第29話 ゆるやかな変化
どうして、なんて言葉はもう紬の口から出ることはなかった。
花梨に縋りつかれて八つ当たりされて泣かれて、散々な目に遭いながら紬の口からは何一つ言葉として出てくることはなくなっていた。
そのままの二人を見つけて駆け寄ってきた紡も、二人の様子にぎょっとして何が起こったかはわからないまでも、良くないことがあったのだと気づいたのだ。
雫のことは、再度、花梨から雫の両親に聞いてみることに落ち着いた。
手紙の内容は、それぞれ各自で話す話さないは自由で、ちゃんと読んであげてほしいと花梨が泣きながら紡にも渡していた。
どうして、なんて言葉はもう紬から出ることはなかった。
ふとした時に、雫のことを思わずにはいられないが、口に出すことはなかった。
花梨が泣きべそのまま帰り、紡と紬も自分たちの部屋に戻る。
なぜか、何も言えないまま、夜そのまま彼らは眠りについた。
どうして、何もしゃべれないのだろうか。
どうして、いつも通りに眠れるのだろうか。
どうして、いつも通りに目が覚めるのだろうか。
目が覚めても彼女からの手紙はあって、読んだ後に零れた涙の意味もわからないままの紬に紡が何かを言いたそうにして、止めた。
結局のところ、紡もろくに喋らないまま、お互い静か
そしていつも通り花梨がバス停で待っていて、三人で登校した。
無言だった。
そして、担任から雫の休学についての知らせがあった。
端的に病状の悪化のため、という説明だった。
卒業式には間に合わないかもしれないし、見舞いその他は遠慮してほしいとご家族から希望があったので……という間延びした説明を耳に、紬は窓の外をぼんやりと見る。
(休学か)
雫の手紙や、花梨が彼女の母親から受けた説明を考えれば、手術の予想は芳しくないものであろうことは想像に難くない。
卒業式も共に迎えられない雰囲気であったし、むしろ今後一生会わないくらいの覚悟が雫の方にはあったようにも思える。
それでもあえて『休学』としたのは、雫の両親が彼女を思いやっての手続きだったのかもしれないなと紬は思った。
それから、……それから、紬は黙ったままだ。
話しかけられれば応えるし、きちんと生活もしている。勉強も順調だった。
親は紬の変化に気が付いて心配もしたが、受験のストレスだろうと納得していた。
紡だけが、時折「大丈夫か」と声をかけたが紬の答えはいつも同じだった。
「大丈夫だ」
何が大丈夫なのかは、紬にもわからない。
だが案じられるほど身体にも精神にも不調があるとは、彼には思えなかった。
ただ、雫がいないまま時間が過ぎていることが、奇妙なだけだった。
時間は着実に進んでいて、夏休みが来て夏期講習を受け、そして秋を迎えた。
残暑だなあなんて会話を耳にしながら、淡々と紬は受験に向けて準備をしていく。
「……早いよな、もうすぐ受験だもんな」
「そうだな」
「紬はA判定出たんだろ」
「ああ」
悩んだ末に、両親とも話し合った結果、紬は大学に進学することになった。
父親の店を継ぐにも、知識と経験は大事だと諭されたからだ。
別に専門学校で実技を学ぶのでもいいと思ったのに、それは後からでもできると父親に言われた。その眼差しの強さに、折れたのは紬だった。
やれることもやらずに、手身近なもので満足するな。
お前に与えられた時間を、無駄にするな。
少し前の紬であれば、父親のその言葉も綺麗ごとだと不満でぶつかっていったことだろう。
だが、紬は喉まで出かかった文句を、ぐっと飲み込んだ。
それを、紡は見ていた。
「わかった。できることを、勉強してくる」
金銭面での負担は、大きいだろう。
結局のところ、奨学金を借りなければどうしようもないという結論に受験の準備だけでなく返済計画も頭に入れて、紬もバイトの量を調節するようになった。
紡は、専門学校に進むことになった。
両親は難色を示したものの、入学から必要な金銭の一部を自分で貯めていたという実績が説得の決め手だったと思われる。
「俺は、俺のやりたいことをやるよ。でも一人で勝手なことはしない、約束する」
両親の反対を、強く振り切ってでも……逃げ出さず、笑顔で曖昧にせず思いの丈をぶつけたのは、紡にとって勇気の要ることだった。
二人は、どちらからともなく顔を見合わせて、口にこそ出さなかったがそれが雫がいなくなった影響だと思ったのだ。
彼女は『学びたくても学べない』状況にあった。
彼女は『やりたいことをやれなかった』状況にあった。
それに比べて、自分たちはどうだろう?
