第32話 受け止めきれない現実

 帰りは、無言だった。

 泣き出してしまった花梨を、雫の両親が送っていったのを見送って、紬と紡はいつものようにバスに乗り込んで帰路に着いたのだ。


 だが。

 卒業という晴れやかな場を経験して気が抜けたというよりも、ずっとずっと気落ちしている二人の様子に、途中すれ違う近所の人でさえぎょっとしたものだ。


 そのくらい、彼らの表情と顔色は、優れなかった。

 

 理由は、単純明快だ。

 雫の父親が言った、もう自分たちと雫は、会うことはないのだという事実。

 そして、それがなぜなのか、だった。


 家に帰りついて、式から先に帰ってきた両親も息子たちの様子にぎょっとする。

 家族で祝おうと準備をしていたらしい母親が、何事かと彼らに問うてもぱっと答えられなかった。


 紡が何かを言おうとして口を閉ざし、口をより引き結んだのが紬だ。

 そんな彼らの様子に何かあったのだろうと察した両親が、とりあえず着替えて来いと部屋に追いやってくれたその優しさに、二人は素直に感謝する。


「……どうしよう、まだ受け止めきれねーわ」


 部屋に入るなり呟くように言った紡に、紬は何も言えず眉を顰めただけだ。

 ずるり、と力なくへたりこむように床に座り込んだ紡と、荷物を机の上に放り投げて自身はベッドに寝転んだ紬。


 彼らの中に、重くのしかかるのは、雫の父親の言葉だ。


『雫は、進行性の病気を抱えていた』


 絞り出すような声は、震えていたと思う。

 涙を零す妻の肩を抱きながら、父親として何を思っていたのかはまだ若い彼らには想像もできない。


『手術は、必要なことだった』


 それを怯える雫のことは当然だと受け止めつつも、命を大事にしてほしくて毎日病状が悪化していないか心配でしょうがなかった。

 現実を受け入れるには雫は若く、夢も希望もあった分だけ絶望も大きかったのだろうと親として彼女の心が受け入れるまで待つしかなかったと続けられて、紬たちが何も言えなかったのは当然のことだ。


 だが雫が高校生になって、病状が一気に悪化していく。

 もう待てない状況まで来て、雫が手術を受ける代わりに、少しの間だけ高校に通いたいと主治医と両親に相談したのだ。


 そして、通って、出会って、笑い合って。

 

『娘が笑うようになった。ずっと沈んでばかりだったから、元々は明るい娘だったんだ。それが戻ってくれたようで、我々も、嬉しかった』


 懐かしむようなその笑顔に、違和感を覚えたのはどうしてだろうか。

 雫の両親の様子は、まるで昔を懐かしむ、それそのもので。

 病の癒えた娘のことを喜ぶ姿とは、何かが違う。けれど、その何かを察するには彼らには情報が少なすぎたのだ。


『ありがとう』


 感謝の言葉を口にして、なぜ彼女と道が交わらないと言うのか。

 問うに問えぬ彼らに、雫の父親は次の言葉を継げようとして、飲み込んで、口を開いて。


 なかなか言い出せぬそれは、苦悶の表情であった。

 それ故に重大な何かがあったのだということは紬たちにも察することができた。

 そもそも雫は、この手術に関して“後遺症が残る”と記していた。

 恐らくはそれが理由に違いないのだろう。それ故に雫が自分たちに会いたくないと言っているのだろうか。


 そんな風に顔を見合わせて思う彼らに、雫の父親は言ったのだ。


『雫は、すべての記憶を無くしてしまった。そう、すべての』


 病気に関して、彼らは詳しく説明しなかった。

 ただ、その手術の結果、雫の命は救われ――そして、彼女の記憶は失われたというのだ。

 それこそ、ここ最近の記憶などという可愛いものではなく。


 家族のことも、自分のことも。

 

