あほ令嬢は死んでも治らない。

灯針スミレ

愚かな令嬢・『ファニーシュ』

善良な破壊者・『ラァム』

◇ 正直者の男は騙された。

 そこにあったのは純粋なる殺意だった。


 タイミング悪く、雷が鳴った。


 いやおそらく、雷が鳴らずとも計画は失敗だった。妹が雷鳴で目覚めこちらを押しのける寸前に、義弟が部屋の扉を開けたからだ。


 柔らかな枕で頭を包み、寝息を立てる美しい妹のパルフェに馬乗りになり、今まさに振り下ろそうとした小ぶりなナイフが、雷光できらりと輝く様を見ても、義弟のリーヴィは然程顔色を変えなかった。


 パルフェに押され床に転がった拍子に取り落としたナイフを、彼はいつものように淡々とした態度でさっと部屋の隅へと蹴り飛ばし、何もかも見透かしたような目で黙ってこちらを見下ろしていた。


 その視線に構っていられるほど、こちらは暇ではなかった。


「っぬおお!? うああ! 痛あああいっ!」


 生まれてから十五年、貴族令嬢として健やかに育った彼女は、突き飛ばされた拍子に後頭部を床に強打した初めての痛みにもだえ苦しんでいたからである。


 ファニーシュ=リャーナルド。十五歳。片田舎に領地を持つリャーナルド伯爵家の長女であり、この場にいる三人の中では一番歳上……なのだが。


「うわあああんっ! 痛ぁい! なんで蹴るのよぉ!!」

「凶器を持っていたからです」


 そりゃそうだ、と言いたくなるような単純明快な答えが返ってくるのも納得がいかない。


「逆に聞きたいんですけど、貴女どうしてびしょ濡れなんですか」

「嵐が来たら外に出たくなるでしょ!」

「なんでだよ」


 なんでと言われても、風が強い日や大雨の日は外に出て叫んでみたくなるのがファニーシュなので、そんな自然の摂理や本能的な部分を疑問に持たれても困る。


 今日だって、ファニーシュは嵐が来たから真夜中だというのに外に出て、大雨に打たれながらふいに思い立ったのだ。そうだ、妹を殺そう! と。


「──まあ、おかげでパルフェ姉様の部屋まで廊下が水浸しだったので、ファニーシュ姉様がいるなと分かりましたけど」

「なんでよ!」

「今説明しただろ」


 はあ、とリーヴィはわざとらしくため息を吐いた。


「これだからアホは……」


 興奮気味のファニーシュの耳にはその呟きは聞こえなかったらしく、抗議の矛先をのらりくらりと躱す義弟から、未だにベッドの上で呆然としているパルフェに変えた。


「なんで突き飛ばすのよ! なんで起きるのよ! 大人しく殺されなさいよぉ!!」


 自慢の菜種色の髪をぐしゃぐしゃにして、顔を真っ赤にして理不尽な要求を泣き叫ぶ様は、令嬢としても人としても色々と失格だった。慌ててベッドの上で体を起こしたパルフェの方がまだ令嬢らしさを保っていると言えよう。


 灯りを持って扉の前で眉をひそめていたリーヴィが使用人を呼び出す。あっという間にファニーシュは取り押さえられ、騒ぎで起きて来た両親は『娘が妹を殺そうとした』という部分だけ聞くと泣き崩れたが、そんなことで反省するファニーシュではなかった。


「こいつが悪いのよ! わたくしから、エオル様を盗った!」

「そ、そのような事は……」

「エオル様はわたくしの婚約者よ! それなのに! こいつ! こいつ!!」


 仮にもこの屋敷の娘であるせいか、強くは押さえられないでいる使用人の腕の中でファニーシュは暴れた。


 妹であるパルフェが、ファニーシュの婚約者であるエオルに色目を使った、と。


 あらぬ疑いをかけられたパルフェはほとんど白に近いプラチナブロンドが乱れるのも気にせず全力で首を横に振り、手の平も振り、長い睫毛に縁どられぱっちりとした百緑色の目に涙を溜め、そんな事実はないと表明する。


 周囲から身も心も天使のようだと評されるパルフェの無実の表明に家族も使用人も皆納得するが、ファニーシュだけは聞きやしなかった。とかく、パルフェがエオルを盗ったのだと言い張るばかりだ。


