2・脱出
教団近くのアパートの住人は、ほとんど教団関係者だ。教団保有の農場で働く者も多い。彼らは柚を見張るかのように、隣接する部屋に暮らしている。
実際、時生は隣室の壁に盗聴器を隠していた。壁の振動を探知するタイプだが、部屋の住人すら存在を知らない。アパートのマスターキーを持つ教団は自由に出入りできるのだ。
教団がこれまで柚の部屋に侵入しなかったのは、警戒心を起こさせて事態を複雑にしたくなかったからに過ぎない。監視事態は、絶え間なく続けられていた。
だが、朝が早い教徒たちはすでに熟睡しているはずだった。彼らの多くは世俗的な娯楽には関心が薄く、眠りに付くのも早い。
キャリーリュックに戻された黒猫も、声は出さない。意外なほどおとなしくしている。
信徒たちに気づかれる心配は少なそうだった。
建物裏の駐車場に回る。
数日前から急に冷たくなった風が、2人を包んだ。
アパートの窓は全て照明が消えていた。いつも通り、住人は寝静まっている。駐車場の外れにある街灯が、薄暗い灯りを投げかけているだけだ。
柚が近づくと自動的に軽自動車のロックが外れる。
ドアを開けた柚が、小声で指示する。
「リサは後ろに隠れて。街を出るまで、外から見えないようにね」
運転席に入った柚がドラムバッグを助手席に押し込み、車内の照明を切る。外から気づかれないようにするためだ。
うなずいた梨沙子が、後部のスライドドアを開ける。
と、小さく息を呑む気配があった。
柚が運転席で振り返る。
「どうしたの?」
「何か、ある……」
「毛布でしょう? それ、しばらくかぶって隠れてて」
「毛布の下……」
柚が車内の照明をつけて振り返る。
梨沙子が毛布をめくっていた。
そこには、黒猫が横たわっていた。
動かない。
呼吸しているようにも見えない。
猫がエンジンルームに入り込むことがあるのは知っている。だが、鍵がかかった車内に侵入できるとは思えない。
柚が息を呑む。
「死んでる……の?」
梨沙子が震える手で猫に触れ、すぐに引っ込めた。
「冷たい……」
死体だ。
その下に、1枚のコピー用紙が置かれている。死体に触れないように引き出すと、手書きの大きな文字が見えた。
『逃げられないよ。お友達の健康には気をつけてね♡』
梨沙子は車内に入ることもできずに、アスファルトの上にぺったりと座り込んでしまった。
重苦しいつぶやきがもれる。
「ひどい……殺すなんて……」
柚が繰り返す。
「死んでるの……?」
「あたし……逃げられないんだ……」
毛布を積んだのは1時間ほど前で、もちろんその時は猫の死体はなかった。その後に誰かが積み込んだのだ。
「こんなこと……どうやって……」
ハッと気づいた梨沙子が、リュックを下ろして中を確認する。
梨沙子の手に猫が頬を擦り寄せ、かすかな甘え声をもらす。
「コロちゃん……よかった……」
誰かが、わざわざ黒猫の死体を用意して、車に入れたのだ。
理由は1つ。
梨沙子を脅して、思い止まらせるためだ。
だとすれば犯人は、教祖の手先だ。2人が反乱を起こしたことは、始める前から知られていたのだ。
おそらくは、教祖の能力によって……。
中止して、教団の支配を受け入れるしかないのか……。
柚は照明を切って運転席を出ると、ひざまづいて梨沙子の肩を包んだ。街路灯の薄暗い明かりの中でじっと目を見つめる。
「バレちゃったね……」
「どうしよう……」
「どうしようじゃない。こうなるかもしれないって、分かってたでしょう?」
「でも……」
「リサはどうしたい? 逃げようとしたことは知られてしまった。まだ、続けたい?」
梨沙子は猫のリュックを抱きしめてうめく。
「怖い……」
「どうしたいの?」
梨沙子が柚の目を見る。
「でも……戻りたくない……」
柚は、あえて語気を強めた。
「戻らないと、ひどいことされるかも」
「それはきっと、大丈夫……」
「怖いのに?」
