第15話 紬と雫

 眠れないままベッドでじっとしていた紬だったが、寝たふりを続けた。

 紡は当たり前のようにシャワーを浴びた後、二段ベッドの上に登っていった。

 起きているとは思っていないのか、或いはもう声を掛ける理由も無かったのか。

 次第に聞こえてきた紡の寝息に、紬はただぎゅぅと胸の前でこぶしを握るしかなかった。


(ああ、ままならねえ)


 ぐるぐるとしたものを抱えたままに朝を迎えた紬だったが、紡はいつも通りだ。

 いつものように笑顔で周囲に挨拶をし、隈を作った紬にも笑みを浮かべて「……体大事にしろヨ?」なんて言うのだ。

 まあ、それは笑顔と呼ぶには苦さばかりが滲んだもので、こいつも大概不器用だ、なんて紬は内心思うのだけれども。


 結局なにかを言うわけでもなく、いつも通りに朝食を食べていつも通りの時間に出て、二人肩を並べてバス停に向かい、乗り込み、共に座るのだ。

 そして無言のまま揺られて、互いに違う方向に視線を向けて、何も変わらない一日の始まりだ。


 眺める窓の外の景色に何か大きな変化があるわけでもなく、紬はただ茫洋とそれを眺める。

 その隣で、紬を気にすることもなくポケットから取り出したスマホで音楽を聴く紡の頭が少し揺れた。


「そういや」


「ん」


「テスト勉強どうすっか」


「……紡はいいのかよ」


「オレがヤバいんだろ、何言ってんの紬チャン」


「……やるならちゃんとやれよ?」


「ハイハイ、おまかせーってね」


「頼りにならねえ!」


 おどけた様子で言ってくる紡の軽い調子に、同じような調子で返せば彼がへらりと笑う。

 それにつられるように紬もなんとか笑った。きっと、不格好な笑みだったに違いないと紬は思うが紡は何も言わなかった。


 彼の方もやはり思うところはあるのだろう、だがそれを決して見せない。笑顔しか見せない。

 それは、紬には真似のできないことだった。


「そろそろ着くからイヤホンはずせよ」


「はいはいよーっと」


 それでも紬は知っている。

 紡が、イヤホンを本当は外したくない気分であろうことを。言われても直ぐにポケットに突っ込んだ手を出さないのが、如実にそれを表していた。

 

(紡も花梨に対してどうしていいのかわかんねえ事とか、あんのかな)


 好きだってだけじゃだめなのか。

 そもそも好きって何なんだ。


 答えの出ないそれは、少なくとも『好き』という単純かつ複雑な、矛盾した内容に支配された気分だった。


「紬」


「ん」


「今日はさ、オレ、花梨と帰るからお前先帰ってて」


「わぁった」


 いつもより、幾分か硬い声。

 それに思うところがないわけではないが、何かを言えるわけでもなかった紬は短く応じるだけに留めた。


 定刻通りに着いたバス停で、いつものように待っていた花梨の表情も僅かに硬いものだった。紬と視線が合った花梨が、ほんの少しだけ泣きそうに表情を歪めた事には何故だか罪悪感がくすぐられたが、すぐに視線を逸らされて紬はほっとしてしまった。

 彼女の、その隣に佇む雫がそんな二人の様子に気が付いたのか気が付いていないのか、紬のそばに寄って「おはよう」といつものように声を掛けた。


「おう」


「……大丈夫? 隈、凄いよ」


「ちっと寝れなかっただけだ、なんてこたねぇよ」


「なら、いいけど……」


 いつものように、紡と花梨が並んで前を歩く。

 いつもなら積極的に腕を組んでいく花梨が、もどかしげに手を伸ばしては引っ込めて、そんな事を繰り返しているのが視界に入って紬は思わず顔を顰めた。

 その様子に驚いた様子の雫の事も視界に入って、慌てて紬はなんでもない、と彼女からも視線を逸らす。


「……なんか、日差しが強い気がしただけだ」


「う、うん。やっぱり、具合悪い?」


「大丈夫だよ、気にすんなって」


「うん……」


 紬が視線を前に戻した時には、紡と花梨は手を繋いで歩いていた。

 どちらから手を伸ばしたのだろう、なんとなくそんな事が気になったが答えはわからなかった。聞かなければわからない、ただそれだけのことだったのだけれど。


「ね、紬くん」


「あ?」


「あのね」


「ああ」


「今日、あの……帰り、少しだけ時間くれないかな」


「帰り? おう、かまわねえけど」


「ほんと!? ありがと……!」


「なんだよ、大袈裟だな」


 下駄箱で紡たちと別れて、教室に向かう中で思いつめた様子の雫に声を掛けられて、ただ帰りの約束をした。

 紬からすればその程度の認識だった。

 だから、雫がほっとして、泣きそうで、悲し気で。

 そんな複雑な表情を浮かべる事に、理解ができなかった。


 それでも、その表情には、何故だか心当たりがあって紬の心が、じくりと痛んだ。


(……なんだ?)


 胸の奥で、何かを思い起こさせるそれを知りたいような、忘れたいような。

 教室に入って、机に荷物を置く。


「おはよーさん!」


「おはよー!!」


 賑やかで、ざわついた教室もいつもの光景だ。

 この風景も今年で終わりかと思うと紬の中で僅かに不思議な感覚が起こる。寂しいにも似たそれは、それでも少し違う。

 だからと言って、センチメンタルな気分になったのかと問われると大分違う気もしたので紬も周囲に挨拶をしながら椅子に座った。


 今日もいつものように教師がやってきて、授業を受け、受験を前に気を引き締めろだのなんだのお決まりの台詞を聞かされて、それを大半の生徒が聞き流して、そんな当たり前の一日が始まるのだ。

 紬はさっそくやってきた睡魔に、くぁ、と大きな欠伸を噛み殺しもせず浮かべて鞄の中身を乱暴に引きずり出した。


 その際に、かさり、と封筒が一緒に飛び出してきて、紬は動きを止めた。


(……忘れてた)


 誰からかもわからない、差出人不明の手紙。

 それが誰なのかを知りたかったのはつい最近で、その気持ちを聞きたい気持ちは今もある。


『あなたと、恋がしたいです。』


 短いその文章は、今もその便箋の中でひっそりと息づいている。

 そしてそれを目にした紬の中にも。

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