「落ち着いてください、ファニーシュお姉様! 私がエオル様と顔を合わせたのは、昨日のことではありませんか! そのような事を仰られましても……」


 パルフェが言う通り、二人が出会ったのは昨日の、姉の婚約者との顔合わせとして開いた小さな茶会だ。主催は当然ファニーシュで、その場にはリーヴィや両親の他にも相手側の親もいた。二人は互いに名乗り、以後よろしくと簡単な挨拶をして、以降は家族の団欒程度の差支えの無い会話を交わしただけだった。


 それだけ、ではあったのだが。ファニーシュは譲らない。これは女の勘である。互いに顔を合わせたほんの一瞬、間があったのだ。名乗り合うその僅かな沈黙の間に、互いが互いを見る目が変わった。少なくともファニーシュには、婚約者と妹が恋に落ちたと悟ったのだ。


 許せなかった。いくら己をアホだのバカだの罵られようとどうでもいいし、妹は天使のようで姉はダメダメだと他の貴族の間で囃されても気にしないが、婚約者のエオルを盗られるのだけは我慢ならなかった。


 だって、エオルを先に好きになったのはファニーシュの方だ。この人がいいと父に言って婚約者にしてもらったのだ。向こうだって快く受け入れて、正式に婚約者になったのはファニーシュだ。それを、横から、後からなんて、到底許される行為ではない。


「許せないわ! わたくしのものを盗ろうだなんて! 死んで償いなさい!」

「お姉様……何故……!」


 分かり切っていたことだが、狼狽えるパルフェを見て、ファニーシュは図星に他ならないと更に自身の勘の正しさに自信を持った。


 不貞を働いたパルフェは家を出ることになるだろう。その後はよく知らないが、修道院に入って慈善活動やらなんやらをするに違いない。まあパルフェは律儀だし、人当たりもよく、質素倹約を好むし、庶民の生活にもすぐ馴染むだろう。反省しているようなら、パルフェが入る修道院に寄付もしてあげよう。婚約者を盗った事以外は特に恨む理由がないからだ。


 勝ちを確信するファニーシュを他所に、父は額に当てていた手をそろりと離し覚悟を決めた表情を浮かべた。


「すまない、パルフェ……私たちは可愛さのあまりに育て方を間違った……」

「! お父様、お待ちください! ま、まだ、未遂でしょう……? そうよ、まだ……っ」


 不意に、父がファニーシュの前髪を押し上げた。突然何をするのか。いくら親子といえど、嫁入り前の淑女に異性が気安く触るものではないわ、と身じろぎをしたファニーシュの露わになった額を見つめ、父は「嗚呼……」と泣きそうな顔をした。


 恐る恐るファニーシュの顔を覗き込んだ母は嗚咽を上げて泣き出し、義弟は分かり切った事だとばかりに呆れながらそっぽ向く。パルフェはただただ、愕然と目を見開き、唇をわなわなとさせていた。


「咎の証が出てしまった……ファニーシュはもう、罪人だ」


 罪人? わたくしが?


 ファニーシュが説明を求めてファニーシュがぽかんとした顔で父を見上げれば、「そうか、分からぬか……」と愛おしさと憐れみを混ぜた視線を向け、使用人に用意させた手鏡をこちらに向けた。


 小さな鏡面にファニーシュの顔が映る。自身の百群色の目が、額の方に少しだけ向けば、菜種色の髪が押し上げられ晒された額に、焼き印のような痕がじわりじわりと浮き出ているのが見えた。


「何よこれ!」


 傷一つない淑女の額に知らぬ間に出来た痣に、困惑と抗議の声を上げるファニーシュに向けて、父はいつもの可愛い我が子を見つめる視線を向けながら説いた。


「これは“咎の証”。極刑の罪を犯したものに、神々がつける印だ。お前の罪状は……身内殺し、だろうな」

「身内殺しぃ? 死んでないではありませんか! パルフェは生きているでしょう!」

「ああ、そうだな……だが神々が決めた事に、我々は異議を唱えることはできないんだ……すまない、ファニーシュ」


 連れて行きなさい、と父であり、この家の当主の言葉に使用人たちは丁寧な手つきでファニーシュを連れて立つ。ファニーシュの部屋ではなく、地下に。


 え。と、小さな声を上げて父を見たファニーシュよりも先に、パルフェがベッドから降り、裸足で父の下へ駆けつけ縋りつく。


「待ってください、お父様! こんな……」

「パルフェも、分かってくれ。咎の証が出た者を、庇う事も手厚い待遇も許されない」

「ですが! お姉様はただ勘違いをされただけで……っ」

「すまない……」


 二人の会話が遠ざかっていく。「離しなさいよ!」と暴れても、「わたくしは悪くないじゃない!」と声を荒げても使用人たちもどうしていいのか分からないと言いたげな表情を浮かべるばかりで、ファニーシュは屋敷の地下牢の一つに入れられた。


