◇ そうせねば弟の薬代を稼げなかった。

 目を覚ます。


 自室のベッドの天蓋をぼうっと眺め、パルフェはシーツに手をついて体を起こした。眩暈がする。苦しい。


(どうして……繰り返す度に穢れが増えていくの……)


 大天使の加護があるから何とかなっているが、普通の人間だったならとっくに穢れが溜まり切っているだろう。だが、これも全て姉の為だ。パルフェが苦しむ分、姉は穢れ無き魂でいることが出来る。後は、その無垢なる魂を保ったまま神との式を迎えるだけだ。


 それだけのことだったのに、もう何度繰り返しているのだろう。


「っう……」


 ふう、ふう、と息を吐きながらベッドを降りる。日課のお祈りをしに行かなくては。そう思うのに、体は動かず、パルフェは床に顔から倒れ込んだ。


(こんなところで寝ている場合じゃないのに……っ!)


 這いつくばって移動しようにも、体を引きずる腕力も無く、パルフェは思考ばかり回していた。


(リーヴィの説得をしなきゃ……お姉様に式の事を気づかれないように、周囲に口裏を合わせてもらわないと……お茶会の日は欠席して……お姉様に泣きついてエオル様との面会を避けて……お姉様が髪飾りを私に差し出さなくても済むように隠して……今度こそ誕生日よりも前に出立するのよ! そうすれば、お姉様に咎の証は浮かばない!)


 そのはずだ。だって、平時では姉は罪を犯すような人間ではないのだから、パルフェがエオルと恋に落ちさえしなければ、咎の証が浮かぶ事はありえない。ありえないと思っていたのに、前回のあれはなんだ!


(お姉様……貴方を、悪魔になんてさせないわ)


 やる事は多い。だが、出来ないような事ではない。パルフェは着実に姉の魂の穢れを浄化して来た。なのにどうして、ここ数回は上手く行かないどころか、逆に穢れが溜まっていくのだろう?


「パルフェお嬢様──」


 物音を聞いてか、メイドが扉をノックし、少しだけ扉を開けて室内を窺った。床に転がるパルフェが見えたのか、メイドは急いで室内に上がり、パルフェを抱き起した。


「どうされましたか!?」

「なん、でも……」

「顔色が悪うございます! 医者を呼んで参ります!」

「待って……」


 パルフェを近くの椅子に座らせて部屋を出ようとするメイドの裾を掴み、引き留める。


「今日、て……何日……?」

「え……? は、春の月、二十三日でございますが……?」

「そう……分かりました、行ってください……」


 怪訝な表情を浮かべながら医者を呼びに退室するメイドの背中を見送り、パルフェは椅子の背もたれに肘を置いてぐったりとしながら考える。


(お茶会の前日……この体調の悪さなら、演技なんてしなくても欠席できそうだわ)


 リーヴィの説得も、これまでの経験上、一日あれば何とかなる。義弟は素直であるし、面倒くさそうな顔をしてもパルフェやファニーシュのお願いを断る事は極力しないような性格だからだ。


(あの髪飾りはどうしよう……今の私で、お姉様に見つからないように取りに行けるかしら……)


 どこに仕舞われているかは分かっているが、今のパルフェの体調では、素早く部屋に忍び込み素早く持ち去る、というのはやや難しい。いっそのこと別の何かを贈り物として買ってもらい、それを式の日につけていくというのはどうだろう?


 想像して、パルフェは頷くように目を伏せる。


(まず私から、日ごろの感謝として何かを贈りたいと言えば……お姉様はきっと、お返しに自分からも何かあげるって言うはず……二人でお父様にお願いして、それぞれ贈りたい物を選んで買ってもらう……)


 そうして互いに買ってもらった物を交換し、それを式の当日に餞別として持っていく。姉はそれでも、何かあげたいと言うかもしれないけれど、『持っていけるのは一つだけなんです』とでも言えば、引き下がってくれるだろう。


 よし、これだ。


 パルフェは息を吐き、日課のお祈りに行こうとしてまた倒れた。


***


 パルフェを診た医者は、首を傾げながらも「過労でしょう」と口にした。倒れる程の原因らしい原因が彼には分からなかったのだろう。そりゃそうだ、と内心でパルフェは呟いた。


(魂の穢れなんて、よほどの聖職者でなければ分からないもの……)


