第39話 リンデルの魔女(その2)
自室に突然現れた猫の悪魔と、魔女になった叔父ギュスターブ。彼らとクロエの間である話し合いが行われた後に。
アンリの突然の「乱心」は、ギュスターヴによって伯爵に報告された。クロエはぐっと口をつぐみながら、その場に立ち会う。
「いけませんな兄上、これは……ただの乱心ではございますまい。悪魔憑きですよ。この家に、悪魔に身を売ったものがいるらしいですな。使用人か、いや、使用人ならばよろしいが……」
と、言葉に妙な含みを持たせながら告げたあとで。
「ともかく。この沙汰が教会に知れたら一大事。アンリはどこかに閉じ込めておくしかありますまい」
ギュスターヴのその言葉に、伯爵はその時、唯々諾々と従った。使用人たちに取り押さえられたアンリは、そのまま彼の自室に閉じ込められて。ひとまずの処置としてその部屋のドアは板と釘で打ち固められたのだった。
(変よ、おかしいわ……)
元来、クロエの父アルケーノ伯は高慢頑固で、そうたやすく人の言う事など聞かない男だった。たとえ結論は変わらなくても、もっとくどくどと相手を問い詰め追い込むのが彼の常だったはず。そんな彼だからこそ、これまで不羈奔放なクロエとずっと衝突してきたのだし、穀潰しの弟に対しても容易く甘い顔はみせなかったのに。
それがこの時に限って(しかもこんな異常事態に!)まるで塩漬けにされた青菜のように、やすやすとその穀潰しの言葉に従うとは。
そして「塩漬けの青菜」は態度だけではない。伯爵はそもそも、この一週間ばかりですっかり体が弱っていた。急に十年程も老け込んだように見える。何かの病気ではないかと、クロエは度々使用人たちから報告注意を受けていたのだ。
(まさか……いいえきっと!あの猫の悪魔!あいつが……)
父伯爵から、生気と意思の力を奪った。今やクロエにはそうとしか思えない。
そしてさらに。
「おおギュスターヴ、ギュスターヴ!なんてことでしょう!貴方だけが頼りよ、この家を悪魔から守ってちょうだい!」
そういってギュスターヴの胸にしなだれかかるのは、伯爵夫人、クロエの母だ。すぐ側に己が夫であり、この家の長たる伯爵がいるにもかかわらず!
もちろんクロエにはわかる。ただ事態を恐れているというだけではない。
今の母のそれは、盛りの付いた雌犬の、露骨なこびそのもの。
浅ましい、そう思いながらも。クロエの背筋に走る悪寒。
(魅入られているのね……あの悪魔の力で!)
「お任せを義姉上、さ、今は時間がございません。教会に気取られる前に始末をつけねばならないことがいろいろと……どうかお手をお放しください」
と、なおもすがりついてくる伯爵夫人を振り払うと、その場に棒のように立ち尽くしたクロエの傍を通りすがりざまに、ギュスターヴは耳打ちしてきたのだった。
「……わかっているなクロエ?猶予は明日の晩。その時答えを聞かせてもらおう」
何処へか出ていくその背中をみつめながら、クロエは血の味を感じながら唇を噛みしめた。
館の裏庭にある小さな池。そう、クロエは一人静かに考えに耽りたい時は、いつもこの場所に来る。
時は、兄に異変が起こったその日の夜半。
手入れの行き届かない裏庭は草茫々で、その池もドロリと濁り泡立っている。華麗に丹精された前庭とは大違いだ。濁った水面に写る月影をみつめながら、クロエは思う。
(この館も、住人も同じね)
かろうじて表向きの面目だけは取り繕っても、裏は、中身は腐っている。
(でもこの場所は、この家で一番腐っている私にふさわしい……ずっとそう思っていたのだけれど!叔父様、いいえ、ギュスターヴ!この私よりも!穢れて腐った卑怯者!!)
許せない、ただひたすらそう思う。だが逆らえない。
兄が猫に変えられたあの時、ギュスターヴはクロエに言ったのだ。
「私がその気なら。お前の気づかぬうちにお前に魔術をかけて、私の人形にしてやることも出来たのだ。義姉上のようにな。だがそれでは面白くない。
クロエ、お前は生意気だったよ。小娘だった頃から、ずっとこの私を見下して……実に気に入らなかった!だから。
私はな、お前が自分から私に頭を下げて服従するざまを見てやりたいんだよ。
そう……『身も心も叔父様に捧げます』、そう私に誓うんだ!
そうすれば……無論、他は全てもう私のものだが?アンリにかけた呪いだけは解いてやってもいい。どうだクロエ?考えて見ろ。もし私があれをあのまま教会に突き出せばどうなるか?悪魔憑きは、死罪だ!
