第23話


 ナディアが自室の扉を開けた瞬間、ヒュっと鋭い音がしてその艶やかな黒髪を掠めるようにしてナイフが壁に刺さった。


「……私を殺すつもり?」


 壁に刺さったナイフを抜き取るとポイっと窓際にいるラーナに投げる。


「だって、最近ナディア構ってくれないんだもん」


 へらっと笑いながらラーナがナイフを受け取り鞘に戻した。


「別に構ってないわけでは……」

「あら、イーサン様とばかり剣の稽古してるじゃない。あっ、気にしなくていいのよ。仲良きことは素晴らしい」


 ナディア達の「白い結婚」を知らないラーナはそう言ってウフフと意味ありげに笑う。


 ラーナとの部屋での稽古に限界を感じ、イーサンに公爵邸の裏庭で剣を振りたいと頼んだところあっさりと許可が出た。ただ、意外なことにイーサンも稽古をすると言い出した。「こっちにきてから体がなまっている」という至極まっとうな理由だったし、ナディアとしてもたまにはラーナ以外と稽古をしたかった。


 そんな成り行きで始まったのが三か月前。婚約披露パーティーから数日後のことだった。夏の日差しが厳しくなってからは朝食前にするのが日課になっている。


「今日はどっちが勝ったの?」

「……イーサン様」

「えっと、何勝何敗になるんだっけ?」

「知らない」


 ナディアはむすっとした顔で答えると、シャツの襟元を緩めた。剣の稽古をする時は騎士団の服を着ている。辞めた時に返しそびれそのままになっているもので、手持ちの服の中で一番動きやすいからだ。


 立派な体躯と路地裏で弓矢からとっさにナディアを庇った動きから、それなりの腕前だと思っていたけれど、予想以上にイーサンは強かった。


 イーサンが留学の名目で住んでいた東洋の国の剣は、片刃で中央部の幅が広くなってやや湾曲している。刃自体にも厚みがあり、重量と遠心力を利用して斬りつけることで、威力を発揮する。イーサンの太い腕から繰り出される一撃は重く、受けているだけでも手が痺れ体力を奪われる。


 一度持たせてもらったけれど、ナディアでは片手でそれを自由に操れないほど重みがあった。もっともナディアの感じる「自由」というレベルであり、イーサンが思わず目を見張るぐらいには操っていた。



 いつものように朝食前に湯浴みをしようとしたけれど、やけに窓の向こうが賑やかだった。どうしたのだろう、と思いながらベランダに出ると左側に見える教会の方から幾人もの声が風に運ばれて聞こえてきた。


「朝からどうしたのかしら?」

「明日の用意をしているんでしょ。明日は精霊際だから」


 隣に来たラーナがバルコニーから身を乗り出すようにして教会の方をみる。


 カーデラン国と旧ルシアン国はかつては一つの国だった。それが数百年前に別れ現在また一つになったわけだが、元が同じなので言語と宗教は共通している。


 この国の宗教、海に囲まれた帝国で語り継がれてきた聖女の物語り。


 かつて近海の海は化け物の巣窟だった。セイレーンはその声で船人を惑わし海に誘い込んだ、月と海を支配する魔物の目を見た者は石となり六本の腕に絡めとられて海底に引きずり込まれる。それら化け物を封じたのが可憐な容姿をした聖女だった。その瞳から零れ落ちた涙の雫が暗い海に吸い込まれた途端、海が真っ白に光り魔物たちは浄化され消え去った。


 その聖女が産まれた日を祝うのが精霊際だ。「聖女」ではなく「精霊」という名がついているのは、聖女の容姿が妖精のようだったから。そのため教会にある聖女の像も、幼さの残る丸く愛らしい目にぷっくりとした唇、華奢な手足の可憐な姿をしている。そしてそれがそのまま美の基準ともなっている。


「カーデラン国ではお祭り騒ぎはしなくて、ミサが粛々と行われるらしいわよ」

 

 ラーナがバルコニーの柵に肘を突きながら話す。侍女服もすっかり板についていた。


「じゃ、今年の精霊際は露店も花火もないの?」

「あなた、何も聞いてないの? イーサン様が今まで通りの風習を尊重するっておっしゃったから露店も花火もあるわよ」


 根底となる宗教は同じでも、国が分かれると信心深さや祭りの仕方は独自に変化していく。カーデラン国は子供が生まれれば教会で祝福を受け、毎週末は家族でミサに出て、精霊際は親しい者で集まって聖女を称えながら食事をする。


 それに比べ旧ルシアナ国は教会に行くのは結婚式と葬式程度、精霊際はお祭りだ。


「イーサン様はルシアナ風の精霊際は初めてでしょう? 誘って出かけてみれば?」

「でも、いきなり公爵様が露店に現れたら皆びっくりするわよ?」


 祭りには貴族も顔を出す。イーサンが公爵となって五ヶ月、顔を知っている者も増えてきている。


「変装すればいいじゃない。それに公爵様だからこそこの街の風習を知っておく必要があるんじゃない?」


 そう言われればそんな気もしてきた。ナディアがどうしようかと迷っているとラーナが顔を覗き込んできた。


「朝食、今日も一緒に食べるんでしょ? そろそろ湯浴みしてきたら」

「……成り行きでそうなっただけよ?」


 この三か月で成り行きで稽古をして成り行きで朝食を摂るようになっていた。


(白い結婚と言われて冷遇されるのかと思ったけれど、大事にされている、と思う)


 女性として大事にされたことがないから、よく分からないけれど、この三カ月で送られた宝石やドレスを見れば蔑ろにされてないことは分かる。思えばアンディは三年間も婚約期間があったのに、プレゼントひとつくれなかった。


 結婚式まであと四ヶ月。結婚してから三年。

 そうしたら、ナディアは自由になる。

 

(このまま平和に時が流れればいいな)


 妹の我儘から解放され、剣を振るうことも非難されない。自分らしく呼吸できるのはどれぐらいぶりだろう。

 ナディアは、自分の背中にある羽根が伸び伸びと広がっていくように感じていた。


 そして、そんな開放感を与えてくれたイーサンと過ごす日々が、胸の中で大きな価値を持ち始めていることに、まだ気づいてはいなかった。

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