 目が覚めた彼女に歓喜した両親を見て、彼女は茫然としていた。

 ここはどこだ、あなたたちは誰だ、これはなんだ、あれはなんだ、――自分は誰だ。

 そう矢継ぎ早に口にして、自分の体に巻かれる包帯や脈拍などを計るためにつけていた器具にさらなるパニックを起こしたのだという。


 いくら説明しようとも、記憶のない彼女にしてみたら恐怖だったに違いない……そう言った雫の父親が、紬たちを騙しているとは思えなかった。

 そのくらいに彼らは憔悴していたし、花梨に対して説明ができなかったことも辻褄が合ったからだ。

 恐らく目が覚めるまで確定的なことは何も言えなかったのだろう。

 そして目が覚めても、後遺症はあまりにも大きかったのだ。それがこの卒業式という結果なのだ。


「会えないのか」


 ぽつりと紬が呟いた言葉が、やけに部屋に響いた。


 理解はできる。

 記憶のない雫からすれば、両親すら覚えていないというのに昔からの友人であったという花梨だけでなく、自分たちまで現れれば混乱に拍車をかけるに違いない。

 知らない人だと言われれば、自分たちだって傷つかずにはいられない。

 新しい関係を築けば良いだろうという安易な答えは、出るはずもない。


 だってそれは、新しいものでしかないのだ。

 今まで共に笑った雫ではない、新しい雫なのだ。彼女であることは違いないとしても、それは今までと同じわけではないのだ。


 同時に、彼女の側からすれば自分が失ったものを知っている人々といることは、何も思い出せない罪悪感との戦いにだってなるだろう。


 それならば、いっそ。

 いっそ、なにも交わらなければいい。

 それが最愛の娘を守る、雫の両親の決断だったのだろう。


 その決別として、卒業式に来て証書を受け取り、雫と仲の良かった人間に現状を話し理解を求め、謝罪しに来たのだ。


(わかってる)


 紬の胸の内が、ぐるりとまた渦巻いた。

 雫の両親の方が、辛いに決まっている。

 自分たちのことすら覚えていない、愛する我が子。それでも生きてくれたことが嬉しい、否定されることが辛い。

 そのくらいは想像できる。


 想像はできる。


 だけれど、そこまでだ。


「くそったれ」


 思わず口をついて出た悪態は、一体誰に向けての悪態なのか紬にもわからない。

 全てを知って、後遺症がないことに可能性を賭けて去った雫になのか。

 娘可愛さに、自分たちから雫を遠ざけた彼女の両親になのか。

 泣くばかりでてんで話にならなかった花梨になのか。

 おろおろして、普段の饒舌さを忘れた紡になのか。

 何も知らないままにお祝いムードそのまま笑っている周囲になのか。


 すべてを、受け入れられない未熟な自分に対してなのか。


 誰かのせいにしたくても、誰のせいにもできない現状と、何もかもを覆せない時間に対して無力な自分が嫌になる。

 花梨に恋をしてからずっと、すべてがから回っているようだ。

 そんな風に思ってしまう自分もまた嫌で、紬は吐き気を覚えてぐっとそれを堪えた。


「……どうすりゃいいんだろうな」


「知るかよ!」


 紡の声に、怒鳴り返してから紬は背を向ける。

 ああ、そうだ。

 どうすればいいんだろうか。


 雫のことを思い出として、これからの・・・・・彼女のことを知らないまま縁を失ってしまうべきなのだろうか。

 彼女の幸せを望むなら、それが雫の心を守ることに繋がるのなら、それが良いに決まっている。


 だけど、自分たちの気持ちはどうなるというのだろう?

 友達を思いやるならば、そう言われたとしてもあんな別れ方をしてしまった友人にもう一度会いたいと願うのは、罪だろうか。

 忘れ去られていたとしても。

 いいや、忘れ去られている現実を目の当たりにして、受け入れられるのかと問われればそれも即答できるはずなどない。


 答えなんて、見つかるはずもなかった。

 ただわかっているのは、泣いてしまった花梨も、うなだれた紡も、……子供のようにそっぽを向いてしまった紬自身も。


 今は、そのままでいられない、ということだけだった。

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