葉桜の君に
ある晴れた日に
仏は常にいませども うつつならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ
(仏は常にいらっしゃるけれど、現実にそのお姿を見ることができないことが、しみじみと尊いことだ。人の寝静まった物音のしない夜明けごろに、かすかに夢の中にそのお姿をお現しになることだ)
――――――『梁塵秘抄』
清々しく緑風がそよぐとある日の朝、ある湖にお住いのさる龍神さまが毎年楽しみにしていらっしゃるお花見へとおでかけになりました。
「梅はぁ咲いたぁか桜はまだかいな~柳ゃなよなよ風ぇ次第ぃ」
得意の端唄で喉を震わせ、ご機嫌るんるんな龍神さまでございましたが、地上近くを我が物顔で泳ぐ者どもの姿を見咎められ、ひゃああと頭を抱えられました。
「いかん、寝過ごしたかぁああ」
賢明な読者のみなさまは既に御察しのことでありましょうが、時候は新緑の候、龍神さまが大好きな桜花爛漫の候は終わってしまっていたのです。
時の感覚がダイナミックな龍神さまは、時折こうして季節を間違われてしまうのです。
「くっそう、あいつら。登龍前の身分のくせにでかい顔して悠々としおってからに」
腹立ちまぎれに龍神さまは色とりどりになびく鯉たちをディスり始めます。かわいそうに。あの者たちとて、ここに幼子がいると天の神さまに知らせてご加護を請うのが役目なのだから、目立ってなんぼなのです。
「やれやれ、せっかく出てきたというのに」
翠緑に輝く長いおからだで中空にらせんを描きながら思案されていた龍神さまは、やがてご満悦な様子で秋津洲の西へとお顔を向けられました。
「まあよい。葉桜見物もオツというもの。わしぁ違いがわかるドラゴンだからの」
呵呵と大口を開け金色のひげをそよがせ、龍神さまはご機嫌を直されたようです。とっても単純な方なのです。
霊峰富士を下に見つつ優雅にお散歩を再開してすぐ、龍神さまは頭のてんこがこそばゆくおなりになりました。
「なんじゃらほい?」
金色の瞳を上向けてごらんになると、そこにはびっくり、桜色の衣をまとった童女がちょこんと座っていたのです。
「ふぁっ!? いつの間に!」
「良い日和じゃのう、葉太」
「葉太ってだれ!?」
「わらわは桜子、であるならそなたは葉太じゃ」
童女はころころと笑って龍神さまのてんこを撫ぜます。
「葉太。ほれ、葉太。桜子をどこへつれて行ってくれるのじゃ?」
「うう、もうメンドクサイ」
龍神さまは桜色の童女のことは深く考えず、当初の予定通りまずは南下して桜前線を辿るお散歩を再開されました。とってもおおらかな方なのです。
龍神さまのお花見は、すなわち、馴染の古木をおとなう旅路でもあります。
醍醐桜に三隅大平桜、出水のしだれ桜に根尾谷の淡墨桜、狩宿の下馬桜とどちらも孤高の姿は健在です。
堂々たる幹から悠然と枝を広げ、その傘の下に集う人々を包み込む姿は神仏方もかくやという佇まいです。龍神さまがお好きになるわけです。
多くは古くから生育する山桜で、染井吉野と異なり、開花と一緒に芽吹く赤味がかった柔らかな新葉は、今では緑濃く艶やかに成長し涼やかな木陰を樹下の人々に提供しています。
まだちらほらと残っている白っぽい花のその場所に、じきに小さなさくらんぼが顔を出すのかと思うと、それもかわいらしゅうございます。
「ふぉっふぉ。やはり葉桜もオツよのう。わしは花見の玄人じゃからに」
悦に入った龍神さまのてんこの上で、桜色の童女もうんうんと嬉しそうに微笑みます。
「あのようにどこへでも人が集うて、みな桜が好きなのじゃのう。葉太も桜が好きなのじゃな」
桜は
人々にとっても春告げる花の代表格、田植えの時期を教えてくれる大切な花です。
その下で憩い、遊び、食べて歌って踊って飲んでまた食べて、ときに笑い、ときに泣き、ときに楽しみ、ときに悲しみ。移ろいゆく樹形の元で流れる人の心も千差万別。
「泣いたり笑ったりみな忙しいのじゃのう。葉太もそうじゃ。人も樹も、見てやらねばならぬことどもが多くてタイヘンなのはわかるが、肝心のわらわを放っておくとはどういうことじゃ」
