したという意味である。前夫の遠山景任殿を裏切り、高遠城も明け渡したのだ。それが遠山家の為になると申すのか」

「仰せの通りでございます」

「すまぬな、この様な話にむきなって」

松姫は、さくらに頭を下げ、お坊丸が幽閉されている館の方へと向かった。

およそ城内とは思えない、竹林の中にぽつりと建てられた館にお坊丸はいた。侍女と見られる女に見守られながら、その子は庭に放った五羽の鶏と戯れていた。

「動物がお好きですか?」

突然、声を掛けられ、背中を向けしゃがんでいたお坊丸はぴくりと肩を動かせた。侍女が御坊丸に駆け寄り、片手を取ると、肩を抱いて屋敷の中へ誘導しようとする。

「待て、決して怪しいものではない。わたくしは信玄の娘で松と申す。この者はさくら。わたくしの侍女じゃ。そなたの名は?」

三十を超えたばかりと見えるその女は、お坊丸を隠す様にして松姫に向いた。

「千代と申します。若君の乳母でございます」

「左様か、千代」

お坊丸の乳母と聞いて、松姫の目は輝いた。

「そちらへ参っても良いか」

「はい」

お坊丸と千代のふたりはうなずき合った。さくらが庭木戸を開け、松姫を中へ通した。

「こんにちは」

松姫の声に、お坊丸はゆっくりと振り返る。

「まあ凛々しいお顔。いくつになられますの?」

「10になりました」

「まあ、10歳に」

小柄なせいか、見たところ8歳くらいだと思っていたので、松姫は驚いた。

「ご飯は、ちゃんと食べてますか?」

「えっ、ああ、はい」

「急にご飯のことなんて聞いて、ごめんなさいね。なんだかとても嬉しくて、何から話して良いのかわからなくて」

「某のことをご存じなのですか?」

「それはもう。わたくし、実は其方のお兄様の許嫁なのです」

「勘九郎様の」

そう言ったのは千代であった。少し色黒ではあったが、心根のやさしそうな目をしている。

「千代さん、信忠殿とお会いしたことは?」

「御座います。お坊丸君が信濃へ旅立つ時に、大手門までお見送りに来て下さいました」

「似ておりますか?」

「えっ?」

「あの、その」

「あっ、ええ。勘九郎様とお坊丸君の目鼻立ちはそっくりでございます」

「そうでしょう、そうでしょう。わたくしもそう思っていたのです」

「お父上である織田の殿様の血筋かと」

「織田様にも似ていらっしゃるのですね」

胸の前で手を重ね合わせ、松姫は静かに目を閉じた。まるでそこに、信忠がいることを想像しているかのように。

「ここの暮らしはどうですか?不自由はありませぬか?」

「いいえ、皆さま、とても良くして下さいます。不自由など御座いません」

そう話すお坊丸の姿は、立派な若武者に見えた。敵方に囚われているのだ。いつでも死ぬ覚悟が出来ている。その死と隣り合わせの様子に、松姫は胸をうたれた。

「何か必要なものがありましたら、いつでもこの松に申しつけ下され。わたくしは、お坊丸君の姉になる…」

そこまでいって松姫は言葉を切った。お坊丸の姿を見て、ついはしゃいでしまったが、この先、お坊丸と千代が解放され、織田の城へ戻る事があれば、自分が肖像画の松姫とは違うことが、信忠に知れてしまう。そこまで考えを及ばせていなかったことを松姫は悔いた。

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