傷だらけの聖女

壬黎ハルキ

第一章 ヤミと魔界の王族たち

001 懐かしい夢



 その日、世界が変わった――――


 実際には大きな町の中にある、とある小さな『舞台』だけに過ぎなかっただろう。しかし幼い少女からすれば、そこが世界の全てと言えていた。

 故にその崩壊を、現実として見なせなかった。

 有り体に言えば信じられなかった。

 昨日まで当たり前のように暮らしていたそこが、突如として巨大な眩しい光に呑み込まれてゆくなんて。


「はぁ、はぁ……っ!」


 少女は走っていた。周囲の激しい音がぼんやりと聞こえる中、狭い路地裏を必死に駆け抜ける。


「どこ? ねぇ! どこにいっちゃったのっ!?」


 周りには誰もいない。けれどそれ自体は、もはやどうでも良かった。

 一番大切な『あの人』がいない――それが少女の心に焦りを生み出させ、目から涙を湧き出させている。

 ずっと傍にいてくれた。それが当たり前だった。

 なのに今は、傍にいない。

 それが不安で怖くて仕方がない。


「かくれてないで、でてきてよ――せんせぇっ!」


 先生――その単語が少女の『全て』だった。

 自分の心を支えてくれる絶対的な存在。その人がいれば助かる。この訳の分からない状況から逃れられる。

 そう信じていた。


「ひっ?」


 しかし、それは儚い願いでしかなかった。

 巨大な眩しい光が迫り来る。どれだけ逃げても逃げ切れない。むしろ近づいてさえきているほどだった。

 必死に走る。たとえ足が抜け落ちようとも。

 そんな矢先に少女は――宙に浮いた。

 風景がぐんにゃりと歪む。

 狭い路地裏。そこら中に散らばるゴミに黒い水も、ゆっくりとスローモーションで絵を描くように流れる。

 地面に足がついていない中、少女は必死に手を伸ばした。

 見えない『誰か』が絶対そこにいる。今度は絶対に手を離さないぞと、無意識のうちに真っ白な空に向けて手を突き出していた。

 そして――


「――んぎゃっ!?」


 後頭部、そして背中全体に、強い衝撃が走った。朝日が差し込む小汚い天井をジッと見つめるその目は、瞬きすらしていない。


「……はぁ、はぁ……夢?」


 息を切らせながらも、思わず声に出して呟いた少女――ヤミは、未だ現実との区別がついていなかった。

 ほんの数秒前までは幼かったはずが、今は立派な十八歳の体となっている。

 寝間着のシャツは汗でびっしょりと濡れており、体に張り付いていた。段々とその気持ち悪さが、彼女を現実へと引き戻す。


「はぁ……なんつーもん見てんだかね、あたしってば……」


 硬い木の床に手を付き、ヤミはのそっと起き上がる。夢にうなされた挙げ句、ベッドから飛び出すように落ちた鈍い痛みは、まだ取れそうにない。

 部屋に備え付けられている小さな鏡に視線を向けつつ、無意識に髪の毛を触る。その真っ白なショートヘアは、汗によってペタンと肌に張り付いており、これまた見事に濡れていた。

 それが妙に、ヤミの心をどんよりと曇らせてくれる。


「はぁ……さいっあく! ここ、シャワーないってのにさー」


 安い宿だから仕方がない。シャワーがある宿屋はそれだけでも高い。ついでに言うと人気も高い。

 ましてやこの町には冒険者ギルドがある。

 そこを拠点としているランクの高い冒険者たちによって、シャワー付きの宿屋が月単位で根こそぎ貸し出されていることは、もはや冒険者としての常識と言ってもいいくらいだ。

 町から町へ、自由気ままに旅をする者であれば、それを覚悟して然るべき。

 ヤミもちゃんと心得ていることではあるが、自身が納得できるかと言われれば、全くの別問題であった。

 が――


 ぐうううぅ~~!


 不満を塗り替えてしまう自体もまた、確かに存在していた。

 無意識に視線を下げ、腹に手を添えながら、ヤミは小さなため息をつく。


「……お腹すいた。着替えて朝ごはんたーべよっと」


 ベッタリと濡れたシャツを思いっきりたくし上げて脱ぐ。他に誰もいない部屋だからこそできる行動だ。

 もっとも彼女の場合、別の意味でも無闇に人前で肌を晒すことはないのだが。


「ふぅ!」


 脱いだシャツをそのままタオル代わりにして、上半身を軽く拭いた。そのおかげで少しだけ気分がスッキリする。

 新しい長袖の白いシャツ、焦げ茶色のショートパンツに黒いタイツ。そして最後に使い込んだブーツを履けば着替えは完了。もう何年も変わらない格好ではあるが、その都度新鮮な気持ちにさせてくれるから不思議なものだった。

 そしていざ、宿の食堂へ。

 宿屋の主人の娘でもあるウェイトレスの少女に朝の挨拶を交わし、程なくして運ばれてきた朝食に自然と心を躍らせる。

 とは言っても、安さが売りの宿だけあって、メニューは質素なものだった。


(……まぁ、こうして食事が出てくるだけマシだけどね)


