婚約破棄を望みます
みけねこ
1.この人が元凶です
「姉上! もう無理です!」
涙目になって駆け込んだところで、執務室にいる姉上は心配そうな表情を浮かべることなくまたこちらの様子を伺ってくることもなく、ただ面倒くさげに息を吐き出しただけだった。
「何が無理だって?」
「何がって、わかっているでしょう?!」
「……ハッ」
こっちは必死だというのに鼻で笑いましたよ、この姉は。そして慰めの言葉を口にす……ることはなかった。
「こうなったのも自分のせいだろう? ん?」
こともなげに、にっこりと笑みを浮かべた姉上の顔はどこまでも楽しそうだった。
事の発端はそう、今から約十年前だった。
「アリステア、今から姉のオリヴィアにお客様が来るから邪魔してはいけないよ?」
「わかりました、父上」
父上がこう言うということは大切なお客様なのだろうと、当時幼かった私は頷いて素直に部屋に籠もることにした。姉上とは約五歳差、だからか私から見て姉上はとても大人びて見えていた。まだ幼い私にはわからないことの話でもあるのかもしれない、そう思って我儘を口にすることもなかった。
幸いにも自室と客室は離れていたため、客室にさえ近付かなければ邪魔しないだろうと思っていた。けれど部屋に籠もるにしても、流石に催す時はどうしようもない。素早く動いて、素早く戻ろうと静かに部屋を出る。
我がクレヴァー家の屋敷は父上や先代当主である叔父上のおかげでそこそこ広く充実している。きっと贅沢もできるのだろうけれど、我が家は代々倹約家。けれどその分使用人たちに奮発している。おかげで使用人たちが信頼を裏切るということは今まで一度もない。
話は戻して、とにかく邪魔はしてはいけないと静かにトイレを済ませた私は静かに部屋へ戻ろうとしていた。メイドや執事たちの姿が見えないのはお客様をもてなしているからだろうと迷わず自室へ向かっていたはずだった。
目の端に見知らぬ子どもが映るまでは。
知らない子だ、どうしたんだろうとひっそりと様子を眺めてみると、その子はキョロキョロと周りを見渡しその場から動けないでいる。間違いない、この屋敷の中で迷ってしまったんだろう。
無駄が嫌いなクレヴァー家は無駄な装飾も一切ない。いい意味で言うと倹約家、悪い意味で言うと質素。よって建物も似たような作りをしているし目印もなく、初めてやって来た人はまず部屋を覚えるのに苦戦していた。
大の大人でもそうなのに、あのくらいの子どもなら尚更どこから来てどこへ戻ればいいのかわからないはずだ。身なりからして使用人の子、という感じではない。上品な布は恐らく今日姉上の元へやってきたお客様の関係者なのかもしれない。
なるべく関わらないようにしたほうがいいのだろうけれど、でも、お客様の子どもが戻ってこないとなるとそっちも問題になる……ウンウンと唸った私は、自室へ向かっていた足を別方向へと向けた。
「どうしたんですか?」
「あっ……」
私がいたとは思っていなかったらしく、声をかけた途端肩が小さく跳ねた。けれどその子は言い淀むように狼狽えていたけれど、こちらも辛抱強く待ってみる。こうしてみると私とあまり歳も変わらないかも。
「その……部屋がわからなくなってしまってだな……」
「客室ですか?」
「あ、ああ……」
「わかりました。案内しますね」
「……! 助かる」
やっぱり迷ってしまったのだと少し苦笑してみせ、その子を案内することにした。あとで大勢の大人に探されるよりも、自分とあまり歳の変わらない子どもに案内してもらったほうがまだマシだろう。
歩いている最中その子どもは迷ってしまったことが恥ずかしかったのか、口を閉じたままでいたけれどこちらも敢えて話しかけずにいた。わかる、家の中で迷うなんて恥ずかしいと私でもそう思ってしまうかもしれない。
トイレの前で佇んでいたところによると、もしかしたらトイレに行く前に大人から「一緒に行こうか?」とか言われて「大丈夫一人で行けるから」というやり取りもあったかもしれない。それで迷子になったのだから、尚更恥ずかしさ倍増だ。私たちぐらいの年頃はちょっぴり背伸びをしたいもので、時には強がってしまうこともあるから。
「客室はここです」
ドアの前に立ち止まってその子を客室まで無事に送り届けた。彼が迷子になっていたことを知っているのは私だけ、でも周りの大人にそのことを口にすることもない。同じ年頃同士、ここは安心してくれという気持ちを込めて笑みを浮かべればその子は一瞬だけピタッと動きを止めた。
そして私は一度軽く頭を下げて自室へと戻った。大丈夫、邪魔はしてないはず。あとはお客様が帰るまでゆっくりと本でも読んでおこう、とトイレに行くまで読んでいた本をもう一度開いた。
「アリステア、少しいいかい?」
それからどれくらい時間が経ったのか、ノックが聞こえたかと思うと父上の声が聞こえて本から顔を上げる。急いでしおりを挟んで本を閉じ、ドアを開けた。
「どうしたんですか? 父上」
「お客様のお見送りをするから、アリステアも一緒においで」
「はい」
なるほど、大事な話は終わったからお見送りぐらいは参加していいということか。と納得して父上と手を繋いで門へと歩き出す。
