第5話 『新宝島』の行方

横澤よこざわさんは『新宝島しんたからじま』という手塚治虫てづかおさむのマンガ、ご存じですか」

 梨里子りりこ康史郎こうしろうに尋ねる。

「ああ、中学生の時、征一せいいちが貸本を持ってきて『このマンガ家はきっと売れっ子になる』と褒めていたよ」

 康史郎は話しながら寝室兼仏間を見やった。

「祖父が亡くなる前、もうベッドに寝たきりになっていたんですが、私たち一家がお見舞いに行ったら『「新宝島」を読みたい、持ってきてくれ』と言ったんです。私が祖父の部屋にあった手塚治虫漫画全集から『新宝島』の巻を持って行ったら『これじゃない』の一点張りで。部屋の中を片っ端から探したんですが、結局それ以外の『新宝島』は見つかりませんでした。祖父はそれからすぐ亡くなったので、最後の願いに応えられなかったのが残念なんです。もしかしたら、祖父は貸本で読んだ『新宝島』のことを言いたかったのでしょうか」

「まさか」

 康史郎は顔色を変えると、いきなり座椅子から立ち上がった。そのままふすまの向こうに入っていくと仏壇にまっすぐ向かい、引き出しから何かを取り出す。戻ってきた康史郎の手には風呂敷包みが握られていた。

「梨里子さん、征一が読みたかったのはきっとこれだ」


 康史郎はテーブルの上に風呂敷包みを置くと開いた。中にはスケッチブックと『新寶島』というタイトルのマンガ本が入っている。

「わしが征一からもらったんだが、征一は忘れてしまったんだな」

「これが貸本の『新宝島』ですか。実物は初めて見ました」

「征一は露天の店で買ったと言ってたな。墨田川すみだがわで戦後初めて花火大会が開かれた夜だった。見てみるかい」

「はい」

 梨里子は慎重に『新宝島』を取り上げると、ページを開いた。かなり紙質は悪いようだ。

「祖父はどうして、これを横澤さんに預けたんですか」

 康史郎は座椅子に座り直すと、真剣な表情で言った。

「大事な話になるだろうから、録音しておいた方がいいな」


 梨里子がICレコーダーの録音スイッチを入れたのを確かめると、康史郎は話し出した。

「わしは柳子りゅうこと一緒に働いていたキャバレーの店舗を引き継ぎ、両国駅近くに自分のキャバレーを開いた。名前は息子にちなんで『ニューホープ』とつけた。昭和四十年のことだ。最初は経営も順調だったが、オイルショックが起こって客が店に来なくなり、店の金が回らなくなったんだ。わしは必死に立て直そうしたが、店は破産し、借金の取り立てが押し寄せてきた。そんな時に、一希かずきは高校のクラスメイトだったさか真優美まゆみさんと一緒に暮らしたいと言いだしたんだ。わしが反対すると一希は家出してしまった。柳子はわしと一希の仲を取り持とうとしたが、お互い意地っ張りでな。そのうちに、働いていた工事現場で土砂崩れが起き、巻き込まれた一希が亡くなったんだ。わしはボトルキープされていた客のウイスキーを毎日のようにあおり、何も出来なかった自分を責めてばかりいた。そこに征一が訪ねてきたんだ」

 梨里子は息をのんで康史郎の話を見守っていた。

「征一はひどく怒ってた。そんな姿を見たのは初めてで、わしの二日酔いも一瞬で覚めた。だが彼は『こうちゃんの危機に気づけなかった僕は親友失格だ』と自分に怒っていたんだ。征一はわしにこの『新宝島』を渡すと『僕の宝物だけど、借金返済の足しにして欲しい。昔の手塚作品は神保町じんぼうちょうの古書店で高く売れるそうだよ』と言った。わしが返そうとすると、『康ちゃんが一希君を亡くしたことに比べればなんでもない。僕は康ちゃんまで失いたくないんだ』と受け取ろうとしなかった。わしはこの本に頼らなくても借金を返そうと決意し、姉さんや柳子たちの助けを借りたが数年かかって返済したんだ」

「おじいさん、本当に横澤さんのことを心配されてたんですね」

 梨里子は『新宝島』を静かにテーブルの上に置くと尋ねる。

「それで、このスケッチブックも祖父の物なんですか」


 康史郎は麦茶で一息つくと話を続けた。

「その直後、『まつり』で働いてた啓輔けいすけさんが心臓発作で突然亡くなった。柳子と一緒に通夜に来たわしに、征一は『預かってほしい物がある』と言ってな。部屋に上がったわしにこいつを差し出した」

 康史郎はスケッチブックを開いた。手塚マンガのコマの模写や、身近な道具、建物のスケッチなどが何ページも描かれている。

「わしは征一がマンガの練習をしていたことを初めて聞かされた。同じ年頃の読者が雑誌に投稿して賞をもらい、手塚治虫と同じ雑誌に連載しているのを見て、自分もやってみたいと思ったんだそうだ。調理師学校や『まつり』の仕事の合間に描きためていたが、自分に一番足りないのは話を考える能力だと分かって、マンガ家の夢は諦めたと語ってくれた」

「おじいさんがそんなことを」

 梨里子はページをめくった。『まつり』の建物が描かれている。その隣はうまや橋のスケッチだ。

「『これからは僕が「まつり」と家を守らなくちゃいけない。引退するまで康ちゃんに僕の夢を預かって欲しいんだ』と言われ、わしはスケッチブックを受け取り、『新宝島』と一緒に仏壇にしまったんだ。しかし、返す機会を待っているうちに『まつり』は区画整理で閉店、征一は認知症になりあの世に行ってしまった。梨里子さん、良かったらこの『新宝島』とスケッチブック、君から征一に返してくれないか」

 梨里子は康史郎を見つめると頭を下げた。

「分かりました。征一さんの仏壇にお供えした後、私が大切に預からせていただきます」

「それがいい。征一もマンガ家の孫に見てもらえれば本望だろう」

 康史郎は風呂敷に『新宝島』とスケッチブックを包み直すと、立ち上がった。

「実は、征一にもらった物はもう一つあるんだ」

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