選ぶことも、ぶつかることも、できるのだ。
そうでなくては「どうして自分たちにきちんと別れも言わずに姿を消した!」と文句を言うのも憚られる気がしたから。
「……今ぁ、なにしてんだろうな」
見上げた空は、雲一つない青空だった。
あれからだいぶ時間が経つというのに、なんだかんだとちょくちょく花梨が様子を聞きに行っても雫の両親は何も教えてくれないらしい。
手術のことも病院のことも、病気のことも、成功したのかしないのかも。
それでも彼女を拒絶しないのは、まだどこかで雫とつながりがあるのだと思えば紬は『いつか』を考えずにはいられない。
あの時、彼女の想いを受け入れられなかったのは、変わらない。
けれど、緩やかに自分たちに変化があってそれは間違いなく雫の影響だった。
(綺麗な想いなんかじゃなかったよな)
―― あなたと、恋がしたいです。――
あの文字に目を奪われて、手紙の主が誰かも知らない頃に見た時はなんてお綺麗な恋を夢見るものだろうなんて思ったりもしたものだ。
自分がねじ曲がった恋情に苦しんでいたから、特に。
それでも、雫が最後にくれた手紙に宿る苦しさは、自分のものとまた違った苦しみがあってそれがいかに自分が幼く、綺麗なものを欲していたのかを思い知らされた。
それと同時に、無性に雫に申し訳なくなった。
すでに色々と、申し訳なかったのだけども。
――あなたと、恋がしたかったです。――
そう結ばれた言葉に、どれほどの苦みを味わっただろうか。
あの手紙も、この手紙も、今も手放せない。
雫への気持ちが何なのかは紬にはわからない。
それでも、少なくとも『会いたい』と思っているのは間違いなかった。
そのためにも紬は歩みを止めることはできなかった。
緩やかに、変化していく環境を受け入れて、雫がいないという不自然さを受け入れて、まるであの日あの時そのまま取り残されたような気持ちを持ちつつも、彼は間違いなく大人に近づいているのだ。
「紬」
「なんだよ」
「……なんだか奇妙な感じだなあと思ってさあ」
紡が笑う。
それの意味が分からなくて紬が首を傾げれば、同じ顔をしても違う笑顔が向けられる。
「オレとお前、ずーっと一緒だったからさ。進路が変わって違う道に行くんだなって思うと、ちょっと変な感じだ」
別にバイトが同じだとか、一緒の高校に進まなければなんて思ったことは一度もない。
ただなんとなく当たり前のように、こうして同じ道をたどってきた。
多少なりとも違って、けれども同じで、共に歩いてきて、きっとそれはこれからも変わらない。
歩む道が違っても、共に歩んできたものは同じなのだ。
だからこそ、紡は不思議でならないと言う。紬にもそれはなんとなく理解できた。
だから、二人はまた顔を見合わせて、笑った。
「あーあ、一人暮らしとか憧れるよなあ!」
「当面、学費で迷惑かけちまうからな。無理だろ」
「わぁってるよー。でも進路も別だし一人暮らしなら花梨のこと呼べるのになーって思ったんだよ!」
「へえへえ、惚気をごちそーさん」
ゆったりとした変化は、紬の花梨へ向けた想いにも変化を起こしていた。
彼女を愛しく思う気持ちは、変わらない。
ただそれが、ゆっくりと過去形になるのを紬は感じ始めている。
時間は、過ぎていく。
そこに確かな変化が、あったのだ。
雫が、いないままで。
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