葉太ってだれ……口には出されず、龍神さまはそよりとたてがみをなびかせて桜色の童女を乗せたまま、再び霊峰富士の上空に差し掛かりました。
まだ冷気をはらんだ風が吹き抜け、龍神さまのおひげをなびかせます。
「へっっぷち!!」
こらえきれず体躯を弾ませ大きなくしゃみをした瞬間、御手から光の粒子が弾け、風に踊って地上へと降り注いでゆきました。
「え」
桜色の童女はびっくりした顔で龍神さまのてんこを叩きます。
「これ、葉太。良いのか、宝珠を握りつぶしてしまったではないか」
「たまにやってしまうのじゃ。ついつい力が入ってのう。なにあんなもの、ただの形じゃ。にぎにぎしていないと手持無沙汰ゆえ、なければ困るが替えは利く。ほれ」
空っぽになってしまった御手を上向け、ぬぬぬっと龍神さまが集中されると、そこへはすぐに空色の新しい宝珠が出現しました。
「おお、すごいな葉太!」
「かっかっか。当り前じゃ。わしをそこいらのドラゴンと一緒にするでない。我こそはくず……」
「それにしても葉太」
喜色満面で得意げに名乗りをあげようとされていた龍神さまをダイナミックに無視して、桜色の童女はしみじみと眼下を見渡しました。
「ずいぶんな大盤振る舞いじゃのう」
降り注いだ龍神さまの神力に行き当たった者は幸運です。きっと悩める者こそ、その神力に触れて少しの勇気や閃きや希望を得たことでしょう。
人の悩みも千差万別。理解されない辛さも、先がわからない不安も、自分を見てもらえない心細さも、亡き人への悔恨も、言い尽くせぬ執着も、たとえ人の道を逸れた宿業に迷い込もうとも。
どんなものにも等しく降り注ぐ、それが神仏の光というものです。
神や仏は、姿は現さなくてもそこかしこに宿って見守っておいでです。不意に気配を感じられることもきっとあるでしょう。春を告げるあの花を見上げる視線の先に、きっと。どんなあなたにでも。
「よいのじゃ、よいのじゃ。わしはたまにやってしまうのじゃ」
「みな、桜の木の下で仲良うしておるなあ」
「リア充め!」
「わらわも、わらわの葉太のところに帰るかのう。これ葉太、わらわを送って行ってたもれ」
「うぬぬ、別の男の元へ送り届けろとは。やるのう」
愉快そうに目を細め、龍神さまは請われるまま南に向かわれます。
「ううん……こっちはあのおっかない青龍の縄張りじゃが。まあ良いか。ささっと行ってささっと帰れば」
「おお。ここで良いぞ。ありがとうな、葉太」
「もう家出するでないぞ」
「それはわらわの葉太しだいじゃ」
瞳を上向けられた龍神さまにふわりと笑んで、桜色の童女はぱっと黄金色のたてがみの間から姿を消しました。
「うーむ……」
ふと、ずうっと以前にもあの童女に出会ったことがある気がして龍神さまは首を傾げてみましたが思い出せません。
「まあ、良いか」
思い出せないことなど、龍神さまにはたくさんございます。なぜあの湖に縛られ、なぜ雨を降らせて豊穣に一役買わねばならぬのか。はるか昔のことなどおぼろに霞んではおりますが、小さな者たちとの約束は守らねば、と龍神さまは律儀に思っておられるのです。
花が散り新緑を迎え、田植えが終わればいよいよ龍神さまの出番です。ですけど、昔とは同じとゆかぬところが龍神さまの悩みの種であったりするのです。
以前より大気や海水の温度が上がったことで、気象を操ることが龍神さまにとってさえ難しいことになってきたのです。
地球温暖化――この変化をもたらしたのが人々の活動の故だとするなら、詮無きことではありますが、それでも龍神さまは約束を守ってやらねば、とお考えになっていらっしゃるのです。
(よいのじゃ、よいのじゃ)
人も神も仏も、巡り来る森羅万象のことどもに過ぎず、みなひとつの命。たとえ命は滅びようとも、また来る春のその日まで、みな息災に。
春を惜しみながら、嬉々として夏を迎えんとしている地上の風景に目を細め、龍神さまはまたのんびりとお散歩を続けられたのでありました。
※自主企画「筆致は物語を超えるか【葉桜の君に】」 https://kakuyomu.jp/user_events/1177354054895319694
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます