第八章 嵐の神とその極論

 おそらく物心ついた瞬間と言うのを、男は鮮烈なまでに覚えている。


 それは衝撃を以て男の魂に根ざし、その後を生きる為の糧となった。男に両親はいない。気づいたら居らず、灰色の寒空をフラフラと歩いていたのが現象風景。それは薄ぼんやりとしており、明確に記憶と呼べる瞬間は、その風景の次に来た。


 体を跳ね飛ばされるような衝撃だった。転がるようにして冷たい裏路地をのたうち回り、振り返れば大きな人影があった。薄汚れた男だ。虱だらけの頭髪に、手には飲みかけの酒瓶。埃と垢にまみれた顔を赤に染めて、ふらつきながらもこちらをニヤニヤと眺めている。


 理解が及ばなかった。その男が何を目的に当時少年―――いや、幼児だった彼にちょっかいを掛けたのか。

 だが本能的にそれが危険なのだと察することは出来た。逃げ出そうとし、しかし酔っぱらいとは言え大人から逃げ切ることは難しかった。押し寄せる暴力と痛み。組み敷かれて逃げ出すことも出来ず、嵐が過ぎるまでじっとしていることしか出来なかった。


 朝日が傷口にも染みるものなのだ、と知ることが出来たのを幸か不幸か―――その答えを未だに出すことを出来ずにいる。


 だから朝を嫌った。夜に潜み、残飯を漁り、ゴミを拾い幼児は少年になっていく。日々を生きる中で、少年は本という存在を知った。最初は読めなかったそれも、街には文字が溢れている。人々が口にする言葉と、その文字を組み合わせる暇つぶしをしていると、自然と読めるようになった。そうなると道端のゴミだと思っていた新聞や捨てられた古本も、少年にとっての玩具となる。最高の暇つぶしの過程で、幾つもの理論や論文を組み合わせて一つの理に気づく。




 世の中は暴力で満ちている、と。




 他者を暴力で従え、その従えた者もまた別の力に従っている。自由気ままに振る舞っているように見えても、金の力や権力などに縛られている。それを良くないと騒ぐ人間もいた。だが、その人間もまた別の力に守られているから騒ぐことが出来るだけで、そこからそっぽを向かれると無力だし、そもそも闇から闇へ葬るような暗殺などにはどんな人間も無力だった。


 物理的な暴力を振るわなくとも、精神的、経済的な暴力を振るう。血を見ることはなくとも、血をは流すことはある。


 法律などが最たる例だった。


 アレをしては駄目。コレをしては駄目。言うだけならば簡単だ。だが、それを掲げただけでは誰も従わないだろう。それに従わないから罰というものがあり、罰を執行するための力がいる。執行を拒否する者もいる。それを押さえつけるのもまた力。


 街をふらついていると時々、暴力はいけない、と喧嘩をしていた子供達に言い聞かせる大人を見た。では、その大人は力を振るったことはないのだろうか、と少年は考えて暇つぶしがてらその大人を観察してみた。


 すぐに飽きた。


 家庭では柔らかな男だったが、仕事場では部下を顎で使うし、家庭を持っているはずなのに立場を利用して女性従業員と無理矢理関係を持っていた。その癖組織の上役には媚びへつらっているし、駐車違反で大人しく切符を切られて後で不貞腐れていた。直接的な暴力を振るわないだけで、権力という暴力を振るっていたし、同時に振るわれていた。直接傷ついたりせず血を流さないからまだマシ、と世間は判じているだけで、結局暴力に対して無力だった。


 誰も彼もが力を振るうし、振るわれている。


 誰も彼もが血を見たくないという一心で、そんな欺瞞から目を背けていた。


 ならば血を流さないのがそんなに良いことなのだろうか、と少年はこの頃から考えるようになっていった。確かに血を流すというのは痛みを伴う。だが、精神的な苦痛が物理的な痛みよりも良い、と言うのはおかしいと思ったのだ。何しろ、言葉だけでも追い詰められて死ぬ人間もいる。