目の前には立派な馬車に、見知らぬ大人数人。そして迷子になっていた子。その傍に母上と姉上が立っている。大人に囲まれているというのにまったく物怖じしない姉上はやっぱり強く、そして美しい。
「この度は本当に――」
その姉上が挨拶をしようとしていた時だった。あの迷子になっていた子がなぜかズンズンと、私に向かって歩いてくる。キョトンとするしかない私に対してその子の顔はなぜか少し赤くなっていて、尚更首を傾げるしかない。
「そのっ――婚約相手は、彼女では駄目だろうか?!」
その子なぜか大声でそう言ってみせたのだ。私のほうを指差して。
もちろんこの場の空気はピシッと固まった。そしてここで私は今日のお客様は姉上との婚約でやってきたのだと知った。先程の姉上の様子からしてその話は上手くいった、はずだったのだろう。この子がこんな暴挙に出るまでは。
いやいや、駄目だろうか? ではない。駄目だ。ほら貴方のご両親もとても驚いている。折角話が上手くまとまったのにそれをなぜ一々混ぜっ返す必要があるのか。突然のことで私の両親だって口を開けて固まってしまったではないか。
というのに、この場にいち早く動いたのはあろうことか、姉上だった。
「いいですよ?」
「オリヴィア?!」
「だって私よりもこの子のほうが歳も近いではありませんか。良いのでは?」
「い、いやいや、オリヴィア。よく考えてごらん? 無理な話――」
「いいのか?! オリヴィア嬢!」
「ええ。ライラック様、貴方がそう望むのであれば私も受け入れましょう」
私が唖然としている間に、姉上が、あれよあれよと話を進めてしまった。そしてこちらの了承なしにその子どもとの婚約が決まってしまった。
病気や怪我をしないようにと、我が家の習わしで男児は女の子の格好をするようにという決まりのもと、女の子の格好をしていた私にだ。
「もう無理ですよ! 隠せません!」
あれから数年経ち、幼い頃女の子の格好ができていた私もかなり苦しくなってきた。身長は伸びてしまい、今では『婚約者』とあまり変わらない。節々も未だに痛み、恐らくこれからも身長は伸びる。ヒールのない靴を履いているというのに膝を曲げて歩かなければならなくなってしまう。
スカーフか何やらで隠している首元は喉仏が目立つようになってきた。今はもう地声では話せない。喋ってしまえば声でバレてしまいそうな気がして人前で気軽にお喋りもできなくなってしまった。
柔らかかった手も随分と無骨になってきた。手のひらも大きく手袋をはめていないと確実に男の手だとわかってしまう。
「そもそも! あの時姉上が承諾してしまったからこうなってしまったのではないのですか?! 父上の言う通り無理は話だったんですよ!」
そもそも、無事結婚できたとしても子が成せるわけでもない。というかそれ以前にバレてしまう。こんな、いつまでも『婚約者』に対し女性を演じるのは無理な話だ。
「はぁ。ならばこう言えばいい、『婚約破棄をしましょう』と」
「こちらから言える立場ではないのにどうやって?!」
「まったく、ああ言えばこう言う。この家の当主は私だぞ?」
そう、とても頭のいい姉上はその手腕でメキメキと力を入れあっという間にクレヴァー家の当主になった。前当主の父上はというと、その手腕を認められ当主の座を姉上に譲ったあとは講師をしている。母上はそんな父上についていった。よって今のこの屋敷の主は間違いなく姉上だ。
「こ、こうなったらもう相手に正直に言います……!」
「いいじゃないか。お前は確実に裁判にかけられて虚偽罪で刑に処すことになるだろうがな」
「なっ……! そ、そうなったら姉上だって無事で済まされませんよ?!」
「そうなる前に手を回すに決まっているだろう。私にはこの家を守る義務があるからな~」
「そのために私を見捨てるんですか?! 酷い! 姉上流石に酷すぎません?!」
「だから言っただろう? お前があの時大人しく部屋に籠もっていればこうはならなかったんだ。自分の不運に嘆くんだな」
「ぐぬっ……!」
恐ろしいほどにまで頭の回転が早い姉上に口論で勝ったことなど一度もない。だから必死でお願いしようと思っていたのに。この姉上、完璧に私を見捨てる方向だ。何という姉だ、必死な弟の姿を見てそんなに楽しそうな顔をするものなのか?
「まったく、疎い子だな」
私の相手をしながらも仕事をする手を休めなかった姉上が、この時初めて手を止め指先で机をトントンと軽く叩いていた。
「こちらから言えないのであれば、向こうから言わせればいいだろう?」
「……ハッ!」
「こちらはまぁ、婚約破棄されたあとでもこの家は私が必ず守る。お前は気にするな」
「あ、姉上……!」
「大丈夫。路頭に迷うのはアリステア、お前一人だ」
にっこりと、綺麗で美しい笑顔でとんでもないことを口にした。
「あ、あ……姉上の人でなしぃーッ!」
私はもう、そんな捨て台詞を言ってその場から駆け出すことしかできない。私は姉上のように強かでもなければ賢いわけでもない。だからつい姉上に八つ当たりもしてしまう。
そうして私は涙を流しながら、ヒールのない靴とドレス姿で廊下を走った。
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