第5話 その感情に、名前はない。
ごろり、とベッドの上で寝返りを打つ。
昼休みの保健室は、サボりの常習犯がよくいるものだがその前の時間に来た紬の姿に保険医がベッドに休ませて、そういった連中を追い返してくれたおかげで静かだ。
その保険医も、先程校長が呼んでいるという声に出ていった。
具合の悪い人間がいるから静かにというような札を扉に貼っていくから安心して休んでいろと告げて去っていく姿に、素直に感謝する。
雫に伝言を頼んだおかげなのか、それとも他に理由があるのか、ちょっとだけ紡が様子を見に来ただけで他には誰も来ない。
おかげで、遠くから聞こえる生徒たちの歓声くらいで静かなものだ。
(今頃、紡たちはメシ食ってるんだろう)
大丈夫だと思っていたが、雫が言っていたように本当に具合が悪かったらしい。
紬は自分の腕で目元を隠し、こみ上げてくる嘔吐感をやり過ごす。
熱はなかったし、単純に気分が悪くて食欲がない。
きっとこれは考えすぎのせいだと彼も思うが、まさか失恋が理由だなんて情けないことを保健医に言えるはずもなく「ただちょっと寝不足で」と告げた紬はぐっとそれらを飲み込んで耐えるしかできなかった。
(そういや、ガキの頃もこんなことあったな)
まだ母親に、紡とワンセットで扱われるような、どこに行くにも手を繋いで歩いていたような子供の頃。
紬はよく、熱を出す子供だった。
対する紡はそういったこととは無縁で、その分不安なのか紬の横にへばりついてよくわんわん泣いてどっちも親を困らせたものだ。
あの頃は、それで良かった。
世界は、家の中にしかなかった。
時々出かけて別のものを見る、それだって親と紡が常に共に居た。
それが、いつしか親から手を離し、親も自由にさせてくれて、世界が広がっていって、ただ小さな子供だったものがそれぞれに何かを手にする。
それがすなわち成長というものなんだろうと紬も思う。
紡と自分がそっくりなのに、いつの間にか違うのだと理解したその時と同じように、気が付いた時には違うものなのだと理解できていた。
同じような服を着て、同じようなものを食べて、同じものを見て笑っていたのはいつ頃までだったんだろう。
今だって同じようなことはするけれど、違うこともたくさんする。
ああ、あの頃に戻れたらどれだけ楽になれるのか。
恋なんて知らない。
世界の全部がキラキラして見えていた子供の頃なら、こんな苦しい気持ちは知らないままで済んだはずだ。
(……花梨)
何度も、何度も、どうして自分ではだめなのかと心の中で叫んだ。
それでも答えは出るはずもない。
だって花梨が好いたのは紡であり、花梨の気持ちは花梨にしかわからない。
紬の気持ちを、紬しかわからないように。
もしかすれば紡は他の人よりは、少しだけ紬の気持ちに気づいているのかもしれないけれど、それでもすべてではないことは確かだ。
「紬くん、起きてる?」
「……雫、か」
「大丈夫? 午後の授業出れそう?」
「まだ、無理」
カーテン越しにかけられた躊躇いがちな声に、紬は目を覆っていた腕を少しだけずらす。カーテンの向こうに、少女の影がゆらゆら、揺れていた。
問われたことに簡潔に答えると、彼女は次の言葉を探すように左右に体を揺らしているのがわかって、少しだけそれがおかしかった。
「それじゃ、あの、先生にはそう言っておくね」
「ああ」
「花梨ちゃんたちもね、心配してたよ!」
「……そっか」
花梨。
その名前にぐっとまた胸が苦しくなる。
もう手に届かない、この恋は終わったのだとわかっているのに苦しくなる。
紡は誰よりも、大切な兄弟だ。羨ましいこともあるし、時には憎らしいくらいなこともある。だけれど、今一番信頼できるのが誰かと問われれば紬は紡の名前を挙げるだろう。
そのくらいに、彼は兄弟を信頼して好いている。
だから花梨が、自分の好きな人が恋をするのだって本当は理解できる。
もし彼女に恋をしていなければ、むしろ誇らしい気持ちにだってなったかもしれない。
そう、もしも紬が花梨に恋をしなければ。花梨が紡に恋をしなければ。
ありえない仮定だけれども、もしそうだったなら、きっと今、紬はこんなに苦しまないで済んだのだ。
それを思わないわけではない。だけれど思ったところで、変わらないのが現実だ。
この感情は、なんだろう。
諦めも、失望も、狂おしいほど求めている気持ちも、幸せを願う気持ちも、色んなものがない混じる。憎らしさだってそこにある。
どうして自分と同じ顔をしているのに、紡が望まれたのか。
どうしてこんなにも想っているのに、花梨は気づいてくれないのか。
どうして、自分は、何一つこの気持ちを言葉にできないでいるのか。
紬の中でぐるぐると渦巻くその感情に、彼は名前を付けることはできない。
一生、理解できる気がしない。
(俺だけなのか。それとも、他の人もそうなのか)
気が付けば、雫の姿はカーテンの向こうから消えていた。
またこみ上げ来る気分の悪さを飲み込んで、ぐっと腕を閉じた瞼に押し当てる。
外からは、明るい笑い声が聞こえてくるが、もう紬の耳には届かなかった。
目を瞑り、音を無視して何も考えないように。ただそれだけだ。
そうすると、気分が和らぐのだ。
一時的なことは紬も分かっている。
それでもそうやってやり過ごさなければ、彼は耐えられそうになかった。
忘れたい。
あっさりと諦められれば、楽なのに。
どうして自分はこうも諦められず女々しいのかと何度だって自分にイラついた。
それでも変わらない。変われない。
こうして心が歪んでいくのを、紬自身が感じている。
どうしてよいのか、誰に助けを求めればいいのか、それすら彼には分らない。
誰かに聞けば楽になるのか、それとも吐露すればよくなるのか、それは己の情けない部分を晒すことで、躊躇われるし相手も思い当たらない。
もし花梨の相手が紡でなかったら、紬はきっと相談していた。
それでもそれは叶わない。
声を上げることもできなままに、ただ自分の中で渦巻く感情が少しでも凪いでくれることを願って、こうしてややり過ごすくらいしか思いつかないのだった。
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