 拾った新聞には、毎日殺人や自殺のニュースが踊っている。全部が全部ではないが、何割かは精神的な苦痛から来るものだった。借金を苦に、職場のパワハラに耐えかねて、学校のイジメに耐えかねてなどと悩み、苦しみ、怨恨―――衝動的ではあるし短絡的ではあるが、一線を越えるに値すると本人は考えたのだろう。


 反撃に遭い、物理的な痛みを、血を流すかもしれないし、ともすれば死刑という最大級の物理的苦痛あるかもしれないが、それよりもこの精神的な苦痛のほうが嫌だと判断した。自殺に至ってはこんな生活環境よりも死んだほうがマシ、と判断したのだろう。


 与えられた暴力を暴力で応答しただけなのに、何故か後出しした方が責められる。


 そもそも、歴史を振り返れば国であれ個人であれ、人類が血を流さなかった時代などありはしない。先人が血を流して作り上げた現代で、血を流すことを否定するのは自分のルーツを否定することではないか。


 ふとそんな事を、ホームレスの年寄に話した。仲が良かったわけではない。あっちはあっちで食っていくのに精一杯だし、同じく日陰者同士、温い友誼を結んでいても裏切られるだけだ。それでも、年寄の知識というのは馬鹿にできないものであるのは本による知識で知っていたし、どんな本にも書いていないこの世の中の本質から皆が目を背ける理由を知っているかもしれないと思ったのだ。


『私達は、人は、倫理観や理性を持たぬ獣や虫ではないのだから』


 困ったような表情で返ってきた言葉を、一瞬理解が出来なかった。人には理性がある、としたり顔で言った年寄を何か異質なものに感じた。


 年寄りが言うには、『暴力と力は違うもの』、『正義なき力は暴力で、人間には理性があり正しき方向に力を使うことが出来る』等など、不可解な教えを説いた。


 おかしな話だ、と少年は思った。


 人に理性があり、倫理観とやらがあって正しき方向に力を使えているなら何故自分は幼い頃に見も知らぬ男にレイプされたのか。かつては社長であったアンタが関係のない政争に巻き込まれた挙げ句、見知らぬ親族に会社を乗っ取られ、ホームレスなどに身をやつしているのか。


 問い質してみれば言葉を窮すのみだった。


 そもそも、だ。


 この老人は獣や虫を下に見ているが、獣は本能に従って生きている。余計な修飾や虚飾はそこになく、ただ自分が生き抜くため、次代に種を残すために言い訳などせずに精一杯生きている。虫は己の社会システムを保持するために個を犠牲にすることすら厭っていない。そんな感情を差し込む余地がない。生き物としてその摂理に従っている。それこそが自然であり、無理のない生き方だからだ。一種の完全性とも言える。


 理性や倫理観などによって下手な欺瞞などせず、ありのままに身に宿った性能を使い切っているだけ、余程生物として上等なのではないだろうか。


 翻って人はどうだ。


 それらと人は違うと否定するが、人も獣も虫も同じ世界に生きている。何なら獣や虫の生活行動の恩恵を受けている。


 種の保存という観点では適者生存こそが最上ではあるが、個の保存という観点では弱肉強食という摂理こそが物を言うこの世界で、人間という生き物の自由を封じ、枷を掛ける理性や倫理観という概念がそんなに高尚なのだろうか。


 そも、人類に最も近いとされるヒト亜科が生まれて600万年と言われている。そこから猿人、原人、旧人類、新人類と続く長い歴史の中で、理性や倫理観が生まれたのは極々最近の話だ。人に限らず生き物の進化はこうした長い世代交代を掛けて行われるにも関わらず、僅か数千年前に生まれた理性や倫理観で長い時を紡いだ人類の本能を押さえつけようとする方が不自然極まりない。


 いずれ人類が更に成熟して理性や倫理観が人間を形成する機能の一部になることもあるだろうが、それはもっともっと先の話だ。ともすれば、新たな人類が誕生しなければ備わることはないかもしれない。少なくとも、現状の人類はその能力や本質から目を背け、生物としては獣や虫にすら劣る。