 普通の医者が見たところで、何も分かりはしない。だから奇病患者は教会預かりとなるのだ。


 そんな聖職者の中でもベル教会の神父──聖職者であることが天職であるような人物だ──は、僅かな穢れすら察知できると有名で、だからこそ両親はファニーシュをベル教会に預けたのだろう。


(毎月会う神父様から、お姉様の事で悪い報告は無かった……なら、お姉様の魂が穢れる原因は私がエオル様に恋をしてしまうこと……その罪を罰しようとして、私を殺そうとしてしまうこと……)


 それさえ防げれば、後は姉を大叔父のところに行かないようにして、パルフェの目が届く範囲で罪を犯さないように見張るだけだ。


(前回、咎の証が浮かんだ理由は分からないけれど、大叔父様のところで何かがあったのは確か……。だったら、大叔父様のところに行かないように言っておけば……それと、エオル様と顔を合わさないようにしておけば、大丈夫……)


 本当に?


「……」


 心配性な自分が顔を覗かせ、パルフェは眉根を寄せてベッドの上で天蓋を眺めた。


(原因が分からないのに、放っておいて大丈夫? お姉様は私の想像通りに動いてくれる?)


 不安になって、パルフェは枕元に置いてある本から解決策を得ようと手を伸ばし──そこに何もない事に気づいて、固まった。


(あ……れ?)


 体をよじり、枕元を見る。クッションがあるだけで、そこに書籍は一つもない。


(どうして? だって、お母様に頼んで、本を……)


 それは、何度目のやり直しの時の話だったっけ?


(あれ? 私、ちゃんと毎回……だって、明日はお茶会でしょう? 三日前までにはいつも……)


 今回は、お茶会の何日前からやり直しているんだったっけ?


(お姉様が変な知識を得ないようにって、奇病に関する本を先に、書庫から……)


 今回もそうしたんだったっけ?


(あれ……? 書庫の奥の部屋を、天使の加護で隠してもらった、よね……?)


 前回もやったっけ?


 ……もう何も分からない。今自分がどこにいるのか、何をしたのか、しているのか、それさえも分からない。混濁とし始める記憶に縋るように、パルフェは頭を抱えてプラチナブロンドを掻きむしる。


「しっかりしなきゃ、しっかりしなきゃ……今回は、前日から始まっているのよ……まだ二、三時間しか経ってない……何も難しい事なんて無いわ……」


 落ち着こう。そう決めて、深呼吸をする。大丈夫だ。今度こそ、全ての穢れを浄化するのだ。


 俯き、決意を新たにしていると、扉がノックされた。返事をする前に扉を開けてちょこんと顔を覗かせたのは、姉のファニーシュだった。


「っお姉、様……」

「パルフェ大丈夫? さっき、急に倒れたって聞いたわ!」

「か……過労、では……と、お医者様が……」

「そう……。じゃあ、寝ていたら治るのかしら? 何か欲しいものはある? 持ってきてもらうわ!」


 ベッドのすぐ近くまで駆け寄って、ファニーシュは満面の笑みを浮かべた。屈託のない笑みは、物心ついてから初めて教会で顔を合わせたあの頃と変わらない。


「では……」

「なんでも言って!」


 腰に両手を当てて胸を張る姉に、パルフェはやつれた顔のまま口を開く。


「明日の、お茶会なのですが……欠席、を……させて、いただきたく……」

「まあ! 明日には良くなっているかもしれないわよ?」


 小首をかしげて、菜種色の鮮やかな髪を揺らしてファニーシュはこちらの顔を覗き込んだ。百群色の大きな目が、ぱちぱちと数回瞬きをした。


「それに、わたくし今回は自信があるの! 呼んだ覚えが無いからさっき会ってびっくりしちゃったのだけれど」

「なんの、お話です……か……?」


 前後が繋がらないファニーシュの言葉に少し困惑する。姉は元々思いついたままに勢いで話す癖があるが、それでも文脈から何となく言いたい事が掴めていただけに、何を言っているのかまるで分からない今の姉の発言に内心で首をかしげる。予期せぬ来客でもあったのだろうか?


