冥界渡り【小野篁異伝】

滝野れお

第1話 篁(たかむら)、モフモフを拾う。


 時は平安。

 京の都へ遷都してから二十五年が過ぎた、弘仁十年(819)の夏のこと。



『────そなた、本当に岑守みねもりの息子か? 馬や弓ばかりで、勉学を疎かにしているという噂は聞いておったが……』


 豪華絢爛な広間。

 高御座たかみくらに座すみかどが目を細めてそうつぶやいた時、たかむらは父について来たことを深く後悔した。


 陸奥むつから京へ戻り、父と共に参内してみれば、なまちろ瓜実顔うりざねがおの公卿たちが、扇の陰でクスクス笑いながら篁を見上げている。


「ほんに鬼子おにごじゃ」

取替とりかえっ子ではないか?」


 ヒソヒソと囁かれる声が、篁の耳に届いていると気づいていないのか。

 それともわざと聞かせているのか────。


 篁の父小野岑守おののみねもりは、帝が即位した折、七階特進で侍読じとうにまで上りつめた能吏のうりだ。春宮時代から仕えていたことで帝の信頼も厚い。


 その息子の篁と言えば、よわい十七にして六尺二寸(188㎝)の巨躯を持ち、精悍な顔はいかにも野山を駆け回っていたらしく日に焼けている。

 何処からどう見ても、ただの野生児だ。


 確かに、勉学を疎かにしていたことは本当で、言い返す言葉も見つからない。

 ただ、父を妬む有象無象どもだけでなく、帝にまで胡乱うろんな目で見据えられてしまえば、篁とて凹むのだ。




「くそっ!」


 くやしさいっぱいの篁の声が、夏の空へ吸い込まれてゆく。


 屋敷に戻って黙々と昼餉を食べたあと、篁はひとり遠乗りに出た。

 京の都は建物がひしめいているが、ひとたび鴨川を渡れば、辺りは夏草が生い茂るひなびた野山に変る。


 この野山は、かつて風葬の地であった鳥野辺とりのべ────人界と幽界との境目と言われており、生者が好んで行くような場所ではない。

 けれど、篁にとっては子供の頃からよく遠乗りに来ていた場所で、怖いと思ったことは一度もない。

 一人になりたい今の篁には、人の気配がないことが何よりも嬉しかった。


 うっそうと茂る夏草を踏み分けながら、ゆっくりと馬を歩かせる。

 林の中に分け入っても、強烈な夏の日差しは木漏れ日となって落ちてくる。

 キラキラ光る緑色の光に包まれているうちに、鬱々うつうつとした気分もいつしか和らいでいた。


 馬上のままぼんやりと辺りを見回していると、木の根元にほんわりとした白い毛玉が落ちていることに気がついた。


「あれは何だ? 狐の子か?」


 好奇心を刺激され、篁は馬から下りた。

 手綱を近くの木に繋ぐと、毛玉の傍に片膝をついて手を伸ばす。

 ────モフ。


「……キューン」


 白ふわな毛玉に触った途端、毛玉ははかなげな声で鳴いた。

 両手で掬い上げるようにそっと持ち上げると、毛玉の中から子犬の顔が現れた。


「狐じゃなくて犬の子か。おまえ、怪我してるのか?」


 言葉をかけると、子犬の真っ黒な瞳と目が合った。


「……オイラ、魔魅まみにやられたんだ」

「ええっ、おまっ、喋れんの?」


 驚くあまり、篁は思わず子犬を落としそうになったが、その拍子に子犬の尻尾がパサッと力無く垂れて、真っ赤に染まった腹の毛が露わになった。


「うわっ、腹をやられたのか?」


 血に染まった子犬の腹を、篁は大きな手で慎重に調べてみた。

 幸い腹に傷はなく、右前足の付け根に咬まれたような傷痕があった。

 篁は近くに生えていたドクダミの葉を引きちぎると、軽く揉んで傷口にあてた。


「大丈夫だ、傷は深くない。でもこのまま炎天下に晒されていたら、おまえの命は儚くなってしまうだろう」


 篁は狩衣かりぎぬの袖をちぎると、子犬を包んでそっと懐に入れた。


「少し苦しいかもしれぬが、我慢しろよ!」


 篁は馬に飛び乗ると、そのまま屋敷の方へ馬首を巡らせた。


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