第8話 織田信忠の容姿と松姫の決断

「なんということ」

「姫様?」

庭の中程にある小さな池の中を見つめ、松姫は何度もそうつぶやいた。

「そなたも見たであろう」

「ああ、はい」

8月に入り、残暑がより厳しくなった。打掛を腰で巻いているとはいえ、着物姿は暑い。侍女のさくらは小袖1枚の軽装だが、松姫が小袖姿で過ごすことは許されず、冬はともかく、夏は地獄の如し暑かった。

特にきょうは夜明け前から蒸し暑く、心なしか、虫の音も、鳥のさえずりさえも聞こえない。小動物さえ暑さから避難している様に感じる。

「姫様、とにかく中に入りましょう?」

先程から何度も、そうさくらが声を掛けるが、松姫は首を横に振るばかりである。

「見た?」

「肖像画でございますか?」

「左様である」

「はい。姫様と一緒に、さきほど居間で…」

「どう思った」

松姫は池の縁にしゃがんだ。

「どうと、って…」

「美男であったな」

「たしかに、見目麗しき殿様だと」

「美しき若侍であった」

「その、良かったではないですか」

「何がじゃ」

さくらは立ったままである。松姫を背後から見ていたが、背中に汗がびっしり滲んでいる。早く建物の中へ連れて行かなければと、そればかり考えていた。

「美しい方が、ぶさいくよりも良いかと」

「ほほう」

「姫様?」

「惨めよのう」

松姫は首をがくりと落とし、水面に移る顔を指先でかきまぜた。松姫は本気で自分が不美人だと思っている。松姫の考える美人というのは、小柄で華奢、目鼻立ちも目立たぬ涼し気な顔。彼女とは正反対な容姿だった。人は自分にないものを求める傾向にあるが、松姫は傍にいるさくらの容姿を自分と比較し、生きて来た。

「殿は喜んでおった」

「えっ…」

「そなたの肖像画を見て、殿は、私が思い描いた人そのままだと」

「それは」

こういう時、どういう言葉を掛けていいのかわからない。さくらはしゃがんで松姫の背中へ手を伸ばしたが、途中で引っ込めた。背中の汗の量が尋常ではなく、濡れた着物を羽織っているように見えたからだ。

「姫様、中へ入りましょう。このままここにいては日射病になってしまいます。こう暑くては、たまりません」

「そうよね、入ろうか」

松姫も相当、暑かったのか、すんなり聞き入れ、さくらを置いて屋敷の中へ入って行った。


軽く汗を流し、着替えを済ませた松姫が居間へ姿を見せた。胸元には勘九郎からの文が挟まれている。

顔は笑顔を浮かべ、少しばかりさっぱりとした表情に見えた。

「そなた知っておったか、勘九郎殿と、わたくしの婚姻が破棄になったこと?」

さくらは言葉を詰まらせた。唐突に違う話をするのも、松姫の特徴であったので慣れていた。しかし今回ばかりは、松姫の言葉が胸に重くのしかかった。織田の嫡男と松姫の破談の噂は城中で囁かれており、さくらもひと月ほど前にその噂を耳にした。武田と織田が敵対したことは明らかである以上、ふたりの婚姻が消滅するのは当然のこと。しかし松姫と勘九郎の文のやり取りは続き、それを阻まれる事実もない。現実、松姫に破談のことは伝わっていないのだから、それはきっと他愛のない噂話にすぎないだろうと、受け流していた。しかし昨日、松姫の父、信玄からそのことを伝えられ、時期に姫にも事情を説明するとのことだった。事実を知った松姫の狼狽を思うと、さくらは胸が張り裂ける思いである。

「そうか、やはり知っておったのか」

さくらの表情を読み取った松姫は、天井を見て、ふふふと笑った。

「いつから知っておったのだ?」

声の音色は明るかった。

「昨日、お屋形様に呼ばれ」

「であったか」

急に蝉の音が一斉に聞こえ、ふたりは揃って外を見た。夏の日差しが庭を照り付けている。長年勤めている庭師の老人がほおっ被りしていた手拭で顔の汗を拭いていた。

「あの者も、わたくし達の婚約破棄を知っているのだろうか?」

「その様なことは」

「しかし、城中、この話題でもちきりだと」

「だれがその様なことを」

「小手(こて)じゃ」

「ああ」

さくらは思わず眉をひそめ、首をふった。小手といえば四十を過ぎた侍女頭であった。器量は悪くないが、一度も嫁に行ったことがなく、仕事に執念を燃やし人当たりが悪い。そのうえ人の悪い噂話を好物とし、自らも火のないところに煙を立てる癖がある厄介な人物であった。

「やれやれ」

さくらは深く息を吐きだしたあと、瞑想するように静かに目を閉じた。

「小手は悪い女ではないのだが、心が寂しいせいか、話しを誇張したり、わざわざ他人を揉めさせ、それを愉しむ傾向があるのは、わたくしも存じておるのだが」

「それで充分、悪い人のように思えますが」

そうつぶやいたさくらは眉間に指を置いた。

「それでのうさくら。わたくしは思ったのじゃ。破談になったのなら、この先、勘九郎殿にお会いすることもない。これをせめてもの機会に、勘九郎殿がお許しになるのなら、文のやり取りを続けていきたい」

松姫はさくらを見て、目くばせをしてうなずいた。

「どう思う?」

「それは良いことだと思います」

「そうか、そう思うてくれるか。わたくしは偽の肖像画を送りつけた嘘つきだが、勘九郎殿への操を守り通すゆえ、神様もお許し下さるであろう」

「操を守る」

「そうじゃ」

松姫は大きな笑顔を見せた。これまで見たこともない大人びた笑顔であった。

「わたくしは生涯、勘九郎殿の妻でありつづけたい」

そう言い切る松姫の、深い決断を、さくらは感じた気がした。

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