第43話 苦くて甘い、その後味を。

 花梨からの連絡は、割と早めにやってきた。

 雫の両親は紬の申し出に対し、特別言葉にしてもらう必要はないが、雫の見舞いに来た際に声をかけてくれるならば嬉しいよという話だったらしい。

 そう言って自分たちが見舞いに行く日を花梨経由で紬に知らせてくれた。


 花梨もさすがにそこで自分が一緒なのは空気が読めないからと言ってくれたことに、紬は素直に感謝する。

 いてくれても詫びるだけだ、とりあえずは問題ないが少々みっともない姿を見られるのはちっぽけなプライドがまたぐらりと揺れる。


 紬は、教えられた日を選んでバイトを休み、大学から直接病院に向かった。

 その移動途中で何度も深呼吸を繰り返す。


(……緊張してきた)


 雫の両親に会ったら、まずは彼女を動揺させて申し訳なかったこと、彼女は自分に会いたくないのかどうかを聞くこと、それでも紬自身は彼女に会いたいと思っていること。

 この三点だけは、濁さずきちんと話をするべきだと何度も何度も繰り返しシミュレーションした。


 花梨経由での発言を考える限りは、あの老夫婦が紬を拒絶しているようには思えない。


「――……やあ、紬くん」


 面会の手続きを終えた紬が雫の病室に向かう中、彼女の病室の前で待つ老紳士に思わず息をするのを忘れた。

 疲れ切った顔、どこか泣きそうで、それでも。


 それでも、彼を見る目は温かく、歓迎してくれているとわかった。

 ずくりとなにかを訴えるこの胸の痛みは、きっと罪悪感のそれだと紬は思う。


「忙しいのに、ありがとうね」


「いえ……」


「雫に会う前に、少しだけ時間をくれるかな」


「はい」


「ありがとう」


「……こちらこそ、すみません」


「場所を変えようか」


「はい」


 紬としては元々会うつもりであったし、それが病室ではなく廊下だっただけなので雫の父親の申し出を断る理由は何一つない。

 言われるままに踵を返し、エレベーターの近くにある小さなラウンジへと足を運ぶ。


 そこで雫の父親が自販機を前に「紬くんはどれがいいかな、缶コーヒーでいいかい?」なんて穏やかに笑いかけてくれるから、またぎゅぅっと胸が痛んだ。


「いえ、あの……自分で、買います」


「ははは、いいんだよ遠慮しなくて。年寄りの話に付き合わせるんだ、缶コーヒーくらい買わせておくれ」


「……すみません、じゃあ、その。ありがとうございます」


 穏やかに言われれば断ることもできずに感謝の言葉を述べて、紬は手渡された缶コーヒーをもってテーブルで待つ。

 ラウンジに、他の患者やその家族の姿は見られなかった。


「悪かったね、別にきみに電話をかけることが面倒だったとかそういうわけじゃないんだ」


「……はい」


「あ、座って座って。移動してきて疲れてるんだろう?」


 雫の父親の態度は、ひどく友好的で紬を困惑させた。

 紬からすれば、娘が気を失ったり動揺から呼吸困難に似た症状を起こしたりと散々な目に遭う原因を作った男を前になぜだろうという気持ちがある。

 勿論、責められないことはありがたい。

 同時に責めてくれれば良いのにという感情も拭えない。


(……相変わらず、俺ぁ勝手だな)


 そんな風に思いながら勧められるままに椅子に腰かけ、鞄を脇に置いた。

 この空気を誤魔化すように、缶コーヒーのプルタブに指をかけ、ぷしゅりと開ける。だけれど喉は少しも乾いていなかった。

 緊張で、ここにたどり着く前は喉がひりつくようだとすら思っていたはずなのに。


「雫は今、落ち着いているよ」


「……その節は、本当にすみませんでした」


「いやいや、きみのせいじゃない。……我々がね、いけないんじゃないかなって妻とも話していたんだよ」


「え?」


「一人娘が、可愛くて仕方ないんだ」


 へにゃりと笑ったその姿はどこか力なく、それでも愛しいものを語るごくごく普通の父親のようでありながら、なぜだかひどく悲しげに見えた。

 それに対してどう答えて良いのかわからない紬は、視線を落とすことで、逃げる。

 けれどそれに気が付いているのだとしても、雫の父親はそれについて言及することはなかった。


「娘がね、記憶がないとわかった時に、命があるだけで良いんだ……そう思うことにしたんだ。でも実際はね、幼い頃から一緒にいろんなところに言ったり、笑って、叱って、お互いに喧嘩して謝って、……そんなね、普通の積み重ねが失われたんだと思うと、やっぱりね。胸の内がぽっかり空いてしまったような気がしてね」


「それは、……それは、当たり前、じゃ、ないかと」


「ああ、うん。ごめんね、別に気を使わせたいわけじゃなかったんだ。ただ、それでね」


 疲れた老人の笑みだ。

 少なくとも紬にはそう見える。


「もっと辛いのは、雫だろうって。私たちだけは、どんな・・・あの子でも娘だから愛しているし、これからも寄り添っていこうって決めたんだ。まあ、親として当然だろうと言われればそのままなのだけれどね」


