第30話 託されたバトン
その間、ずっと夏人の柔らかい髪を撫でていた柊は、少しずつだが、夏人が落ち着いてきているのを感じた。
「夏人、大丈夫か?」
「ん…」
顔を上げた夏人の目は真っ赤に充血し、すっかり腫れ上がっていた。
頬には、くっきりと涙の跡が残っている。
柊がその涙の跡を、そっと親指でなぞった。
その柊の手に、夏人は自分の頬を擦り寄せた。まるで、子どもが親に甘えるように。
柊はその仕草に、心臓が締め付けられるような感覚を覚え、鼓動が早くなった。
『愛おしい』とは、こういう感情なのだろうか。
柊は、再び夏人を抱きしめたい、という衝動に駆られた。
だが、その時「ごめん」と、夏人に体を離されてしまった。
「あ、わりぃ。男同士でいつまでもくっついてんの、気持ち悪いよな、ごめん」
わざと明るく言った柊は、苦笑いしながら夏人から離れた。
「違うんだ、柊くんそれ…。ごめん」
夏人が柊の胸元を指差した。
見ると、柊の制服のシャツが、夏人の涙ですっかり濡れていたのだ。
「あー…、これか。全然気にすんな!すぐ乾くよ」
柊がぎこちなく笑った。
おもむろに立ち上がった夏人は、クローゼットから黒いTシャツを取り出し、柊に手渡した。
「汚しちゃってごめんね。とりあえずこれ」
「…。あ、うん。じゃ、借りるわ」
柊は本当に気にしてなかったが、着替えた方が夏人の気が済むのだろうと思い、制服のシャツを脱いだ。
Tシャツに首を通すと、微かに甘い香りがした。
あ、この香り…。
柊は思い出した。
2人でゲームセンターに行ったあの日。
夏人とふざけ合っていた時に、微かに嗅いだあの匂いだ。
柊の心臓は、再びギュっと苦しくなった。
「柊くん、あの…」
気のせいか、夏人の顔が赤い。
「さっき俺を抱きしめてくれたの、全然イヤじゃなかったよ。むしろ安心したんだ。だから気持ち悪いなんて、これっぽっちも思ってないから…」
「え?あ、うん、そっか…」
柊の顔も、思わず赤くなる。
「………」
お互い何も喋らない時間が流れた。
「あ、あのさ」夏人が不意に立ち上がった。
「ちょっと、喉が渇いちゃって。なんか飲み物持ってくるね」
「おぅ…」
夏人が部屋を出て行った瞬間、柊は「はぁーーー」と大きな溜め息をつきながら、夏人のベッドに、大の字になって寝転んだ。
お前の全部を受け止めてやる!なんて大口を叩いたものの、夏人のあまりに深い悲しみを、自分は咀嚼ができるのだろうかと、柊は不安になっていた。
どうやったら、陸玖のような器のでかい男になれるのか。
どうやったら、夏人を心から笑わせてやれるのか。
柊は薄いベージュ色の天井を見つめ、再び大きな溜め息をついた。
「お待たせ」
ペットボトルを持った夏人が、部屋に戻ってきた。
慌てて、柊は飛び起きた。
「冷蔵庫にこれしかなくて」と炭酸飲料を差し出した。
「ありがと」
そう言いながらキャップを開けた柊は、ゴクゴクと勢いよく飲み出した。
真剣に話を聞いていた柊も、実はかなり喉が渇いていたのだ。
炭酸飲料が、柊の体内に流れ込んでいくのを見ながら、夏人も同じように喉と体を潤した。
「あー、生き返ったわ」
炭酸飲料を3分の2ほど飲んだ柊は、短く深呼吸をし、改めて夏人を見た。
「な、夏人、もっと陸玖先輩のこと、教えてくれないか?」
まだ充血し、腫れも引いてない夏人の目は、少し大きくなった。
「俺、もっと陸玖先輩のこと知りたいし、夏人のことも知りたいんだよ」
「まだ時間あるしさ」
そう言った柊は、壁に掛かっているスカイブルーの時計を指差した。
その時計は、午前10時50分を指している。
「うん…」
少し落ち着いた夏人はゆっくりだが、今までよりは、はっきりとした口調で話し始めた。
「陸玖兄の通夜も、葬式も、弔問客がいっぱい来てさ。本当にたくさんの人に愛されてきたんだって、改めて知ったよ。小中高の学校の友達、先生、水泳部の先輩、後輩、近所の人。そしてスイミングクラブの人も」
「あ…、
「うん、もちろん」
柊は、日下部が「葬式以来だな」と夏人に言った、あの日を思い出した。
「父さんがコーチだけには、陸玖兄が俺を助けて死んだことを話していたんだよ」
「そっか。じゃあ、他の人達は、真相を知らないんだな」
「うん。俺は言うべきだと思ったんだけど…」