 本来なら屋敷を襲った盗賊や暴漢を、衛兵が迎えに来るまで一時的に捕縛するための場所に、自分が入る事になるとは微塵も思っていなかった。椅子もベッドも無い石窟染みた空間で、ファニーシュは一人立ち尽くしていた。


「えっ、どうしてわたくしが?」


 我に返って檻を掴む。若干テンポが悪いとは、時たま言われるが、今もそれが発揮されてしまったようだ。


「悪いのはパルフェでしょう?」


 だって、婚約者を盗るという罪を先に犯したのは──犯したのだろうか? まあ犯したってことでいいか、うん。──妹の方なのだから、ここに入るべきは妹のパルフェの方ではないか。


「どうして咎の証とやらが、わたくしに出ますの?」


 神々の判定は間違っている。天使のようだという評を、鵜呑みにしているのではないか。パルフェは人間であって、神々の仲間では断じてない。


「おかしいわ! お伺いも立てずにわたくしが断じたのが許せなかったのかしら! でも、悪いのはパルフェよ! 間違いを取り消すなら今よ! ほら! 今ならわたくしも許すから、さっさと消しなさいよ、こんな印!」


 誰もいない空間に、ファニーシュは声を上げ続けた。


 日が明けてからも。衛兵がやってきてからも。裁判所に連れていかれてからも。罪が認められてからも。移された牢の中で、処刑の日が迫るのを待つしかできない間も、叫んだ。声は枯れ、声量はだんだん減り、痩せこけ、起き上がる力もついになくなり、何度となく様子を見に来たパルフェがやるせなさで泣き崩れる程になっても、抗議の声を止めなかった。


 叫ぶのをやめたのは、婚約者のエオルが面会に現れた時だった。


「エオル、様……っ」


 衛兵と使用人に囲まれてやって来た彼を見つけた瞬間、どこにその力があったのか自分でも不思議なほど、ファニーシュは素早く起き上がり檻のギリギリにまで近づいた。


 エオルの黄赤色の鮮やかな髪が、地下牢では暗くて色を判断しづらかったが、ファニーシュの名を呼ぶ声は間違いなく彼だった。遅いではないか。婚約者が投獄されたのだから、いの一番に駆け付けてほしいものだが、処刑ギリギリになったとはいえ会いに来てくれたのだから、視界がぼやけていることも、最近しみったれた配布食の味や匂いが分からないことも、どうでもよかった。


 ……まあ、妹のパルフェが後ろにいるのが気にならなくもないが、この際構わない。


「エオル様、エオル様……ああ、やっと会いに来てくださったのね……!」


 ファニーシュは確かにそう言ったつもりだが、発したはずの言葉は掠れ、途切れ途切れになり、エオルにきちんと届いたかどうか分からなかった。彼はファニーシュの言葉に返さず、檻の前でしゃがみ込み、そっとこちらの頬に触れた。


「ファニーシュ嬢。何もしてあげられなくて、ごめん」


 会いに来てくれたことが嬉しくてにこにこするファニーシュに憐れみを隠しきれない様子で、ぼやけた視界の中ではその端正な顔立ちもよく見えなかったが、きっと目を伏せるようにしてエオルは「ごめんね……」と再度謝罪の言葉を繰り返し、意を決して続けた。


「貴方との婚約を取り消した事を、報告に来た」

「……え?」

「咎の証が浮かんだ者と、関係を続けては家名に傷がつく。これは僕らだけの問題じゃない。君に妹弟がいるように、僕にも兄弟がいる。罪人と契りを結んだままでは……彼らに迷惑がかかる」


 数秒間があった。ファニーシュからの返答を待ったのかもしれなかったが、告げられた言葉の意味を理解するのに時間がかかっていて、何も言えないでいると、エオルは「ごめん」と呟いてファニーシュの頬から手を離し、立ち上がった。