 一瞬きょとんとした姉は、二回程瞬きをして、「あっ」と声を上げた。


「なんでもないわ! こっちの話!」

「そう、ですか……?」

「ええ! じゃ、じゃあ、パルフェは明日、部屋でお休みするとお父様たちに伝えておくわね!」


 にこにこしながらそう言ったファニーシュは、何気ない動きで自らの首を擦り、考え込んでいるのか「ん~」と小さなうめき声を出した。


「……お姉様」

「ん? なあに?」

「私の方からも……お姉様は、何か……欲しいものは、ありますか?」


 百群色の目が不思議そうにパルフェを見つめた。先ほどとは逆の方向に首をかしげて、ファニーシュは「欲しい物?」と質問を繰り返した。


「お姉様には、いつも……お世話に、なっていますから……日頃の、感謝に何か贈りたいなと……」

「あらっ、素敵ね! なら、わたくしからもパルフェに何か贈りたいわ!」


 予想通りの反応に安堵する。続けてパルフェが「でしたら、今日の内にでもお父様に言って、商人の小冊子でも見て決めましょう」と提案すると、ファニーシュは満面の笑みで頷いてくれた。


「なら、それもわたくしから言っておくわ! 後で部屋に持ってくるから、一緒に決めましょうね!」


 楽しそうに少し飛び跳ねた姉を、長年付き添っているメイドがそっと止めた。


「ファニーシュお嬢様。パルフェ様は体調が悪いようですから、一度下がりましょう」

「そうね!」

「明日の茶会の、細かい段取りの確認もあります。それが終わったら、先ほどの約束のお時間を取りましょうか」

「そうしましょう!」


 それじゃあね、と元気いっぱいに手を振る姉を見送り、扉が閉じ切ってからようやくパルフェは体の緊張を解いた。


(お姉様は、普段とお変わりないわ……なら、エオル様とさえ会わずに済めば、今回は上手く行きそうね。それにしても、前回の失敗原因は何だったのかしら……)


 安心からか前回の反省会を開く。姉の小さな足音が遠のいていく。


「大丈夫よ! わたくし、お茶会にはもうすっかり慣れているのよ!」

「まあ、素晴らしいですね、お嬢様」

「そうでしょう! それにねっ今回は、今まで何人ものお友達との仲を取り持ってきたすっごーい人が味方なのよ!」


 それとは正反対に元気いっぱいな話声が遠のくのを聞き流しながら、パルフェは思考の海に沈んだ。


(大叔父様の家は、旧リャーナルド邸……使用人もうちに長く勤めている者と大差ない教養のある人ばかりだし、何か粗相があったとは考えにくいわ……大叔父様がお姉様に何か危害を加えようとしたとしても、我が家の血筋の人間であるお姉様を優先して守るはずよ。だって、大叔父様はお母様の血筋の人間で、本来はリャーナルド家とは無関係の人間だもの)


 更に言えば、大叔父は貴族の生まれではあるものの次男で継ぐものがなく、家を出て新聞記者として働いていた、比較的平民に近い立場だ。姉と大叔父、二人が並べば姉の方が発言力は高い。


 書庫にあった記録によれば、大叔父は──姪(パルフェらの母)の結婚相手であるリャーナルド家を訝しんで個人的に調査した。清き一族、という前評判が庶民派であった大叔父にはかえって胡散臭かったのだろう。裏があれば新聞に載せて大々的に発表し、結婚を白紙にしてやろうとも考えていたのかもしれない。しかし鋭い調査能力と、悪魔に対する知識、日頃から僅かに感じていた神々への違和感などが綺麗に繋がり、彼は推察に確証を得ようとしてリャーナルド家本邸に忍び込み……真実を知ったその現場を、リャーナルド家の人間に発見され、清き一族に組み込まれたという経緯がある。


(当時を知っている使用人もまだいると聞いているし……あの家で何かが起こるとは思えないのよね……だとすれば……)


 大叔父の管理する家で事があって姉に咎の証が浮かんだのではなく、外で姉の身に何かがあり、泊っている大叔父の家に戻った時に小さなきっかけで証が浮かんでしまった、と考える方が自然だろうか。外であった事と言えば……。


(神父様が、突然亡くなったのよね、確か……これまでの巻き戻りで、彼が亡くなったのも前回が初めてだわ)


 これまではファニーシュに咎の証が浮かぶのはこの屋敷での出来事が原因なのだから、神父は関わりようが無いので当然と言えば当然だ。


 それに、伝え聞いた話では神父の死に様は異様だったそうだ。外傷こそ見当たらなかったものの、まるで、全身の血がワインに差し替えられたような状態だった、と。


(まるで、悪魔の力のような……ザヌにもそういった力があると書いてあったけれど、まさか神父様が契約なんてするかしら?)


 神職が天職という、奇特な人間がわざわざ悪魔を召喚する理由もないはずだ。加えて、ザヌの召喚には前述の通りザヌの配下である名も無き悪魔による試練に耐えなければならない。奇病患者を少ない人数で面倒を見ている状況下で、神父がそんなことをしている暇があるだろうか?