「捕まっても、また牢獄に閉じ込められれだけ……。でも……」
「でも?」
「ユズは何をされるか分かんない……。1人で捕まったら、殺されちゃうかも……あたしと一緒じゃないと……」
梨沙子は危険を正しく認識していたのだ。
教団は梨沙子を失えない。だが柚に代われる人物は、いくらでもいる。
梨沙子は、柚の心配をしていたのだ。
柚も隠し事はしたくなかった。
「そうだね。リサは教団の大事な財産だから、傷つけられたりしないと思う。だからあなただけでも戻って」
「ユズは?」
「逆らったことバレちゃったから、もう戻れない。1人で逃げ切ってみせる」
「ムリよ」
「ムリだね、きっと。でも――」
「その紙の字……時生さんが書いたものよ。一目で分かる癖がある。戻っても、あたしは教団に縛り付けられる……今までよりも厳しく……死ぬまで……」
「それでも、殺されないでしょう? 死にたくはないんでしょう?」
「だって、ユズが……絶対殺されちゃう……。比嘉が人殺しだっていう証拠を持ってるんだから……」
「でも死ぬことって、わたしの望みなんだけど。自殺ができないんだから、殺してくれれば嬉しい」
「強がらないで……」
「強がりなんて、必要ない。何度も死のうとしたんだから」
「でも、痛いよ? 苦しいよ? 比嘉って、そういうことできる人だよ」
「痛いぐらいなら、我慢する。死ぬまでの間のことだから」
梨沙子は柚にしがみついた。
「そんなこと言わないで……悲しいよ……」
柚はそっと梨沙子の髪に触れる。
「これがわたしなんだから、仕方ないじゃない。逃げる計画を手伝ってきたのは、リサを助けたいから。あなたさえ望み通りになれるなら、わたしの命は好きに使っていいのよ。あなたにあげるって決めてるんだから。だから大事なのは、リサの気持ち。こんなことをされてもまだ逃げたいなら、わたしは全力で助ける」
梨沙子は、不意に涙ぐんだ。
「あたしは……子供を産む奴隷……。それなのに、いつまで経っても妊娠しなくて……。つらい……。治療も、教祖様の視線も、時生さんの舌打ちも、何もかもつらい……」
珍しく梨沙子が弱気を隠そうとしていない。このままでは、逃げ切ることなど不可能だ。
柚は、はっきりさせておかなければならないと決心した。
きっぱりと言う。
「それはもう聞いた。だから?」
「絶対に戻りたくない……戻ったらきっと、もっとひどい目に遭わされる。子供ができたら、きっとあたし、殺されてしまう……」
柚は、梨沙子にはまだ秘密があるのだと直感した。
「殺されたりしない。子供には母親が必要なんだから」
「教祖様が母親になるつもりよ……。あたしは、邪魔なだけ。そう感じるから、逃げ出したかったのよ……」
梨沙子には、ここまで追い込まれてすら明かせない苦悩があるようだ。逃げたい理由は根深い。
「危険はずっと大きくなった。それでも逃げる?」
梨沙子は柚を離し、猫のリュックを抱き上げて顔を埋める。
「だからコロを連れてきたの。だってこの子、教祖様が大嫌いなの。教祖様が猫嫌いだってこと、感じてるのよね。何回か爪を立てたことがあって……残していったら、きっと処分されてしまう……。そこの死体みたいに……。だから、死ぬときは……コロも一緒に……」
梨沙子はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、死をも受け入れる意思の光が宿っていた。
柚の突き放すような問いかけが、効果を現したようだ。
一時的な衝撃から、立ち直り始めている。
柚の口調が和らぐ。
「戻るぐらいなら死を選ぶってこと?」
「うん」
柚は立ち上がった。
ならば、もはや一刻も猶予はない。
「その時はたぶん、わたしも一緒ね。楽になれるなら大歓迎。乗って。とにかくここを出ましょう」
今、この瞬間も駐車場が見張られていることは間違いない。どこに逃げようと、追われるだろう。