「エオ、ル……様……?」

「……ごめんなさい」


 彼が踵を返す。いつもなら縋りついて止められるのに、檻が邪魔で手が届かない。足音が遠ざかっていく。灯りが遠のく。彼の後ろ姿がぼやけて、背景に溶けて消えていく。


「……お姉様」


 一人残っていたパルフェが、俯いたまま口を開く。鈴を転がしたように可愛らしくよく通る声が、普段はいやでも耳に届くのに、今日は素通りしていく。


 まだエオルの言葉を飲み込めないでいるファニーシュの前にしゃがみ込み、パルフェは祈るように指を組んだ。


「私は……何を、間違えたのでしょうか……教えてください、お姉様」


 取り消し……婚約の、取り消し……婚約破棄されたと、そういうことだろうか。ああ、これではいつもの茶会友達に笑われてしまう。貴族社会で腫物扱いにされる。


「エオル様とは、本当に何もなかったのです。距離感も保っていたはずです。どうして、会ったその日にお姉様があのような行動をされたのか……」


 いや、もう戻れないのか、そんな社会には。


「……なん、で……パルフェじゃ、な……ぃの……?」


 自分は悪くないのに。こんな忌みた印は、不届き者な妹につくはずなのに……。掠れた声では上手く言葉にならず、度切れてしまったがどうせ独り言だと気にせず、焦点が目の前のパルフェに合わさった。


 呆然と目を見開きこちらを見つめる彼女と目が合った。


「……っ!!」


 見つめ返すと、ひどく怯えた様子でパルフェは立ち上がり、震える足で去って行った。


 ファニーシュはぼんやりとしながら、力なく項垂れ、檻に額を押し当てた。エオルに会える日を心待ちにしていたのに、それはファニーシュの罪が冤罪だと晴れて自由の身になる日のはずで、こんな理解不能な事態は想定していなかった。


 エオルはこの後どうするのだろう? パルフェと婚約し直すのだろうか? だったら嫌だなぁ、とファニーシュはごろりと床に寝転がった。


 いつもそうだ。ファニーシュが欲しいと思ったものは大体パルフェに似合う物ばかりで、そうするとなんだか途端にいらなくなって、パルフェにあげてしまっていた。天使のように美しく優しい妹は、周囲からも何かを貰えるのが当たり前で、だからきっと、パルフェも悪い事だと認識できないまま、婚約者まで欲しがったのだ。姉として妹の教育を怠ったツケなのかもしれない。


 とはいえ、やられっぱなしでは不満だ。なんとかして、この牢の中から、処刑までの間にパルフェをぎゃふんと言わしてやりたい。


 下げ忘れられて埃を被ったスプーンに手を伸ばし、ため息を吐く元気もなく薄汚れた表面に自身を映し、それにも飽きて床を引っかいて絵とも文字ともつかない何かを描く。


「……そうよ」


 ふ、と。手を止めた。


 ボロボロの体を起こし、先ほどとは違い明確に描くべきものを思い浮かべながら地面を削っていく。


「あの子が天使のようだと呼ばれるなら、こっちは悪魔の力で呪ってやればいいのよ!」


 昔、絵本に描かれていた魔法陣を思い出しながら、適当に描く。悪者は描いた魔法陣の中から悪魔を呼び出し、憎き相手を呪っていた。……まあ当然、その後に天罰が下るのがお約束だったが、構うものか。


「多分こんな感じよね! あははっ、ふふ、うふふっ、っぐふ、うぇへっ、ゲホッ、ゴホゴホッ」


 ファニーシュはヤケになっていた。


 どうせ処刑は免れない。家族にも婚約者にも見放された。なら、もう捨てるものは何もないのだから、これまではきつく禁止されていた神への冒涜とやらでもやってみるかとスプーンで荒々しく床を削り続けた。


 何時間経ったか。それとも数分程度か、日は跨いだのだったかどうだったか。落書きとしか言いようがないデタラメな魔法陣の上でファニーシュは力尽きて寝転がっていた。元々薄暗かった牢の中は色彩を失い、魔法陣だけがぼんやりと淡く光りを放つ幻覚を見るまでに死ぬ一歩手前まで来ていたファニーシュに、ソレは囁いた。


「──よく飽きねぇなぁ、お前ぇらは」


 まさか本当に現れるとは。悪魔も大概暇らしい。



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