再起(3)
「ごほん。それで……早速だが、ひとつやってもらうことがある」
友好の握手をした割に重くなってしまった空気を払うかのようにわざとらしい咳をして、皇太子は懐からもう一枚書類を出してくる。
今日のためにいったい何枚用意していたのか……。少なくとも、思い付きで契約を申し出てきたようには思えない。
「一か月後に行われる、帝国皇太子レイジ・ド・ポーラニアの婚約披露パーティーに婚約者として参加すること……?」
その書類には、皇太子の婚約パーティーが一か月後に行われること、その際に婚約者として私を大々的に発表することが記されていた。
そして、そのために必要な教養を身につけておくように、とも。
「そうだ。この大陸一の帝国・ポーラニア唯一の皇太子である俺が、一か月後に婚約披露パーティーを行うことはすでに帝国の全貴族家に招待状で伝えてある。婚約者はその場で発表する、とな。つまり、すべての貴族家は自分の令嬢が婚約者に選ばれなかったことをこの招待状で知っている。だが、誰が婚約者に選ばれたのかは誰も知らない」
「えっ、私がここにいることは……?」
「お前がここにいることは、皇室とその関係者だけが知っている。俺の側近であるセルジュと、お前の周囲に置く一部の人間だけが知っているが……こいつらは俺が信頼を置いている人物で、口は堅い。パーティーまでの間、お前の存在が外に漏れるようなことはないだろう」
「それは……」
皇太子の情報統制は想像以上に厳重だ。そこまでして私の存在を隠しておく必要があるのだろうか。
「事前に情報が漏れれば、貴族たちはなんとかしてお前と接点を持とうと動くはずだ。場合によっては暗殺なども考えられるだろう。しかし、そうなるとお前の準備が追いつかなくなる。一応聞くが、帝国貴族の顔と名前をすべて把握しているか?」
「いいえ、全然」
隣国とはいえポーラニア帝国の中心部は山脈を隔てて遠い。戦場での名乗りや定期的に交流をおこなってきた使節以外に接点はなく、人物名どころかどんな家門があるのかすらほとんど知らない。
「そうだろう。そうした情報を詰め込むためのこの一か月だ。その間に帝国貴族の顔と名前くらいは把握してもらわなければ困る」
「ええと……ポーラニア帝国の貴族ってかなりの数いらっしゃるのでは?」
「当然だ。だが、俺の婚約者として帝国貴族に立ち向かうにはそれくらい覚えてもらわないとな」
「はあ」
それはまた……途方もないことだ。本当に一か月で覚えられるのか、見当もつかない。
「それに、必要なのはそれだけではない。ステラリア令嬢、ダンスの経験は」
「幼いころに少しだけ。もう二十年近くやっていないわ」
国境間の緊張がそれほど強くなく、私がまだ令嬢としての嗜みを学ぼうとしていたころ……といってももう二十年前になる。
今や私は二十六歳。六歳のころにしていたダンスなどとうに忘れてしまったし、当時と今では体格もまったく異なる。そう考えると、経験などないに等しいだろう。
「それなら、ダンスの練習も必要だろう。まあ、それ以前に立ち居振る舞いや口調についてもいくらか矯正が必要か」
いわゆる淑女教育というものだろうか。確かに当時は私も貴族令嬢として淑女教育を受けるものだと思っていた。
帝国との緊張が高まり、衝突が発生するようになってからはそんな教養を得る時間もなく。戦争に勝つため、必要なことだけをするようになってからはもう随分と経つ。
昔と今では身長も変わったし、昔のダンス経験などあてにはならないだろう。
「えーと……本当に全部一か月で?」
「招待状はすでに送っている。今から取り消すことなどできない」
そこまで言うと、皇太子ははっと目を見開いて。
「……なんだ? 国境を守るために命を懸けて努力を積み重ねてきたステラリア令嬢が、己の命を守るためにこのくらいのこともできないのか? 諦めて今から処刑台に行くか?」
嫌味な微笑を浮かべながらそんなことをべらべらと投げかけてくる皇太子にイライラが募る。
「ふん、どうせこれができないと私の命はないんでしょう? お望みどおりやってやるわよ!」
勢いのまま、机をバンと叩いて立ち上がる。皇太子も微笑を浮かべたまま、それに続いて立ち上がった。
「そうだ、その意気だ。よろしく頼むぞ、ステラリア令嬢」
再び差し出されたその手を、私は叩くように強く握りしめる。
今はまだ他に頼れるもののない私にとって、皇太子の手は想像以上に大きく、力強いものだった。
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