それでも梨沙子の望みが揺らがないなら、知恵を絞って抵抗するまでだ。言いなりになるまま梨沙子の心が圧し潰されていくことは、柚には耐えられない。
ためらう理由はなくなった。
柚は猫の死体を毛布で包んで取り出し、茂みの中に置いて運転席に戻った。
梨沙子が立ち上がる。
伸ばした背筋に、あくまでも抵抗を続ける覚悟がにじんでいた。
後部座席に乗り込んで言った。
「いいわ。出して」
柚はうなずいて、ヘッドライトを消したまま静かに走り出した。
駐車場の出口の街頭の横には、大きなイチョウの木が立っている。その脇を通り抜ける瞬間、2人は同時に息を呑んだ。
木陰に隠れていたダークスーツの男が、わざとらしく姿を見せたのだ。
梨沙子がつぶやく。
「堤さんだわ……」
堤進次郎だ。
柚もよく知っている男だ。
時生の友人で、秘書のような役目を担っている。10年近く前に比嘉が送り込んできた若者で、半グレ上がりだという噂もある。教団では礼儀正しく親切な男だが、比嘉トレーディングへ出向くことも多い。
幹部の多くは、教団との橋渡し役だと考えている。
堤は車を妨害するでもなく、スマホのようなものを向けているだけだった。カメラで撮影しているらしい。
柚はライトをつけてスピードを上げた。
「彼が来たってことは……もう比嘉が動いたってことよね?」
「そう……だよね」
「死体も、堤さんが入れたんだよね」
「だろうけど……ユズ、今もデータは持ってるんでしょう?」
「もちろん」
「取り返しに来る……よね」
「だろうね。だけど、これで全部じゃないから」
「お友達のところに?」
柚は自分の声が震えていることに気づいた。緊張が高まる。
「友達っていうか……協力者?」
「その人、ホントに大丈夫?」
「裏切られるかも、ってこと?」
「じゃなくて、比嘉に襲われない?」
「守るためにできることは、全部したから」
「でも……」
柚のつぶやきからも不安がにじむ。
「だよね……。もう戦争になっちゃったのかな……」
梨沙子が怪訝そうに言った。
「でもなんで堤さん、あたしたちを止めようとしないんだろう……?」
柚には理由が分かっていた。
「証拠のデータ、残らず握り潰す気なんだわ……」
比嘉は、柚が握っているデータを奪い返さななければならない。
デジタルデータは容易くコピーできて、他人に手渡すこともネットにばら撒くことも難しくない。柚がコピーを作っていないか、コピーがあるなら誰に渡したかを確認できなければ、全てを回収することもできない。
それを暴くために、今は泳がされているのだ。
アパートは、街から少し離れた教団の近くにあった。八王子市の郊外だ。
経理の仕事でしか行かない街の中心部に向かって闇雲に走った。
堤は必ず追ってきている。交通量が少ない郊外へ逃げようとすれば、追跡をかわせる確率も低くなるからだ。
何より、不安と恐怖が2人の心を鷲づかみにしていた。
少しでも明るく、人通りのある場所に出たかった。
運転に焦りが出ていた。緩いカーブの縁石にタイヤを取られて車体が跳ね上がる。
梨沙子が小声で叫ぶ。
「大丈夫⁉」
柚は、自分が動揺していることに驚いたようだ。
「ダメ……心臓がバクバクしてる……」
そしてスピードを落とす。
「だよね……すぐ見つかるって、分かり切ってたのにね……」
「どこかに停める。一応、後ろを見張っててね。……意味ないかもしれないけど」
「あたしも休みたい……」
最初に見つけたコンビニの広い駐車場に乗り入れる。
八王子インターチェンジに向かうドライバー目当てに深夜営業をしている店舗だ。周辺には集配センターや倉庫も多く、正面の大通りは深夜でも交通量が多い。
柚は、なるべく街の光から外れて目立たない一画を探した。幸い、街灯が届かない場所が見つかる。節電のために照明を減らしているようだった。
そこに車を停めた。
柚はエンジンを切ってハンドルに突っ伏すと、小さくつぶやく。
「やっぱり怖いね……」