 そう問うてみても、老人は悲しそうな視線をこちらに向けるだけで答えることはなかった。答えることが出来なかったのか、言葉が見つからなかったのか、あるいは小賢しい少年に呆れて物が言えなかったのか。いずれにせよ、少年は二度と老人に会うことはなかった。数日後、この年寄は街の不良共のホームレス狩りと称した遊びの標的になって川に浮かんだからだ。


 暴力を否定して理性に酔った人間は、やはり暴力に因って命を落とした。弱肉強食の摂理は、形を変えているかもしれないが人間社会にも確実に根付いていて、何人の前にも容赦なく不意に現れる。


 環境に適さなければ子孫を残せないが、その前に個として強くなければその日を生きれない。


 ここに至って、少年は結論した。いや、最初から結論はあったのだ。




 世の中は、暴力で満ちている。




 極論であり、単純であり、だからこそ真理に最も近い。


 力を持たぬ者は力を持つ者に征服されるし、力持つ者はより強い力を持つ者に降る。そこから先は無限ループではあるが、だから何だ、と少年は思う。頂点に至った者が衰え追い落とされるのもまた事実。単なる世代交代に過ぎない。人類に限らず生き物はそれを連綿と続けてきているし、これからもそうなのだろう。そこから目を背けてはならないし、また逆らってもならない。自然が持つ弱肉強食と言う本質は何億何十億年と続けてきた重みがある。その重みを、ルールを、発生してたかだが数千年程度の理性や倫理観で押さえつければ何処かに無理が生じるに決まっている。それが性格か社会的な立場か、あるいは人生かは分からないが―――無理を押して自分を殺すぐらいならば、周りを殺したほうが生き物として上等だ。


 手段こそ様々だが、生き物は生きているだけで他者を殺している。自分の都合を押し付けている。物理的な生死に直結しなくとも、理性や倫理観と言う武器を手に他者の心と行動を封殺しているのならば、それは殺人と言っても良いのではないだろうか。


 ならば、だ。


 暴力を標榜し、思うがままに暴力を振るい、それを拒否する者に降されるのもまた一興。




 嵐を前にじっと耐える者ではなく、嵐を巻き起こす者になる。




 そうした心持ちの変化が彼に変革を齎したのだろうか。何でも無いある日、起きてみると自分の体調に変化があった。この感覚を言語化するのは難しい。語彙力は読書という趣味のお陰で増えたは増えたが、それはあくまで知識だ。知識を正しく使うには知恵が必要だ。そして知恵というのは経験に裏打ちされた反証能力が必要だ。故にこそ未だ幼い少年には、それを表す正しき表現が思いつかなかった。


 ただ、拙い表現をするならば、ある日突然手足が一本増えた、あるいは五感が一つ増えたと言うのが適切か。昨日まで当たり前だったものに、新しい当たり前が出来た。


 言葉が力を持った。


 比喩でも揶揄でもなく、文字通り言葉通りの現象が起こった。現象を願いながら言葉を口にすると、それに沿って事象が目の前に現れる。


 火を起こし、水を作り、風を巻き上げ、土に穴を掘った。


 何かしらの超常の力を身に着けたのは理解できた。だからそれが何なのか調べることにした。答えはすぐに行き着く。


 ―――異能。


 1999年の『消却事変』以降に出現した適合者が振るう、超常現象。細かい理論はさておいて、それが自分に発現したのだと知った。


 まるで物語の魔法のようだった。特に力ある言葉など、まさにそれだ。


 新しい武器を手に入れたことは喜ばしいが、少年はそれだけで浮足立つほど世の中に期待していなかった。肉食獣は鋭い牙や爪を持つ。大抵の動物にはそれで対抗できるし、だからこそ捕食者足り得るが―――武器を持った人間には勝てない。


 力を持ったのが自分だけではないのだ。少なくともこれを『異能』と定義することが出来るだけのサンプルがあるということ。だとすればまず自分がすべきことは、これで何が出来るか、そして同じ力を持つ者にどれだけ対抗できるかだ。


 そこから少年は『言霊』と名付けたその不可思議な力を試すことにした。その試しの中で、少年に降る者もいた。それらは数を増やし、少年が異能を理解し十全に振るえるようになる頃には、街で誰もが知っている一大勢力にまで拡大していた。