「……」


「だからね、あの子が『自分の過去がない』という負い目を、必要以上に背負い込まないようにとあの子の過去にまつわるものすべてを、捨てたんだ」


「えっ」


「引っ越しもしたし、わたしもあの子の側にいられるよう早期退職をして、妻はあの子の好物だからとかそんなんじゃなく、まんべんなく料理を作ったり……その上で、何もない日常を、作り上げていった」


「……」


 それは、どんなに途方もないものだったのだろう。

 過去は消えないものであり、雫がいる以上その幼い頃から愛していた彼女の両親は、それを捨てられるわけがない。ただ胸の内に、しまい込んだだけだ。

 だがそうしてしまい込まれた感情が、どれほど暴れまわるものかは未熟な紬でさえ理解できていた。

 特に、愛情と呼ばれるそれは時として暴走するし、膨らんで隠すことすらできなくなってしまう大切で、大事で、厄介な存在なのだから。


「でもね。ただ、逃げていただけなんじゃないかって、花梨ちゃんが諦めずにあの子と『新しく』友達になってくれて、雫が笑顔を取り戻してくれた時に、思ったんだよ。過去は、勿論……あの子を傷つけることもあるし、あの子の周りにいた人も辛い思いをさせることもあるだろう?」


「はい」


「その上で、あの子は、きみに会って……そう、きみに会って、自分のことをもっと知りたいと、そう私たちに言ってきたんだ。それで私たちは思ったんだよ」


 ああ、向き合うことを恐れたのは、傷つくことを恐れたのは、誰だったのか。

 過去に向き合うことで、何も覚えていない雫を見ることに怖れを抱いたのは誰だったのか。悲しみを抱いたのは誰だったのか。

 過去に向き合うことで傷つく彼女を見たくないと言いながら、傷つくのは果たして誰だったのか。


 置いて行かれるその感覚を、ただ傷の舐め合いのように誤魔化していたのではないのか。


「そんなこと、ないです」


 雫の父親が淡々とそう紬の前で吐露するその感情を前に、紬は絞り出すようにそう言った。

 咄嗟に出た、言葉だった。

 だけれど、心の底から思う否定だった。


「俺は……俺は、雫さんに会うのが、正直、怖かったです。でもそれは俺が前の雫さんと今の雫さんが別人だと思うから怖いんであって、実際に会ってみたら彼女は彼女でした」


「……あの子が、あの子のままだった?」


「そうです。そしてそんな風に思えたのは、俺みたいなガキが言うのはおかしいですけど、貴方たちが、彼女の側にいてくれたからで、俺を否定しないでいてくれたからで、雫さんを大事に想ってくれていたからで、決してそれは逃げてなんかいなくて、でも」


 でも、と思う。

 紬はそこまで言って自分が支離滅裂なことを口にしていると、そう思う。


 だから、一度深呼吸をした。


「でも逃げだったとしても、良いと思います。だって、お二方はずっと頑張ってこられたし、雫さんのことをとても愛しているのは、ほんの数回しか会ったことのない俺でもわかります。逃げたんじゃなくて、少しだけ、真っ向から行くんじゃなくて、ただ寄り道しただけだと思います」


「寄り道」


「こうやって、今、向き合うことを選択できるならそれは今まで逃げていたんじゃなくて、その準備をしていたんだと、俺はそう思います」


 紬は自分でも何を言っているかわからなかった。

 それでも高校生の時に、恋に病んで苦しかった頃にわからなかったことが卒業を間近に見えてきたこともあった。

 高校を卒業してわかることもあった。


 その上で、今までまるでわからなかった『親の気持ち』にわずかでも触れることもあった。

 だからこそ、今紬は思うのだ。


「雫さんに、会いたいです。また傷つけてしまうかもしれない、だけど、俺は今の雫さんとも、きちんと向き合いたいです」


「……そうか……すごいなあ、年を取るとだめだね、大事なものを見落としてしまう」


「そうでしょうか?」


「うん?」


「こうして、俺みたいな未熟なガキを優しく受け入れて、対等に話をしてくれる。それは、……それは俺にとって、うちの親父はもっと乱雑っすけど、……親ってすげえなって思うんです。大人ってすげえって」


「……」


「あっ、いやその、言葉遣いがっ……」


「いや、いいよ。それが紬くんの素なのかな。……若いうちは色々と失敗もするし、言葉遣いなんていつでも学べるさ」


 雫の父親が、コーヒーを飲み干して立ち上がる。

 紬もつられるように慌ててコーヒーを飲み干した。


「ありがとう紬くん。……雫もね、この間のことを謝りたがっていたから、時間内でゆっくりして言ってやってくれるかい。今日はもう私は帰らないといけないからここでお別れだけど」


「あ、はい!」


「……ありがとう」


 雫の父親が、また笑った。

 だけれどそれは、どこか力強くなった気がする。


 紬の舌に、苦くてほろ苦いコーヒーの味が残った。

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