殺されても構わないという気持ちは揺らがない。それでも、恐怖は感じる。
猫だとはいえ、いきなり死体で脅された動揺が時間が過ぎるごとにのしかかって来る。死体の重さが、まだ腕から消えない。
必死に耐えていたのだ。
猫のリュックを抱きしめた梨沙子がうなずく。
「襲ってくるかな……」
梨沙子の声もか細い。
柚は逆に気力を奮い立たされたようだった。弱音を吐き出したことで、わずかながら落ち着きが戻るのを感じた。
梨沙子を脱出させるのは自分の役目なのだと、気持ちを奮い立たせる。
頭が働き始め、顔を上げた。
「追手は必ず襲ってくる。でもたぶん、今じゃない」
「どうして……?」
「堤さんが見張っていたんだから、時生さんも教祖も……比嘉だってわたしたちが逃げたことを知ってる。猫の死体は、まだ柔らかかった……。殺してからそんなに時間がたっていないはず」
「さっきまで生きてたの?」
「生きた黒猫を捕まえておいて、わたしが毛布を積んでから堤が殺したのよ。猫まで準備してたってことは、ずっと前から計画が筒抜けだったってことでしょう?」
「でも、それがどうしたの?」
「なのに、さっきは何も手出しはしなかった。逃げ回れ――って言われてるみたいだった。それって、しばらくは好きにさせてくれるって意味だと思う」
「なんでそんな手間をかけるの……?」
「わたしたちが比嘉トレーディングや教団の犯罪を証明できるって信じてるから。なのに、どんな証拠をどこに隠しているかまでは分からない。教祖の予知能力で見つけられたらどうしようって恐れてたけど、そこまではできないってことでしょう?」
「そうか……教祖様だって万能じゃないものね……。人の内面は見抜けても、正確な記憶までは覗けない。予知だって自由自在には使えないって言ってたし」
柚は再び重苦しいため息をもらした。
「それでも、見つかるの早すぎ……」
「だよね……」
「きっとわたしたちが行動を起こすの、待ち構えていたんだと思う」
「まずい……よね?」
「予定は狂っちゃった……。もう少し行った先にレンタカーを用意してたんだけど、これじゃそこまで追いかけられちゃう。意味なさそう」
「なんとかできそう?」
「なんとかしないと。監視から逃げる手段を考えないと……」
「どこに行っても追いかけられちゃうもんね……」
「追っ手を振り切れなければ、いつかは捕まる。データを奪われるだけじゃなくて、協力者まで危険に晒すことになる。人質にして脅されたり、1人ずつ殺されたりしたら……データを渡すしかなくなるし……」
梨沙子は自分に言い聞かせるようにつぶやく。
「そこまでするかな……? 人殺しなんて簡単じゃないだろうし、そもそもバレたら自分の首を絞める重罪だし……」
柚は冷静さを取り戻していた。
「教団や比嘉は、絶対に顧客を守らないといけない……。あのリストには政界とか財界とかの有名人の名前があったでしょう? 隠し通すためなら、きっと人殺しだってためらわない」
「だよね……」
「わたしを助けてくれた人たちは絶対に巻き込めない……」
「じゃあ……降参するしかないってこと?」
柚はここが分かれ道だと、はっきり感じた。
諦めるなら、今しかない。
もう一度、梨沙子の考えを確かめなければならないと決めた。
うつむいたまま言う。
「考えたんだけど……降参してもリサは助かる……。大事な跡継ぎの母親なんだから」
「だから、子供ができたらそこで終わりなんだって。何年もたたないうちに――っていうか、赤ん坊があたしが母親だって覚える前に殺されてしまう。教祖が欲しいのは、自由に操れる孫だけなんだから」
「そうと決まったわけじゃないでしょう?」
「あたしには分かってるの。教祖のそばで何年も暮らしてきたんだから」
「それでも――」
梨沙子が遮る。
「ここでやめたらユズはどうなるの⁉」
「秘密を知ってしまったし、反抗もした。許してくれるはずはない……」
