【本編完結1周年記念番外編】北の白狼

神崎右京

第1話

 ふ……と気怠く長いまつ毛を押し上げる。

 全身の倦怠感にぼんやりとした頭でごろり、と寝返りを打つと、純白のシーツが衣擦れの音を立てて肌を滑り降りた。

 冷たい外気に晒され、ふるっ…と小さく肩が震えて、寝起きの明瞭ではない意識下で、あぁ、もういつの間にか季節は冬だったと思い出す。最後に屋敷の外に出て、季節の移ろいを感じる穏やかな時間を過ごしたのは一体いつだったろうか。

 滑らかな肌触りのシーツを摘んで、そっと身体を隠すようにしながら起こす。――今の自分は、生まれたままの姿だったから。


「……グレイ……?」


 部屋の中をぐるりと見回しても、目当ての青年――の外見をした長老のような<狼>――の姿が見当たらなくて、ぽやぽやした頭で考える。


(今はいつだろう…?こんな生活を続けてたら、時間がわからないな…)


 ふるふる、と頭を振ってから、げんなりとため息を吐く。透き通った瑠璃の瞳を物憂げに伏せて、そっと腰のあたりをさすった。

 <狼>の生態はヒトよりもオオカミの方に近い、といつぞやグレイ自身が言っていた言葉を思い出す。

 確かに、この無尽蔵の性欲と体力は、獣と呼ぶに相応しい。いっそ、野獣、と呼んでやろうか。


 東の<月飼い>の集落で祝言を挙げた後――祝言の途中にもかかわらず、グレイのかいで屋敷に転移した。転移した先が狙い違わずベッドの上だったのには本当に呆れた。

 そこから、相思相愛になれたことで番への狂愛を爆発させた<狼>に、時間と日付の感覚がなくなるまで軟禁状態でエンドレスの行為を強いられた。

 睡眠も食事も最低限しか必要としない身体というのは本当に厄介だ。それらを理由に小休憩を挟もうと画策しようと意味を成さないのだから。

 狂った様に暑苦しい愛と性欲をぶつけられ、限界に達したハーティアがいつぞやのように人形のようにして心を守ろうと防衛本能を働かせたところで、ようやくグレイは我に返ったようだった。

 愁いを帯びた顔で真摯な謝罪の言葉を発し、殊勝な顔を見せながら――「それでも離してやれない」と言って執着されるのは、もはや恐怖に近い狂気としか言いようがなかったが、それが”蜜月”と呼ばれる<狼>の習性だと言われてしまうと、ハーティアとしても強く言えなくなってしまう。


「お仕事……かな……?」


 結局、ハーティアの心を壊さないようにと、”蜜月”の本能に逆らうため、グレイはハーティアが気絶するまで散々抱いた後、ハーティアが寝ている間に長としての仕事をしに出かけるようになった。いつぞやのように、仕事現場にまで一緒に連れまわされ、自分の時間が一秒も得られない苦痛からは解放されたのだけは嬉しい。


「ナツメさんはどうしてるんだろう……戒を覚えたら一番最初に聞きに行きたい……」


 切実な独り言を漏らし、グレイが枕元に用意して行ってくれたらしき水差しから水を飲む。

 もうかれこれ三十年ほど”蜜月”が続いているという記録的カップルも、こんな感じなのだろうか。何を聞いたところで「はい、クロエ」以外の言葉を発しない美女が、一体どんな対策を取っているのかをぜひとも聞きたい。


「第一、<狼>って、ヒトと違って明確に繁殖期があるって言ってたのに、どういう――」


(……って、待って……?日付はわからないけれど、祝言からずいぶん経ったはず。ってことは、もう、冬だよね……?つまり――今のこの、グレイの絶倫具合は、繁殖期故のものなの――!?)


 ぱぁっと顔が明るくなる。

 そうだ。きっとそうだ。何かがおかしいと思っていた。

 祝言の時は、両想いになれたと歓喜したせいで歯止めが利かなくなったのだろうと思ったが、あれから数か月もたった今もずっと、顔を合わせるたびに胸焼けしそうな愛を囁かれ、際限なく身体を求められるなんて、ただの”蜜月”にしてはおかしい。一般の<狼>の"蜜月"は、最短で三日という記録すらあるらしいのだから。

 そもそも、グレイは少し特殊な<狼>だ。一般的な<狼>たちは、当たり前だが社会生活がある。”蜜月”だからと言って、仕事をはじめとする日常生活を数か月単位でおろそかにするなど――それが『習性』だとするなら、<狼>種族のシステムがそもそもおかしい。もっと早い段階で立ち行かなくなっているはずだ。


(この冬を乗り切ったら――!乗り切ったら、もう少し、私にも、自由が――!)