 群れの長、と言う立場は悪いものではない。それそのものの力には興味なかったが、持たぬ者であった少年が自らの力だけで手に入れた、言わばトロフィーのようなものだったからだ。


 思うがままに力を振う。暴力で他者を従える。気に入らないのであれば暴力持って叩き潰して封殺する。そうして出来たものを振り返ってみれば、やはり社会というのはこれを拡大したものだと―――自分が正しかったのだと満足できたからだ。


 実際、そろそろ青年と呼べる彼が築き上げた勢力は社会の縮図そのものであった。マフィアと呼ばれる連中との戦いは国と国の戦争と言えるし、政府との戦いはテロ戦争ともゲリラ戦争とも言えた。そしてそのいずれも暴力で降った。


 だからこそ、その結末もやはり暴力に因るものだった。


 ある日、一人の男がふらりと現れた。


 白い男だ。服装と言わず、肌と言わず、髪まで真っ白なその男。まるで白紙のノートに線画でも書いたかのような白い男の瞳は、虹色の瞳をしていた。その男を見た瞬間、本能的に彼は悟った。




 ―――世代交代の時だ、と。




 力によって奪い、他者を降して従えてきた以上、それはいつか必ず訪れると理解はしていた。自分もいずれ、誰かに暴力で奪われるだろうと。それが生物の有り様であり、正しき生命の在り方だ。尤も、それがこれほど早いとは予想していなかったが。


 とは言え、ただ膝を屈するのは趣味ではない。


 殺伐とした日々の中で、青年は自分の流儀を持つようになっていた。


 強者は弱者を蹂躙する権利があるように、弱者もまた強者に抗う権利がある。だからこそ弱者の抵抗を青年は認めるし、その最期を覚えておくことにした。例えそれが死を齎すものだとしても、奪われるならば奪う者に覚えておいて欲しいと青年は思うようになったからだ。


 自分はただ食われる者では無く、お前に抗い、降された上で血肉になるのだと。だから青年は凄絶な笑みさえ浮かべて、白い男を殺しにかかった。


 ―――そこから先は、覚えていない。


 気づいたら自分は病室のような場所で天井を見上げていた。負けたはずなのに、生かされたのだと悟った。屈辱とは思わなかった。暴力を標榜しているのだ。更なる暴力に降され、そして降した相手がどうしようとそれは相手の勝手だ。敗者がどうこう言える権利はない。文句があるなら勝てば良かったのだから。


 傷を癒やすこと数日。また白い男が現れた。今度は何人かの手下を従えて、だ。


 教皇、と呼ばれたその男は青年を見て苦笑した。手加減はしたけど生きているとは思わなかった、と。どうやら自分が生き残ったのは運が良かったのだと青年は悟った。


 その上で教皇はこう尋ねた。自分に勝てると思ったのか、と。


 嘲りではない。単純な疑問だったようだ。彼我の戦力差を理解できないほど弱くはないだろう、と不思議そうな顔をして尋ねられれば悪い気もしない。だから青年は答えた。


 世の中は暴力で満ちている、と。


 だからこそ、暴力を標榜し、それを振るう自分も他者も認めているのだと。ただ単に、相手の方が上でそれに屈しただけ。とても自然なことで怒るような事でも不貞腐れるようなことでもない、と。




 ―――何故か爆笑された。




 流石に気を悪くした青年だったが、教皇はすまんすまんと軽く謝罪をする。涙目になりながら謝られても謝られている気がしない。


 やがて落ち着いたのか、教皇は青年にこう言った。


「暴力を標榜するなら、もっと大きな力がいるだろう。かと言ってお前は力を与えられるのはお気に召さんようだからな。ならば共に来い。―――力の使い方を教え導いてやろう」


 こうして、青年は白い男の手を取った。


 やがて白い男が率いるJUDASと言う教団の中で青年は頭角を現す。その荒々しい暴風のような振る舞いから、教皇である白い男からこう評される。




 嵐を前にじっと耐える者ではなく、嵐を起こす者でもなく、嵐の中心にある者。




 嵐の神を戴き、そうならんがために彼はシュガールを名乗った。

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