第5話 恩師
それからも流川は、たびたび店に顔を出すようになった。
ただ何も話さずに酒を一杯飲んで帰るときもあれば、九州へ旅行に行ったときのお土産だと言って、明太子の入った箱を渡されたときもあった。
「生徒全員にこんなことしているのか?教師って仕事も大変だな。」
俺が皮肉交じりにそう言うと、流川は肩をすくめた。
「そんなわけないだろ?お前に特別に買ってきたんだ。他のみんなには内緒だぞ?
おい。そんな微妙な顔するなよ。なんだ、明太子嫌いだった?」
「・・・嫌いじゃねーよ。」
俺はその箱をリュックの中に放りこんだ。
でも俺は、にわかにはこの教師に心を開くことは出来なかった。
俺がこの世で最も憎んでいるあの女だって、最初は親切顔して俺に近づいてきた。
もう二度と同じ過ちを繰り返したくなかった。
ヘタに気を許して、そのあとに失望させられるのが怖かった。
流川だって自分のクラスに学年一の不良がいることを、校長や上の役職のヤツらに咎められて保身のために仕方なく通ってきているのかもしれないし、単に熱血教師を気取っているだけかもしれない。そんな自己満足に付き合わされるのはまっぴらゴメンだと思った。
かろうじて学校に通っていた俺に、流川はいつも「よっ」と会うたびに背中を叩いてきた。
正直、うざい教師だなとは思ったが、悪い気はしなかった。
俺を遠巻きに怖がる教師や同級生ばかりの中で、流川だけが普通に接してくれていた。
流川の担当教科は社会科で、大河ドラマに出てくる歴史上のキャラの物真似をして生徒達を笑わすのが得意だった。
「日本を今一度せんたくいたし申候!!」
と流川が坂本竜馬の言葉を武田鉄矢のしゃべり方で叫ぶと、クラスのお笑い担当の同級生が「僕は死にましぇーん!」と混ぜっかえし、クラス中が爆笑に包まれる。
俺は流川のくたびれた衣服を見ながら、(自分のワイシャツを洗濯しろよ)と心で思いつつ、微笑していた。
「鳴かぬなら殺してしまえ~ホトトギスとは織田信長。鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス、は豊臣秀吉。鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス、は徳川家康。もうこれは超有名だからみんなも知っているよね?自分はどのタイプだと思う?胸に手を当てて考えてみよう!」
そんなことを真剣に考えるのは馬鹿らしいと思いつつ、自分はどのタイプだろうと心に問うてみる。生き物を殺すのは俺の望みではない。だからと言って鳴くまで待つなんてまどろっこしいことは性分に合わない。俺ならホトトギスを鳴かせてみせる、そう思った。
また、流川は吉田松陰が歴史上の人物の中で一番好きだと言って、クラスの教室の壁に松陰の残したこんな言葉を紙に書いて貼った。
「夢なき者に理想なし 理想なき者に計画なし 計画なき者に実行なし 実行なき者に成功なし 故に夢なき者に成功なし」
夢なき者に成功なし・・・か。
俺には夢なんて何もない。
生きる希望も展望もない。
ただ酒と煙草と女に溺れ、流されて暮らす日々・・・。
そんなある日、流川が細長い紙きれをひらひらと俺の顔の前に揺らしてみせた。
「鹿内。お前、野球好きだよな?」
「・・・もう野球なんか興味ない。」
野球部を辞めたその時の俺は、その球技の名前を聞くのも嫌だった。
「そう言うなよ。読売ジャイアンツVS阪神タイガースのプレミアムチケットが手に入ったんだ。
僕と一緒に行かないか?」
「興味ねえって言ってんだろ!」
俺は流川を無視して通りすぎようとした。
「お前さ。好きなものには正直にならないと、人生損するぞ。
お前が思っているより、人生は長いようで短いんだからさ。」
そう静かにつぶやき、流川は俺の肩を抱いた。
「お前、野球部のときはどこのポジションだったんだ?」
「・・・ピッチャー。」
「ピッチャーの素質ってなんだかわかるか?
それは肩が強いことと、コントロールが良いってことだ。
お前は夜遊びしている割に、成績もいいし、授業も真面目に聞いている。
それはお前が心のどこかで自分の人生を良いものにしたいと願っているからだ。
鹿内、お前は人生をコントロールする力があるんだよ。」
「・・・・・・。」
「で。とりあえず、一緒に野球観にいかない?
僕は野球好きな友達がいないし、連れていく彼女もいない淋しい男なんだよ。
なっ。頼む!」
流川は人目も気にせず、俺に頭を下げた。
「やめろよ。俺が悪いことしている気分になるだろ?