夏人は俯いた。
「母さんがね、陸玖兄の死をきっかけに、また発作を起こすようになったんだ」
「………」
やっぱりそう簡単には治らないもんなのか…。
パニック障害という病名は聞いたことがある。
その病名を公表している、有名人も少なくない。
だがその程度の知識しか柊にはなく、具体的なことは分からない。
それでも、精神疾患が難しい病気なのは想像がつく。
「父さんが、陸玖兄の死の真相を公にしたら、俺が責められるかもしれない。そしたら母さんの病気が悪化するかもって言って…」
「陸玖兄が誤って川に落ちたことにしよう…と…」
「俺が殺したようなもんなのに…」
そう言った夏人は、ぎゅっと拳を握った。
柊には、夏人にかける言葉が見つからない。
だが、違和感があった。
「でも、親父さんはなんでコーチには話したんだろ?」
「俺もそれはずっと不思議だったんだけど、一周忌の時、父さんが話してくれたんだ」
夏人は、炭酸飲料を口に含んだ。
「陸玖兄が死んで間もなく、父さんがスイミングクラブに、退会の手続きに行ったみたいで。その時コーチから、陸玖兄が全日本の強化選手に選ばれていたって聞いたらしい」
「え?じゃ、陸玖先輩は、それを知らなかったの?」
「うん。事故の直前に決まったらしくて…」
そうだったのか……。
もっと前にそれを知ったら、陸玖先輩も夏人も、どれだけ喜んだのだろう。そう思った柊は、やるせない気持ちになった。
「日下部コーチは、陸玖兄に誰よりも期待していたから。父さんの前で思い切り泣いたって言ってた」
「そういえば、すげぇショックで、北校から
「あまりに泣くコーチを見て、父さんが真相を話したって」
「立派な息子に育ってくれたのは、コーチのおかげだと、お礼を言ったらしい」
柊は、日下部が夏人をあれほど気にしていた理由が、ようやく分かった気がした。
そして夏人が、日下部に合わせる顔がない、と言った意味も。
「だから、俺は日下部コーチから恨まれてるんだ、当然だよね」
寂しそうに夏人はふっと笑った。
やっぱりな、夏人は勘違いをしている…
そう確信した柊は、夏人の肩を両手でグっと掴んだ。
「それは違うよ。コーチは、お前のことずっと心配してたんだ。夏人が水泳を辞めたのも知って、苦しかったって」
「………」
「だから、またお前が泳ぎたい!って言ってくれたのが、本当に嬉しいみたいだ」
「そしてね、俺にこう言ったんだよ」
柊の手に力が入る。
「まだ水の底にいる夏人を引っ張り上げてくれ!って」
「…ほんとに?…」
夏人の驚いた、でもどこか安堵した表情を見た柊は、うん、と大きく頷いた。
「あと、もう一つ。これはちゃんと聞いてくれるか?」
柊の言葉に、うん、と今度は夏人が頷いた。
「夏人は決して、陸玖先輩を殺していない。悲しい事故だったんだ」
「陸玖先輩のことだ。お前を助けるため、何の躊躇もなく川に飛び込んだんだと思う。お前を助けることが出来て、満足しているはずだよ」
夏人の目が潤んできた。
それでも柊は伝えたかった。
そう。陸玖の真似をする必要なんてないのだ。自分の言葉で、自分の想いを伝えたかった。
「もし、逆にお前が死んで、先輩が生き残ったら、陸玖先輩は今のお前以上に後悔して、苦しんでいたと思う」
「だってそういう人だろ?」
優しく微笑む柊に、夏人は小さく頷いた。
「だから、夏人はもう自分を責めないでほしい。天国の陸玖先輩を、いつまでも心配させないでほしい」
「だって、陸玖先輩は、誰よりもお前を笑顔にしたかった人だから…な」
今にも涙が溢れ落ちそうな夏人を、柊はそっと抱きしめた。
「夏人は、陸玖先輩から託された命を大事に生きてほしい。笑顔で、好きなことをして、幸せになってほしい」
「その為に陸玖先輩は、俺にお前を会わせてくれたんだ。夏人を頼むって、バトンを渡されたんだ」
大粒の涙が夏人の頬を伝う。
「俺には、陸玖先輩のような器はないけど…」
「お前を大事にしたい想いは、負けてないと思うよ」
気がつくと、柊は泣きじゃくる夏人を抱きしめる腕に、力を入れていた。
そして、もうこの想いを認めざるを得ない、と柊は思っていた。
『俺は夏人に恋をしている』と………。
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