 思えば久しく太陽を拝んだ記憶がない。

 キラキラと輝く陽光を思い浮かべて、希望に胸をときめかせていると――


 ふぉんっ……


 白狼の転移に生じる耳慣れた音が、部屋に響いた。


「あっ、おかえりグレイ――」


 家主の帰還を察知し、音がした方を振り返ると――


「――……誰?お前……」


(ぇ――――?)


 見知らぬ絶世の美女が、静かに部屋の中に佇み、怪訝な顔でまっすぐにハーティアを見据えていた。


 ◆◆◆


 突如として現れた美女は、一言で言い表すなら、”純白”。

 雪のように白い肌と、印象的な切れ長の藍色の瞳。すらりと身長も高く、白銀のショートカットの髪型が随分よく似合っていた。

 真っ白な顔の中、唯一鮮やかな紅を引かれた唇が不機嫌そうに開かれる。


「誰、と聞いているのよ。私たちの族長の屋敷で、何をしているの」

「え……えっと……?」


 目の前の事態が全く飲み込めずに、じり……とベッドの中で後退る。

 美女の怪訝な視線に含まれるのは――明確な、敵意。

 何か言葉を発しなければと、必死に息を吸って唇を開いた、その瞬間。


 ふぉんっ――!


「ティア――!」

「ひゃっ!?」


 再び、耳慣れた音がしたかと思うと、すぐに後ろから身体を抱きかかえるようにして引っ張られる。


「ぐ――グレイ……!?」

「無事か……!?侵入者の痕跡がして、慌てて戻ってきた――!」

「だ、だだだ大丈夫、大丈夫だから、ちょっ……シッ、シーツをちゃんと纏わせて……!!!」


 突然のことで、生まれたままの姿を見知らぬ美女に晒す羽目になってしまった羞恥に顔を真っ赤に染め上げ、訴えるが、グレイは聞く耳も持たず身体を折るような勢いで全力で抱きしめ、ハーティアの無事を確かめている。顔面が哀れなくらいに蒼白なところを見るに、相当焦って戻ってきたのだろう。

 耳まで真っ赤なハーティアを見て、やっと無事を確認できたのか、グレイはホッと息をついた後、今度は燃えるような怒りを宿した黄金の瞳を、侵入者へと向ける。


「貴様――どこから侵入した――!」

「どこ……と、言われても。普通に、戒で、飛んできたわ」

「ありえぬ。同胞の白狼でさえ、ここを行き来出来るのは、私が許可を与えた限られた者のみ。北の果てに棲む白狼が、座標すら知らぬ私の屋敷に寸分違わず飛んでくるなど――」

「許可を得ているから、導きに従って、来ただけよ。そんなに驚くことでもないでしょう」


 ギリギリと敵意をむき出しにするグレイを前に、逆に困惑したような顔を見せる侵入者は、嘘を言っているようには見えない。

 美女は懐に手を突っ込むと、中から何かを取り出す。

 ころり、と掌に転がるのは、乳白色に金色の筋が入った天然石の欠片。


「今年は私が選ばれたの。毎年、この時期の恒例行事でしょう。貴方こそ、何を言っているの、グレイ?」

「何……?」


 全く話についていけないハーティアは、とりあえず両手で前を隠しながら、後ろから抱えたまま己を離そうとしないグレイを伺うように、そっと見上げる。

 一瞬、怪訝そうに眼を眇めた後――


「――あぁ、そうか。もう、そんな時期だったか。ティアが来てからそんな行事があることすら、すっかり忘れていた」

「へ……?」


 ふっとむき出しの敵意を霧散させると、ハーティアを解放する。

 あっさりと解放され、虚を突かれてたたらを踏んだ後、さっとシーツを手に身体を隠し、グレイを振り返る。


「あの、ぐ、グレイ……?」

「あぁ。すまなかった、ティア。お前に説明をしていなかった。さぞ驚いただろう。安心して良い。元々、あの石を持ったものは、白狼の転移の戒を使えばこの屋敷に入れる、という制約をつけて結界を張っている。敵ではない」

「いやそれはわかったけど――け、結局誰なの……?」


 チラリ、と横目で見やる。長身美女は、どこか不機嫌そうにハーティアを眺めていた。

 女心に疎いグレイは、にこり、と笑って手を広げ、謎の美女を紹介する。


「紹介しよう。彼女は、白狼の群れから派遣された――今年の私の繁殖候補だ」



「――――――――――は――――???」



 一拍遅れてハーティアの口から洩れたのは、十四年の人生の記憶にある中で、一番低い声だった。

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