龍の住む庭
風音紫杏
序話
ぽちゃん。
雫が一滴、果てしなく広い
生まれた波紋が、広い池の全体へと、静かに広がってゆく。
小さな波が池の淵に辿り着く前に、新たな雫が次々と空から零れ落ちては、小さな波を生んでゆく。
ただでさえ暗い空には暗雲が立ち込めており、雫はそこから零れ落ちて、水面に消える。
小さな水晶の形をした雫は、時間が経つにつれて、細くて、長い
それが、宮殿の奥の奥に造られた、龍の住む庭園の光景だった。
雨の降り出した池の傍には、一人の人間が佇んでいる。
その人間は、およそ八~十二歳ほどの少女に見えた。
少女は、幼いながらも
燃えるような赤毛に、陶器のように滑らかで真っ白な肌。丸い大きな翠の瞳を持つその少女は、まるで、小さな天女が舞い降りてきたかのような、どこか浮世離れした雰囲気を醸し出していた。
だが、それと同時に、その瞳には暗い影が落ちており、欠片ほどの生気も見つけられない。
そんな少女は、虚ろな瞳を空の方へと向けていた。
そこに映るは、灰色の暗い雲。
「――わたし、みたい」
小さな口から、そんな言葉が零れる。
段々と激しくなる雨を気にした様子もなく、少女は真っ直ぐに水辺へと歩き出す。
一歩。また一歩。
ゆっくりと歩く少女の足が、池の水に触れかけたその時。
「
そんな、耳をつんざくような叫び声と共に、一人の人間が走ってきた。
白藤色の侍女服を着た女性だ。
少女は、この女性を知っている。
この女性は、少女の乳母その人だったから。
彼女は、息を切らせて少女の元へ駆け寄り、その身をぎゅっと抱きしめる。
彼女は少女を抱きしめたまま、ズルズルと座り込み、地面へと膝をついた。
そして、少女の胸元へと顔をうずめる。
ふわり。
乳母が好んで焚く、薫衣草の精油の香りが、ほのかに鼻腔を掠めた。
雨が降っていることも忘れ、二人はしばらくの間、その体制でいた。
気がつけば、少女の胸元は、雨とは違うあたたかいもので湿っている。
「娘娘、ここにいては、風邪をひいてしまいます。宮殿へ戻りましょう?」
「うん、わかった」
涙を流しながら、少女を諭すように紡がれた乳母の言葉に、少女は素直に頷き、差し出された彼女の手を握った。
ザアザアと降り続ける雨の中、びしょ濡れになった乳母へ、少女は抑揚のない口調で尋ねる。
「何故、水の中へ入ってはいけなかったの?」
空の色を映す水面は、同じような黒い色をしていたけれど……あの池は、不思議に綺麗だったと、少女は思った。
この空のように、灰色で終わりの見えない「わたし」とは違って、暗い色をしていても、どこか人を惹きつける魅力があった。
きっとあの中には、もっと美しい世界があるに違いない。
池の中が、何事にも無関心だった少女が、初めて興味を持った世界だった。
少女の無邪気な問いかけに、乳母は少し瞠目する。
そして一つ、ふっと息を吐いて、彼女の答えを述べた。
「あの池には、龍が住んでいると言われているのです。龍は普段は大人しいのだけど、池の中に入っていった人間を攫ってしまうと言われています。ですから、あの池には誰も近づかないようにしているのです」
「ふうん」
何の感情も乗せずに、少女はそれだけを口にした。
そして、少しの間何かを考える素振りを見せて――こんなことを、口にした。
「見てみたいな、その龍を」
「お止め下さいませ!」
心底驚いたという表情で、間髪入れずに止められた。
少女は唇を震わせ、何かを言おうとする素振りを見せる。
だがその言葉は、自身の乳母の言葉に遮られた。
「娘娘!龍は、貴女様に何をするかわかりません!龍は……得体の知れない、獣なのです。貴女様は、わたくしの大切な娘。たとえ、他の人間が貴女様を疎んじたとしても、わたくしには貴女様が必要なのです。ですから、どうか。――どうか」
少女は乳母の剣幕に驚いて、何も言えなくなってしまう。
自分は、誰にも要らない存在ならば、別に龍に何をされたってかまわないじゃないか、と、言うつもりだったのだけど。
少なくとも、乳母にとって少女は、必要な存在だったらしい。
だから、どうなるわけでもないのだけど。
上から、乳母のすすり泣きが聞こえる。
乳母は、一度泣き始めると中々泣き止まないのだ。
彼女が泣き止まないと、少女が困る。
何事にも無関心なこの少女には、何をどうすればいいのか、何をどうしてしまうと悪いのか、さっぱりわからないから。
泣きながらも、乳母は少女の手をきつく握り直す。
大人しいようで、行動に規則性がないこの少女は、少し目を離すとすぐどこかへ消えてしまうから。
止む気配のない雨の中を、二人の人間が、終始無言で歩いていた。
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