クロエ。お前は昔から、アンリにだけは懐いていた。その兄の命を助けたければ!
……一日だけ待ってやる。明日の晩に答えを聞こう」
胸に燃え上がる灼熱の屈辱と怒り。兄を人質に取るギュスターヴの卑劣、それもさりながら。
(あの男、姪のこのわたしにまで、色目を使った!!)
クロエは足元に転がっていた拳大の石を拾い上げ、湖面の月に向かって投げ込もうとした。その冷たくしらばくれたような輝きが、自分を愚弄した叔父の顔のように思えたからだ。
だがその瞬間。
(何?!池が!!)
突然。池の面が真っ赤に燃え上がった。いや、クロエの目にそう見えるだけで、熱はまるで感じられない。
(何か……いるわ……炎の中に……動いてる、こっちに浮かんでくるわ!)
その異変に、しかしクロエは怯まない。いや、まるで吸い寄せられるようだ。池のほとりにしゃがみ込み、食い入るように覗き込むと。
(……蛇?いいえ、これは!!)
黒々とのたうつ、それは脚の無い竜。
それは池の奥深くから……いや奇妙だ、裏庭のその池はごく小さく浅いはず。だが今、クロエにはそれが海のように深く広く見えるのだ。そしてその深みから、遠くから、その姿はたちまち近づいて、ついに竜の顔が池の面と同じ大きさに見える距離までに。そして。
「おお、娘よ。会いたかったぞ」
燃える池の中から、竜はクロエに話しかけてきたのだった。
(竜、まさかこれって……別の……悪魔?)
「伯爵の娘クロエ。叔父ギュスターヴが憎いか?邪魔か?母の目を覚まさせたいか?父の窮地を救いたいか?……兄を人に戻したいか?」
燃える池の面、その下から語りかける声、その姿。
「そのお前の燃える怒りの心こそ、わしを呼び出すに必要な供物よ。ようやく満ちた。叶うぞ。全て叶う。わしに値を払い、お前がわしの魔女になるなら」
我が名は大蛇竜グロクス。彼はそう名乗った。
「わしはな?お前のことをずっと見ていた。前から気に入っていたのだ。お前がわしの眷属に、わしの血を受けた魔女になるなら。今度のことでも、そしてこれからも!
……わしの力をいつでも、全て貸してやるぞ?」
「……お前は」クロエの中に、驚きで飛ばした魂がそろそろと戻ってきた。無論恐ろしい。だが背筋に走る戦慄には甘美なときめきも混じる。彼女の美貌に群がる男たち、その品定めをするあの時と、それは同じスリル。
「どれほどの悪魔なの?ギュスターヴの猫、あいつに勝てるの?」
ごわごわと重く響くその音は、どうやら竜の嘲い声。
「ケット・シー?虫けらに等しい、わしの前ではな」
「そう……で?値って?何を払えと?わたしに払えるもの?」
「お前なら十分だ。わしはな?わしは、淫蕩な神である」
クロエの額に流れる冷たい汗。だがうらはらに唇には皮肉な微笑み。
「面白いのね。竜なのに?人間の女を抱きたいの?」
「お前はどうだ?竜に抱かれる気はあるか、ないか?
……お前にとってわしとの取引は、何一つ損はないぞ。望みが叶うその上に、およそ人間が誰も味わったことの無いような、深い深い愉しみまで味わえようからな」
「あら……貴方、お床のわざにもそんなに自信がおありになるの?ふふふ……竜のくせに!」
常に国人の言う、「リンデルの妖花、それは夜ひらく」と。オーリィの舌なめずりするようなその顔は、確かに余人にはみだらがましく見えたことだろう。
おお誰が知ろうか、その時のその花の心を!
(いいわ)クロエは思う。
(わたしはどうせ、伯爵家の面汚し。ずっと当たり前には生きられなかった、だからいつか惨めに人に処せられる定め。もうそれはとっくに覚悟していた。
でも!私に手を下すのが、あの卑しいギュスターヴだなんて、それだけはまっぴら!それならいっそ……)
人の命の最後を、竜に抱かれて散らすもいい。あの男に屈するくらいなら、そして。
(それでみんなを守れるのなら……!)
大きく一息吸った後、クロエは平静に、しかし決然と言い放った。
「確かにこのお話は、わたしに損は無さそうね。素敵。
……いいわ!グロクス、貴方にわたしの、この体を捧げる!
だから約束よ!わたしに、ギュスターヴとあの猫を倒せる力をちょうだい!」
「おおわかっておる、わかっておるとも……むむ、どれほど待ったことよ、もはやこらえられぬわ!!」
グイと体が引き込まれる。炎と燃える池の水面に、クロエの体は消えた。そしてたちまち、暗く冷たい色に戻ったそこには、わずかな波一つ立っていなかった。
(続)
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