シザーゲート

大枝 岳志

第1話 キャンバス

 小さな部品が外れているのだろうか。カラカラと音を鳴らす空調の音で目が覚めた。照明の黄色味を帯びた薄い灯りに、剥き出しになった白い背中が照らされている。私は隣に横たわる女を生まれて初めて見たような妙な錯覚を覚え、毛布を掛けるフリをしてそっとその肩口に触れてみた。

 いや、これは何度となく触れた事のある肩だ。まるでいつもと変わらない冷たい女の肩に、静かに息を漏らす。体内に残るアルコールの匂いが自分でも分かる。私の覚えた名前のない違和感に気付かないまま、女は死んだように横たわっている。


 昼前にホテルを出た。歩道に打ち付けた真っ白な光に目が眩んだ。女は朝も夜も関係ないような口調で言った。


「今使ってるマスカラさ、水には強いんだけど発色が弱くってさぁ。ねぇ、変じゃないよね?」


 色弱の私にマスカラの微妙な色合いの変化など分かるはずもなかったが、私は女の目元を覗き込んで答えた。


「全然大丈夫だよ、優しい色だと思うよ」

「そうかなぁ?なんか使い勝手もイマイチだしさぁ。この辺ドラッグストアってあったっけ?」

「駅の方に向かって行くと、確か左側にマツキヨがあったよ」

「そうなの?ちょっと寄って行くね」

「俺も買い物ある」

「ヒロトは何買うの?マスカラ?」


 悪戯そうに笑う女の顔は美しかった。ただでさえ、寒気を抱くほどに美しい瞬間がある女だった。


「俺はドリンク剤。昨日飲み過ぎたんだよ」

「二人で丸々一本空けたもんね。お酒、自分で思ってるより弱いんじゃない?」

「そうかもな」

「酔ってる時のヒロト、嫌いじゃないけど」

「そう?あんま覚えてないんだけどさ、酔うと俺、どんな風になってる?」

「なんか、情けなくなる。それが私にとっては心地良くもある」


 その時、心が苦虫を噛み砕いたようになってしまい、私は女から目を逸らし、曖昧に笑って誤魔化した。そんな私を見た女は冷めた目つきで「ほどほどにしなよ」と放り投げるように言った切り、真夏の中で黙り込んでしまった。何故だろうか、女の奥底にある感情に敏感になる事よりも真っ先に、前を歩く女の小振りな尻ばかりが気になってしまった。


 雄だな。


 そう思うより他は無く、記憶として全てが存在する今でさえもその時の光景は女の尻のままなのである。


 現実のレーザーは無色透明だと知った日、友人は顎に手を置きながら納得のいかなそうな表情で呟いた。


「レーザーとかビームに実は色が無いとかなったらさ、ウルトラマンとかガンダムとかさ、全部ロマンが無くならないか?バババーッ!て色つきの光線が飛んで行くから必殺!って感じが出るんだしさ、見えないビーム撃つとかってさぁ、なんか狡い奴みたいじゃない」

「元々嘘の話なんだからそれはそれ、って考えとけば良いんじゃない?」「俺はそんな大人には成り切れないんだよ。これから先は作品観るたびに「本当は色なんかついてないんだよなぁ」って思わされるじゃん」

「思わされるってさぁ、おまえ。俺らもう23だぜ?それが現実なんだから仕方ないよ」

「現実、現実ってさぁ。大人になるとそんなんばっかだよな」

「んなもん昔からじゃないの?学校に行かなきゃいけない、宿題しなきゃいけない現実とか」


 アイスコーヒーの氷が溶けて、味が薄くなり始めた。氷をコーヒーで作ってくれていればこんな事にはならないはずだ。煙草との相性がひどく悪くなる。これだから薄利多売のチェーン店は好きになれない。店員も心なしかブスに思えてくる。しばらくの間、宙を眺めていた友人が「あー」と間延びした声を出すと、煙を深く吐き出してから言った。


「そういえばさ、ガキって今見たら皆んな同じような小さいガキに見えるけどさ、小一の頃とか三年生が物凄く怖い存在に思えてたよな」

「それはある。中学生とかもう完全に大人に見えてたな。実際にはまだチン毛も生えてないようなガキばっかなのにさ」

「そんなもんなのかな」

「え?」

「いや。なんかさ、人生ってそんなもんなんだろうなぁと思って」

「どういう事だよ?」

「具体的に何て言えば良いか分からないんだけど、多分そうなんだよ」

「怖いのは変わらないというか、同じ事の繰り返し的な?」

「いや。同じ事ではないんだけど、根本は同じなんだよ。きっと気付かないだけで、あるんだよ、それはずっと。これからもずーっと」

「宗教みたいな話になってきたぞ。おまえ、大丈夫か?」

「あ、あ、あ!そう、そうだよ。宗教は近いんだ。それがこう、もっと真理に近付いたら哲学とかと同化するんじゃないか!なぁ?」

「分からないよ。とりあえず俺は生きて、目を開けて、自分が見える世界を処理するので精一杯だ」

「真理があったら、怖くないだろうな。そうだ、そうなんだよ」


 その一週間後。駅前である宗教団体が発行している新聞を配る友人の姿を、私は女と共に目撃した。


 友人は機械のような笑顔で、辺構わず新聞を配っていた。


「ねぇ、アレって島崎くんじゃない?」

「だよな……何やってんだ、あいつ」


 私達は彼を避けるように、なるべく距離を取りながら駅の構内へと急いで向かった。幸い、新聞を配るのに夢中な彼は私達の存在に気付いていないようだった。

 まるで、機械のような笑顔。アレが真理?少しは近づけたのだろうか。

おめでとう、島崎。心の奥でそう呟き、私は女の腰に手を回しながら電車へと乗り込んだ。


友人はその日を境に元友人となり、私の携帯電話のメモリからもその名前は消え失せた。そして、それから二度と顔を合わせる事は無かった。


 午後。画材を抱えた男の老人が歩道橋の下で階段を見上げている。ベレー帽に銀縁メガネと、まさに絵に描いたような絵描きの風貌だ。脇に挟んでいる大きな板のようなもの、あれがキャンバスという奴だろうか?沿道の鉄柵に腰掛けながら、私は老人の姿を真横から眺めている。


 老人は「えい!」と気合いを入れたような表情になると、画材を抱えながら階段を上り始めた。

視界から老人画家の姿が消えてから十秒余り。安っぽく乾いた音を立てながら、キャンバスが階段を転がり落ちて来た。そして、私の目の前でくたばった。

息を切らしながら老人は階段を下りて来ると、キャンバスに申し訳なさそうな顔をしながらそれを拾い上げた。そして、私に向かって怒りの滲んだような眼差しを向け始めた。


 私は胸の中で老人との会話を始めた。


 何を睨んでいる?ならば、初めから助けてほしいと頼めば良いだろう?何故それをしなかったんだ?

これは私の命だ、人に預けるなんて事はしない!誇り高き私の命は多少の挫折なんかでは傷ついたりしない!

自分で守れもしない命なら、人にくれてやれ。

その時が来たら、私は自害すると決めている。


 そこまで胸中で話すと、老人が弱々しい声で私に向かって懇願して来た。


「あのぉ、お兄さん。手伝ってもらえませんかね?なんせ、足腰が弱くってね」

「あぁ、それは大変ですね」


 私は鉄柵に腰掛けたまま、車道に向かって手を挙げた。すると、すぐに一台のタクシーが掴まった。困惑する老人を見下ろしながら、私はタクシーを指差してその場を立ち去った。

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