「始めたばかりで、もう諦める?」
「だって、どうせ最後はそうなるだろうって分かっていたから。分かっていたのに、ちょっと欲を出しちゃった。でも、やっぱり他人は巻き込めない。それなら、わたしだけが死んでいく」
柚にとっては最初から、死と解放は同義だ。生への執着は微塵も感じられない。
「協力者はどうなるの?」
「黙ったまま、死ぬ。あの人たちを守るっていう理由があれば、きっと自殺にはならない。だから死ねる――かもしれない……」
だが、梨沙子は同意しない。
「そんな気持ちで始めたの? あたしはユズがいたから逃げ出す決心が付けられた。なんとしても逃げ切りたい。教団から逃げられれば、ユズだって変われるかもしれない。だからユズも守りたい。ユズが死ぬなら、1人じゃ死なせない。死ぬときは一緒。2人で死にましょう。でも、それまでは抵抗したい」
柚は、引きつった笑顔を浮かべる。
「わたしはそれでもいいよ。梨沙子と一緒なら寂しくないし。でもそれ、誰も頼れないってことだよ?」
「いいじゃない。2人なんだから」
柚の笑顔にも、決心が現れる。
「そうだね。まだ負けが決まったわけじゃないものね」
「でも……」
「なに?」
「なんで堤さんに気づかれたのかな、って……」
「だよね……」
「それが分かれば、振り切れるかも」
「わたしの部屋が見張られてたのかもしれない。それとも……」
「あたしが尾行された? コロまで連れてきたからかな……」
「だけど、いつかは逃げるだろうからって見張っていたとしても、わざわざ猫まで準備しているのはやり過ぎだと思う。だって、さっきまで生きてたんだから」
「あたしを諦めさせるためでしょうね。気が許せるのはコロちゃんだけだから、強烈な脅しになるし……」
「やっぱりそうなのかな……。でも、車のキーはどうやって開けたんだろう……」
「合鍵、ないの?」
「スマートキーだし……あ、物理キーか」
「なに、それ?」
「普段は電波で開け閉めするけど、壊れた時のために普通の鍵も付いてる。合鍵を作られたんでしょうね」
「それって……やっぱりずっと前から監視されてたってことだよね」
柚がうなずく。
「わたしが見張られてたのね。そして、行動を起こす時を待ち構えていた」
「全部の証拠を取り戻すために、か……。それにきっと、あたしも試されてたんでしょう……」
「わたしたちが仲が良いのはみんな知ってるし。リサと一緒に逃げることは予知していたのかも」
「この時に備えて、猫も生きたたまま飼ってたわけね。あの場で都合よく黒猫を見つけられたはずないもの。だけど猫を殺すなんて、ひどい人たち……」
「人間が殺せるなら、猫ぐらいはなんでもないんでしょう。でも、血は付いてなかったから、薬とか使ったのかな……」
「あたしを脅かすためだけに……」そして、語気が強まる。「ユズ、あなたはこれからどうしたい?」
「だからそれは、リサしだい。リサが望むようにする」
「あたしは、ユズ自身の気持ちを知りたいの」
問われた瞬間、柚の気持ちがはっきりと言葉になった。
「ずっと死ねるだけでいいって納得してきたけど……それって、ただの逃げだよね。ちょっと落ちついたら、なんだか腹が立ってきた」
「あたしも同じ」
「これまで我慢してきたわたしって、なんだろう――って思う。リサと一緒に逆らってみて、やっと分かった。ここまでできたんだから、最後までやり遂げたい。戦う……なんて柄じゃないけど、もう我慢はしたくない」
「逃げ続ける?」
「死ぬ覚悟があれば、抵抗もできるかも――って思える」
「それ……本気よね?」
「うん。信じて」
梨沙子が悪戯っぽくほほえむ。
「全然ユズらしくないけど」
「わたしもそう思う」
「だったら誰も頼らずに、2人でやり切らないとね。ユズ、お金は用意したって言ったわよね? 銀行にあるの?」
「移動先で下ろしたら痕跡たどられちゃうから、現金にした。この車に隠してあったの――」
