19
もはや全滅は免れない。それでも名誉ある戦死を遂げることができれば、精霊たちによってヴァルハラに召される――だから最後まで戦おうと、反政府軍の兵たちは死に物狂いで矢を放ち続けた。
『番犬』の勢いは収まる気配がなく、むしろますます苛烈になっていった。
こんなことなら初めから戦争などせずに『番犬』一人で反政府軍を打ち滅ぼせばよかったのだ。そうすれば中央政府側はたった一人の犠牲者も出さずに反乱分子を駆除できたであろうに。
『番犬』が短く吠え、
そうなるともうだめだ。人の形を保って死ぬことすら叶わない。
ならば、いっそ。
いつしか射手たちは、そこにいる仲間ごと矢で射るようになった。
しかし『番犬』はまったく顧みることなく、兵たちをグズグズの肉塊に変え続けた。
その時、双方にとって予想すらしなかったことが起きた。
『番犬』が確かに一瞬、ビクリと振るう剣を止めたのだ。
『番犬』の目の前には、狂騒状態でガタガタと震える少年兵が一人――この世界では珍しい黒髪の少年だった。
ド、と『番犬』の背に矢が突き立った。
「や、やった!」
「当たった!」
九死に一生を得た黒髪の少年は、思わずその
『番犬』は背に突き立った矢に手を伸ばし引き抜こうとする。その瞬間第二射が襲う。その背に二本の矢が追加された。しかし伸ばされた手はそのまま纏めて矢を掴み、無造作に抜き取る。通常なら間違いなく致命傷だ。だが『番犬』はその名にふさわしく遠吠えすると、些かもその速度を落とすことなく次の敵に向かって躍り上がった。
――不死身の魔物。
――魔物の森のハイジ。
誰からともなくそんな呟きが漏れた。
* * *
夜が明けようとしている。
血で真っ黒に染められた戦場が少しずつ青白く塗り替えられていく。
薄明かりが支配し始めると、そこがどれほど過酷な戦場だったかが浮き彫りになった。
そこら中が戦死者だらけで元の形を保つ者がいない中、たった一人、ざんばらな黒髪の少女だけが人の形を保ったまま倒れている。
そこら中が傷だらけで、薬草の薄汚い濃緑が塗りたくられている。
息は浅い。
どうやら力尽きたようで、あまり嬉しくない環境で気絶するように眠ってる。
いつも起きる時間になると、少女は横たわったままゆっくり目を開け、じわじわと少しずつ体を起こした。
あたりには生物が一つもいない。
少女はもう一度目を閉じて、人の気配を探った。
(――いた)
見渡す限りの死者の絨毯のずっと向こうに、よく知る気配を見つけた。
少女は酷い痛みをまるっと無視して無理やり立ち上がった。
左手は完全に動かないが、歩くのに不都合はない。
戦争は終わった。
森へ帰ろう。
少女の体力はとっくに限界を超えていた。
精神力も擦り切れ、魔力だって枯渇して、最後は傷に塗った薬草の軟膏を舐めて魔力を補充するほどにまで消耗していた。
たった一時間ほどの睡眠ではまったく意味がなかった。
しかし、
残るのは気力だけだ。
だけどそれだけあれば十分とばかりに少女は足を前に運ぶ。
白々と朝が忍び寄ってくる。
そう言えば顔も傷だらけだ。ヴィヒタを使えば治るかな……などとどうでも良いことを思いながら、少女は真っ直ぐと歩く。
男に近づくにつれ、明らかに異常な死体が目につき始める。
斬られているというよりは叩き潰されている――巨大な鉄の塊で力任せにぶん殴られたような異常な死体。
まるで何かの事故に巻き込まれたかのようだった。
(……ハイジか)
そう言えば、ハイジは司令部に居なかった。
この戦争の間一度も戦場に出なかったのに――たった一度の戦闘でこれだ。
戦えば勝てるなどと思っていたが、とんでもない。あの男の本気は、もはや人間では止められないだろう。
気配を探りながら、少女は歩く。
特別強く輝くその気配は、一歩も動くことなくじっとしている。
疲れて寝ているのだろうか。
そう言えばハイジはいつも決まった時間に寝ていたな――などと思いながら目を凝らす。
しばらく行くと、一際巨大な男が倒された馬車を背に座っているのが見えた。
近づくと待っていたように顔を上げる――どうやら男の方でも少女の気配を追っていたようだ。
ぐったりと足を投げ出し、傍らには剣が突き立っている。
エイヒムの武器屋で新調した剣ではなく、愛用の
やはりあんな細い剣では物足りなかったとみえる。
男の前に少女が立つ。
一瞬少女の目が見開かれる。
男のシルエットがおかしかったからだ。
一体何本の矢が刺さっているのか。
これではまるでヤマアラシではないか。
「何やってんのよ、ハイジ」