 それを重々承知しているヤミは、文句を言うつもりもない。むしろ腹を満たせる分ありがたい限りであった。

 パンとスープ、そしてサラダをモシャモシャとあっという間に平らげ、近くにいるウェイトレスの少女に視線を向け、手を挙げる。


「すみませーん。ちょっといい?」

「はい、何でしょうか?」

「追加料金払うから、お代わりもらってもいいかな?」

「あ、はい。それは承りますが……」

「じゃあこれで――どれくらいお代わりできる?」


 ヤミはスッと一枚の『金貨』を出した瞬間、ウェイトレスの目が見開かれる。


「え……あ、あの……!」

「あれ? もしかしてこれじゃ足りない?」

「いやいやいや! 逆です! むしろ足り過ぎですよ!」


 慌てて金貨を隠すように手を添えつつ、ウェイトレスがヤミに詰め寄る。


「これ一枚で十人前出しても、たくさんのお釣りが出せるほどです! なので……」

「あ、そうなんだ。じゃあそれで十人前頼むわ♪」

「……えっ?」

「別に急いでないから、ゆっくりでいいよー。んじゃ、追加よろしくぅ♪」

「は、はい……かしこまりました……」


 引きつった表情で頷くウェイトレスだったが、ヤミは気にしなかった。ついでに言えばウェイトレスが金貨を手に下がり、裏で父親である宿屋の主人に話した瞬間、盛大な驚きに包まれた声が聞こえてきたのだが、これも僅かな反応を示すだけですぐに記憶から除外してしまう。

 まだ朝も早く、食堂に他の客がいなかったのが幸いと言えるかもしれない。

 もしこの場に他の冒険者などがいれば、少なからずトラブルと化していただろう。安宿だからこそ暴れても大丈夫――そんな思考を持つ荒くれな冒険者も、決して少なくはないのだ。

 もっともヤミからすれば十分に予想の範疇であり、普通に対処できるからこそ堂々としていたのだが。


「お、お待たせしました……」

「どうもー♪」


 大量のパンとサラダをテーブルに置くウェイトレス。そしてスープを鍋ごと持ってきたのは、宿屋の主人だった。

 流石に一人で運べないというのは分かるため、ヤミも驚きはない。

 むしろ追加注文した朝食が届いたワクワク感のほうが、圧倒的に大きかった。


「では改めて――いっただっきまーすっ♪」


 ――バクバク、ガツガツ、モリモリ、モシャモシャ。


「んぅ~♪ うんまぁ~い♪」


 大量のパンとサラダを、ヤミは終始笑顔で見事なまでに平らげていく。スープも鍋ごと飲み干すのではという勢いだったが、流石にそれはと思っているらしく、ちゃんと器に盛り付けた上でグビグビと酒のように流し込んでいる。

 いずれにせよ、ヤミの勢いが周りを唖然とさせていることに変わりはない。

 ようやく起きてきた他の冒険者たちもまた、そんなヤミの異常な行動に目を丸くするのは、極めて自然なことだった。

 そしてヤミは、もの数分で追加の十人分を平らげ――


「ごちそーさまでしたっ♪」


 パンッ、と手を合わせて明るい笑顔を浮かべるのだった。そしてそのままゆっくりと席を立つ。


「それじゃあ、あたしはそろそろ行くよ。このままチェックアウトしてもいい?」

「あ、あぁ……」


 宿屋の主人は引きつった表情で頷く。そして追加注文した料金の釣りを受け取り、チェックアウトを済ませ、眩しい朝日が差し込む外へと出てきたのだった。


「――いやぁ、今日もいい天気だ」


 思いっきり両腕を突き上げるヤミの表情は、心から晴れやかであった。最悪だった寝起きの件は、もうすっかり記憶の彼方と化している。


「何気に美味しかったなぁ、あそこのパン……安宿もあなどれないもんだねぇ。まぁそれはそれとして……」


 幸せだった朝食の時間を軽く思い出していたヤミは、すぐさま今日の予定を思い返すべく、表情を切り替える。

 この後は冒険者ギルドへ行く予定なのだ。

 そこでとある人物と待ち合わせをしており、久々に会う人物ということもあって、ヤミは少しだけワクワクしていた。

 しかし、今は――


(まさか今になって『あの時』の夢を見るなんてねぇ……)


 別の意味で穏やかな笑みを浮かべていたのだった。

 決していいとは言えないその出来事。忘れたくても忘れられないそれが、時を経て夢となって唐突に蘇る。

 辛かった。痛かった。苦しかった。何も考えられなかった。

 そんな壮絶とも言える記憶を掘り起こすなど、不本意以外の何物でもないはずだ。しかしヤミは――


「……ハハッ♪」


 確かに笑っていた。強がりなどではない、心からの笑顔を浮かべていた。


(あの直後にあたしは『こっち』にやってきて……ホント懐かしいもんだわ)


 文字通り世界を超えてやってきた思い出を改めて噛み締めつつ、ヤミはギルドへの道を歩いていくのだった。


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