「まさか! 取られてないよね⁉」
時生の忠実な下僕である堤は、合鍵を持っているはずだ。だったら、金を奪うことも可能かもしれない。
柚は慌てて車を降りた。梨沙子も後に続く。
柚は後ろに回ってハッチを開け、ジャッキのスペースを探す。照明を切っているために、手元が暗い。
それに気づいた梨沙子はバンパーの上に座って身を捩り、ポケットから出した小さな懐中電灯で内部を照らした。光が外の漏れないように、手で片側を覆う。
収納場所を見つけた柚は蓋を開いて、パンク修理用のエアコンプレッサーを持ち上げる。と、その下に黒い封筒があった。
柚は安堵のため息をもらした。
「取られてない……」
梨沙子がうなずく。
「そこまでは気づかれてないのね」
だが柚は疑い深かった。封筒を開いて中を確認しながらつぶやく。
「それとも、やっぱりしばらくは泳がせておくつもりなのか……」
「データを取り戻すのが目的なら、そうかも……」
「やっぱり他人は頼れないよね」
「でも、お金はある。あたしも手に入るだけの現金を持ってきたし。だから、当分は逃げ続けられるはず」
「そうは言っても――」
と、柚は不意に膝を折ってその場にうずくまった。
梨沙子が立ち上がろうとしながら叫ぶ。
「どうしたの⁉」
「……いま、なんか……気が遠くなって……」
「大丈夫⁉」
「なんか……わたし……」
そして柚は気を失った。
※
時生がうんざりとしたようなため息をもらす。
「さっさと諦めろよ……」
タブレット画面には、コンビニの駐車場に停まった軽自動車が映し出されている。最大に拡大しているらしいが、車は小さくしか映っていない。画面全体も暗い。
堤はだいぶ離れた距離から撮影している。2人の迷いと不安を掻き立てるために、あえて身を隠しているのだ。
それでも、暗い車内の2人はぼんやりと見分けられた。
時生には、それで充分だった。
教祖がソファーを立って時生の傍から画面を覗く。
「これで大丈夫なの?」
「ご心配なく。ただ、僕の力を使わなければならないようです」
「今、ここで?」
「たぶん。今は、2人の仲を割く事が必要みたいですから」
イヤホンには、車内での会話が聞こえていた。
堤には、車内数カ所とシャーシの下にも盗聴器を取り付けろと指示している。仮に盗聴器のどれかが発見されても、全てを取り除くことは難しい。
そもそも梨沙子たちは、盗聴器を警戒していないようだった。特殊能力を持つ親子を相手にする以上、最初から無意味だと考えているようだ。
2人の会話に結論が出た。
〝死体〟の出現で気持ちは揺らいだようだが、結果的には反抗心を強める結果を招いていた。
教祖がつぶやく。
「力もないのに、よせばいいのに……」
「理屈では分かっているようですがね……。なぜそこまで逆らうのか、僕には分かりません」
「黙って従っていれば、暮らしも約束されるのにね」
2人が車外に出る。後ろに回ってハッチを開き、中を調べ始める。
その会話も、イヤホンでかすかに聞こえていた。
時生が言った。
「少し脅かします。僕、気を失いますから椅子から落ちそうになったら支えてください」
「こんなに画面なのに?」
「初めて見る相手だと無理かもしれないけど、梨沙子たちのことはよく知ってますから。これで充分でしょう」
時生が何かを念じるように目をつぶる。
柚の声が聞こえた。
『……いま、なんか……気が遠くなって……』
と、時生の体が揺らいだ。目を開く。
「おっと……やはり入りづらいな……」
教祖が気づかう。
「大丈夫?」
「画面が不鮮明なんで……でも、なんとか……」
「無理はしないで」
「なんとかなりそうですから。では、行ってきます」
そう言った時生は、ぐっと身を乗り出してタブレット画面を凝視した。
途端に、全身肩力が抜ける。
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