「……下手を打った」
お互いいつもと変わらない口調だった。
少女はうぐ、と喉を鳴らすと、子供を相手にするように言った。
「だから言ったでしょ、戦闘はあたしに任せて森に引っ込んでなさいって」
「フッ……」
その様子に男は思わず笑みを浮かべる。
相変わらず生意気な女だ。
だが、そこがいい。
「ぬかせ。ロートルだろうが、まだ衰えてはいない」
「矢なんかにやられちゃってる癖に」
「……油断したんだ」
「そういうところが、衰えたって言ってんのよ」
違う。こんな話をしたいんじゃない。
「お前こそ、その肩は大丈夫なのか?」
「貫通してるから大丈夫。左手は動かないけどね」
伸長中に射たれた矢だったが、至近距離からの攻撃で助かった。
矢尻が体に残ると厄介なのだ。
「お互い酷い有様ね」
「全くだ」
「……帰れそう?」
「いや、無理だな」
そう言って男は立ちあがろうとして、しかしそれは叶わなかった。
「肩、貸そうか?」
「いらん。お前の肩じゃ頼りない」
「そう」
答えながら、少女は男の前に崩れ落ちるように腰を下ろした。
そろそろ立っているのも限界だったのだ。
この肩ではもう戦士として役に立たないだろうし、第一血を失いすぎた。
体力も精神力も魔力もすっからかんだ。
ここに来るまでに気力だって使い果たした――どう考えても助からないだろう。
「はぁ……」
これで終わりか。
思ったよりも早かったような気もするし、逆に今までよく生きてこられたなという気もする。
少女は脱力する男にゆっくりと忍び寄り、ゆっくりと顔を近づける。
男は僅かに逡巡したが、素直に少女の唇を受け入れた。
一瞬触れるだけの口づけ。
しかし男は少女の頭に手を回すとぐっと引き寄せ、今度は強引に唇を合わせた。
歯と歯がぶつかるような乱暴な口づけだった。
血の味がした。
たっぷりと時間をかけて味わい、どちらからともなくゆっくりと離れた。
動かなくなった左手と傷だらけの右手では体を支えられず、少女は男の胸に倒れこんだ。矢傷だらけの男にもたれかかるのは負担になると考えた少女は、どうにか体を起こそうとして――今更だと思い直し、素直に男の胸に顔を埋めた。
ああ、ようやく目的を果たせた。
これ以上の最期があるだろうか。
あたしはずっと、ずっとこの瞬間のためだけに生きてきたのだ。
あとは二人に死が訪れるまで、短い時をゆっくりと味わうだけだ。
「ハイジ、愛してる」
「ああ。俺もだ。愛してる、リン」
少女は花のように微笑んだ。
男も微笑んだ。
不器用な微笑みだった。
おれはもうずっと長い間、この少女に心を奪われていたのだ。
どうしようもなく少女のことが愛しく、初めての恋に戸惑い続けた。
だが、もはや戸惑う必要はなく、心を偽る必要もない。
人が、人を愛せることの、なんと幸せなことか。
死の帳が降りようとしている。
男は最期の願いを口にした。
「敵を数人逃した。経験値を奪われるのは惜しい。お前が持っていけ」
色気のない言葉を聞き、少女はムッと不機嫌になった。
折角の幸せな気分に水を差されたせいで思わず眉間に皺を寄せたが、すぐに自分が好きになったのはそういう男だったと思い直す。
「今、この瞬間を味わってるんだから邪魔しないで」
「どうせ大して時間はないぞ?」
「だからこそよ。どれだけ苦労してここまでたどり着いたと思ってるの?」
いつものような軽口。
だが、甘いだけの言葉はもう十分だ。
欲しいのはハーブティのように甘くて苦い、ハイジらしい言葉だけ。
「お前に殺されたいと思うのは、ダメなことか?」
「当たり前でしょ。そんなことをしたら
あたしがそれを喜ぶとでも思ってるの? と少女は男を非難する。
男は「いや、」とそれを否定した。
「お前のためじゃない。俺の願いだ」
「ハイジの頼みといえど、それだけは聞けないわね」
「だが、おれは生きているお前が好きなんだ」
男は少女をまだ動く左手で力強く抱きしめる。
少女もまた、まだ動く右手で縋り付いた。
「生きてくれ、リン」
「やだ、一緒に連れて行ってよ」
「だめだ。いつものように
男はさらに少女を強く引き寄せ、髪に顔を埋めると深呼吸するように息を大きく吸い込んだ。
少女に頬擦りする。
無精髭が痛いだろうか? だが男はわがままに少女の頬の感触を味わう。
もう時間は残されていない。
「おれのリン」
耳元で囁いた。
「ヴァルハラで、お前を待っている」
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