第3話


「おいおい、大丈夫か?」


 ジルは慌てて酒を取り上げたけれど、もう一滴も残っていない。

 ナディアは本格的に酔っぱらってきたようで頭がぐらぐら揺れ始めている。


「愚痴ならいっぱいあるわよ」

「そうか、例えば?」


「妹に婚約者を取られた」

「……は!? 妹?」


「そう、い・も・う・と」


 その言葉にジルは目をパチパチとする。次に妹、婚約者、と口にした。そしてその顔から笑みが消え、頬が引き攣ってきた。


「あの子はいつも私の物を欲しがるの。人形も、ドレスも、婚約者も。ま、あんな軽薄な男は喜んであげるけど。でも、それだけじゃない、あの子は気乗りしない結婚を私に押し付けてきたの」


 ナディアはマスターを呼ぶと先程と同じ酒を注文しようとした。でも、ジルがそれを遮り極々弱い酒を頼んだ。


「別にいいけど。貴族に生まれたからにはこれが運命だと諦めるしかないわ」


「……バードン、随分酔っているな。やっぱり帰ったほうがいい。この酒を飲んだら店を出よう。送ってやるよ」

「やだ!! 今夜は思いっきり飲みたいの。付き合ってくれるっていったじゃない」


 ジルが立つのを促すように肩にかけた手を、ナディアは払い除ける。そして先程ジルが頼んだお酒を飲み始め、……記憶がなくなった。





 

 ナディアは馴染みのない寝台の上で目覚めた。重く痛む頭に手を当てながら目だけ動かすも、やはり見慣れぬ天井に薄汚れた壁。ベッドは硬く、シーツはごわごわしていた。


(ここはどこ? 昨晩は確か見知らぬ男と酒を飲んで……)


 そこまで思い出し、慌ててシーツを捲る。


 上着こそ脱いでいたが、シャツもズボンも身につけている。身体に異変も……感じない。

 そこまで確認すると、重い身体を起こした。すると部屋の片隅に、床に座ったまま背を丸めて壁に身体を預けるようにして眠るジルの姿が目に入った。見ようによっては、何かに怯えるように隅で丸くなっているようにも思える。


(私、何もしていないよね)


 酒乱の気はなかったはずだけれど、記憶がなくなるまで飲んだのは初めてだった。


 とりあえずベッドから降りる。女とバレたかな、と胸元を見ると何も遮る物がないので足元がはっきり見えた。ようは、出っ張りがない。


 複雑な気持ちで、これならバレていないかと思った時、肩からはらりと髪が一房溢れ落ちた。慌てて頭に手をやると帽子がない。見回すと、ベッドの片隅にジャケットと帽子が置かれていた。


 ナディアはもう一度部屋の片隅で丸まる男に目をやると、彼が紳士でいてくれた事に感謝した。


(ここまで羽目を外すつもりはなかったんだけど)


 ちょっと反省する。いや、かなり反省した。


 音を立てないようにジャケットと帽子を手に取り身につけると、男を起こすべきかどうか考える。


(紙とペンがあれば、礼のひとつでも書き残して、黙って立ち去れるのだけれど)


 見たところ安宿だ。そんな気の利いた物はない。ポケットに何か入っていないかと手をつっこむと固い物を指先に感じた。


 取り出してみると、赤い口紅。

 後輩に頼まれるまま男装したナディアに、たまには口紅ぐらいつけなさいと同じ女騎士のラーナが苦笑いしながらくれた物だった。


 ナディアは口紅を見て考える。


(クレヨン代わりに使って壁に書くのはだめ……よね)


 ふと、プリシラが口紅を塗った唇で手紙に口づけしていたのを思い出した。最近のことだ。たまたま用事があって家に戻ったナディアが、リビングで目にした。プリシラは酷く慌てていたから、あの手紙はアンディに宛てた物だったのかも知れない。今更気づいても遅いけれど。


 ナディアは寝起きで頭がぼぅっとしていた。酒もまだ残っている。だから、それはちょっとした判断ミスと悪戯心だった。


 赤い口紅を鏡を見ることなく唇にひくと、ジルの前に跪く。騎士らしくジルの大きな手を掬い上げると、その手のひらにキスをした。


 真っ赤な唇の跡が残ったのを見て、ナディアはふわりと微笑んだ。もともと整った顔をしている。紅を塗り色香を足せば充分魅惑的になる。


 でも、この部屋中は鏡がない。ナディアは親指で口紅を拭い取ると、帽子を深くかぶり部屋を後にした。




――バタン――


 ドアが閉まる音がして、男は目を開けた。もちろん、今起きた訳ではない。


 はぁ、とため息をつき曲げていた足を投げ出した。


 すれ違った時、やけに綺麗な少年だと思った。飢えた船乗りが、この際男でも良いかと思ってもおかしくないような容姿で颯爽と歩いていた。


(危なっかしいな)


 そう思って振り返ると、女を助けるために路地裏に向かって行った。自分も向かうべきかと考えているうちに路地から女だけが逃げてきた。


(あの少年はどうした?)

 

 気になって覗いて見ると、麦酒瓶を持った男が殴りかかろうとしていた。考えるよりも先に身体が動き、男の首に手刀を食らわせ気絶をさせた。なんとなく見過ごせなくて迷っている振りをして声をかけ、流れで一緒に呑んだ。


 酒も強く、聞き上手。頭の回転も早く、初めて聞くだろう異国の話をすぐ理解する。こんなに楽しく飲むのは久しぶりだ。気の合うヤツには会えそうで中々会えない。


 ついつい、いつも以上に飲んでしまい気付くのが遅くなった。


 途中から違和感は感じていたが、妹、婚約者と聞いてはっとした。


 こいつ、女だ。


 帰るように促すも、腰を上げようとしない。酔い潰れた女を残して帰るわけにはいかず、途方に暮れる羽目になった。


 周りを見ると、隣の男が視界に入った。ナディアの方をじっと見ている。これはまずいと、強引に店を出ようとしたら、パタリと机に突っ伏して寝はじめた。


(おいおい、どうすんだ、これ)


 まさか、そのままにも出来ず、女の腕を肩にかけ引き摺るようにして店を出た。いっそ抱き上げた方が歩きやすいぐらいだが、側から見たら男が男を抱き抱えているように見える。 


 今日を厄日とするか、美人を拾った幸運な日とするか。酔った頭で紳士の決断をした俺にはいいことがある筈だ。


 そのまま引きずり、女を近くの宿に放り込んだ。このまま帰るかと思ったが、女は寝ているので鍵がかけられない。どうするかと思っていたら、女がムクッと起き上がった。


 良かったと思ったのも束の間、いきなり帽子を床に投げ捨てると、上着を脱ぎ出した。


 おいおい、ちょっと待て。

 こっちも酒が回っていて、ぎりぎりなんだ。

 いろいろと。


 胸のボタンに手を掛ける女を慌ててとめると、トロンとした目で見上げてきた。思わずゴクンと生唾を飲む。


 気づけば、細い女の肩に手を置いていた。そのままゆっくり女をベッドに沈めると、


 ありったけの理性を総動員して、布団をかけた。


 よくやった、俺。


 そんな訳で、当然寝れるわけもなく朝を迎えた。


 目覚めたら女は、騎士らしく俺の手を取ると、ご褒美を手の甲に残して消えていった。


 くそっ、嬉しいのか悔しいのかよく分からない。


 赤い紅の跡がついた右手で前髪をかき上げる。頭を後ろの壁につけ天井を仰ぎ見る。


 何で、このタイミングで出会うんだ。

 胸に宿った熱は消えそうに無かった。

 

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