(……いいえ。ザヌと似たような力を持つ名も無き悪魔を、神父様を邪魔に思う誰かがけしかけたと考える方が、まだありえそうな話よね……)


 当時の状況は直接見てはいないが、姉が少し不機嫌になっていたので他の子らと離れて二人は聖堂で話していた、ということだから、無防備で人目が少ないのを良い事に狙われてしまったに違いない。今回は彼の訃報が届いていないところから考えるに、人目があれば神父が襲われる心配もなさそうだ。


(あの神父様に敵対者なんているのね……できれば、その問題も片付けてしまいたいけれど、さすがに……この背負った穢れの浄化で手一杯……今回は諦めざるを得ないわ……)


 胸に手を当て、パルフェは小さく息を吐く。これだけの穢れを一度に浄化し切れないのは経験則から分かる、つまり後数回は時間の巻き戻しを繰り返す必要がある。言い換えてしまえば、神父を守る機会はまだあると言ってもいい。


(お姉様に咎の証が浮かばない最適解が見つかれば、あとはそれを繰り返すだけだもの……神父様の事は、最適解を見つけてある程度浄化が済んでからにしよう……少なくとも、この穢れでは自由に動けそうにないわ)


 もしかしたら、パルフェが式を挙げた後に魔の手に晒されるかもしれない神父を思って、パルフェは静かに祈った。


***


 夜になり、姉が約束通り小冊子を抱えて部屋を訪れた。


「明日はパルフェはお休みよって、お父様たちには伝えておいたわ!」

「ありがとうございます」

「午前中に比べると顔色が良くなったわね! よかった!」


 心の底から嬉しい、と言いたげな姉の笑みにこちらもつられて微笑む。にこにこしながら、ファニーシュはどこに座ろうか迷った様子で周囲を見渡し、パルフェがまだベッド上から動けないのを察したのかベッドに上がっていくつかの冊子を広げた。


「贈り合いするのよって言ったら、お母様が『これもどう?』って色々見せてくださったの! パルフェが気に入るものがあればいいのだけど!」

「お姉様も、ですよ」

「そうね! 今度リーヴィともしようかしら! あの子ったら、いつも遠慮して受け取ってくれないの! 婚約の話だって出ているのに、不格好なままじゃ相手に失礼よって言ってるのに!」


 リーヴィは養子入りした直後に、父に勉強と称して各地を連れられ貧民街から詰所などを見て来た経験があるので、あまり金目の物を身に着けたくないそうだ。一応ファニーシュもそれは聞いているはずだが、どうしても嫁ぐ相手に自分を重ねてしまうようで、時々リーヴィと『着飾れ』『嫌だ』という口論をしているのを見た事がある。


 何かあの子に贈っても受け取ってもらえるようなものはないかしら、と独り言のように言うファニーシュに倣って、パルフェは別の冊子に手を伸ばす。


「そうですね……リーヴィには、それを買う事で作り手の支援になるようなものが、良いかもしれませんね」

「でもそういうのって、質がバラバラでしょう?」

「説明すれば、リーヴィは受け取ってくれますよ」

「ん~」


 納得いかない唸り声を聞きながら、パルフェは頬を綻ばせた。


 この穏やかな時間がずっと続けばいい。何も知らないまま、美味しいものを食べて、綺麗なものを着て、遊んで、ゆっくり眠って……そんな日々を、神との式まで続けたい。それだけの簡単な事が、神経をすり減らして慎重になっても、以前までの正解を重ねても、続けられない。


 全ては、パルフェがエオルに恋をしてから狂ってしまった。


「お姉様……」

「なーに」


 ぺらり、と薄い紙をめくりながら、視線を冊子に落としたまま姉は空返事をした。ふっくらとした頬を俯かせて、真剣な眼差しで冊子の写真を眺めるファニーシュに肩を寄せ、パルフェはぽつりと呟いた。


「明日は……お願いしますね……」


 明日さえ無事に過ぎてしまえば、後の攻略方は分かっている。釘をさすパルフェの意図も分からずに、姉はきょとんとしてから、「ええ! 頑張るわ!」と元気いっぱいに返答した。


***


 全て完璧だ。


 今回こそは全てが上手く行き、次回からは同じことを繰り返すだけだ。──そう思っていた。


 両親を含めた顔合わせの茶会の当日、エオルと対面するまでは。

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