わかったよ・・・行けばいいんだろ?」
「やった!」
その試合は土曜日のナイターで、俺は流川に連れられて水道橋にある東京ドームへ行った。
プレミアム席というだけあって、席は選手の顔が肉眼で見えるほど、前の席だった。
久しぶりに野球に触れて、仏頂面をした顔とは裏腹に心は弾んでいた。
固い椅子に座ると、楕円球の屋根が広いグラウンドを包み込んでいた。
流川は俺にコーラの入った紙コップを渡し、自分は冷えたビールを買って喉を潤していた。
その日のスタメン選手の名前が、電光掲示板に表示された。
幸運にも、その日の先発ピッチャーは俺の好きな選手だった。
試合はジャイアンツの劣勢で始まった。
ピッチャーの腕が悪いわけではないのに、外野手のつまらない凡ミスで点数を取られてしまい、タイガースは塁に出た選手をバントで確実に進め、手堅く点数を稼いでいった。
試合を観ながら、俺の中で眠っていた野球への情熱が胸を熱くさせていた。
もう一度、あの白球を投げたい。
バッターボックスに立って、思い切りバットを振り切りたい。
9人力を合わせて、勝利に向かって全力で戦う快感を味わいたい。
9回裏、ジャイアンツは3点リードされ、ツーアウト満塁、手に汗握る試合が展開されていた。
ここでホームランを打てば逆転勝利、三振すれば試合終了。
ジャイアンツのバッターが打席に入り、バットを構えた。
ツーストライクを取られ、最後の一球が投手の手から離れた。
俺は呼吸を止めて、最後の瞬間を見届けた。
直球ストライクの球を、バッターは思い切り振って・・・空振り三振した。
ああーとジャイアンツ席の観客の小さなざわめきが球場内にじわじわと広がる。
ジャイアンツは負けてしまった。
けれど俺はそれを観て、晴々とした気持ちになった。
負けてしまったけれど、直球勝負に思い切りバットを振った選手を格好いいと思った。
「やったー!!阪神の勝利!!」
隣の席に座る流川が、喜びの万歳をしていた。
「先生・・・ジャイアンツのファンじゃなかったのかよ!」
「あれ。言ってなかったっけ?僕は生粋のトラキチだよ?」
流川は悪戯っぽくそう言って笑った。
中学3年になり、俺は高校への進学先について迷っていた。
実家から通える名門野球部のある私立高校へ進むか、それとも父の兄、つまり伯父の家の居候になってその地区の公立高校へ通うか。
俺は3年になって部屋に鍵をつけた。
もう二度とあの女の身体を触りたくないし、身体を触らせたくもなかったからだ。
そして自然と不良グループのたまり場からも遠ざかっていった。
不良グループの奴らも、俺が停学処分になるくらいの暴力をふるう、キレると本当にヤバいヤツだと思っていたらしく、特に引き留められることもなく足を洗うことが出来た。
柴田先輩だけには頭を下げに挨拶をしに行った。
柴田先輩は「弘毅は根が真面目だからな。頑張れよ。」と笑って送り出してくれた。
同時に俺は無軌道な女遊びをキッパリと止めた。
欲望と打算だけの関係は空しいだけだと気づいたし、これ以上自分に失望したくなかった。
俺は流川に義母から受けた性的暴行を打ち明けた。
流川はただ黙って、俺の話を静かに受け止めてくれた。
「僕はね、鹿内が昔の僕にとてもよく似ていると感じていたから、放っておけなかったんだ。
僕の家は代々歴史ある総合病院を経営している。
僕には兄がいてね。兄は小さな頃からとても利口で活発で両親の期待を一心に背負っていた。
その点次男の僕は放任主義で育てられて、少し淋しかったけど自由で気楽でもあった。
でも中学のとき、兄が突然の事故で亡くなった。
両親の悲嘆は半端なかったよ。
そしていつしかその期待は僕に向けられるようになった。
その期待が僕には重くて、家に帰りたくなくて、僕も鹿内と同じように、街をさまよったよ。
僕は弱かったから、いつもゲーセンで時間を潰していたけれどね。
僕は医者になる気なんて全然なかったから、家にいるのが息苦しくて、高校のときに遠い田舎に住んでいる祖母の家へ逃げたんだ。
それ以来、両親とは疎遠になっている。
でも風の噂で、僕の両親は父の部下である優秀な人材を見つけて、その人に病院を継がせることに決めたと聞いた。心から安心したよ。」
「・・・・・・。」
「鹿内。伊達政宗はこんな言葉を残している。
まともでない人間の相手をまともにすることはない、とね。
逃げることはけっして悪いことじゃない。
人間、嫌な場所からは逃げたっていいんだ。
自分が一番自分らしくいられる場所で生きていく方がいい。
僕はそう思うんだ。」
俺はその言葉をきっかけに、自分の進路を決めた。
実家を出て、伯父のところで厄介になり、公立高校へ通おうと・・・。
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