22
(無理だ――)
(――避けられない)
青年は落ち着いた様子で剣を振り下ろす。あたしの肩から首にかけて袈裟に斬るつもりらしい。
諦めるわけにはいかない。思考を加速する。体は動かない。ここままでは間違いなく死ぬ。
あたしも多くの敵を殺してきた。
強敵と言えるような敵は存在しなかったし、ハイジやエイヒムの英雄たちのような化け物が現れない限り、自分がやられることなどない。
そう確信していたのに。
思考加速はハイジにも詳しいことを話していないあたしの虎の子だが、体が動かない以上いくら考えても無駄なことだ。
剣はとうとうあたしの首元に届き――――。
* * *
ゴフ、と目の前の青年の口から血が溢れた。
剣を握ったままの青年の手が宙を舞っている。
思考が加速されたスローモーションの中、一人の『はぐれ』の命が刈り取られようとしている。
伸長された時間の中、必死になって眼球を動かすと、ハイジが剣を振り抜いていた。
殺すとなると容赦はない――たとえ『はぐれ』を殺すことが彼にとっての究極の
あたしを殺すはずだった腕は真っ先に叩き切られ、そのままの軌跡で腹を突かれたらしい。その上ハイジの体重の乗った蹴りが入る。スローモーションの中、ドスンと重たい音と一緒に骨の折れる音が響き、内臓を破壊したのであろう泥水を踏んだような音が耳に届く。
そして伸長が終わる。
思考加速が解かれる。
時間が動き出す。
へたり込むあたし前には、腕を失って今まさに命が消えそうな『はぐれ』と、『はぐれ』を殺した『はぐれ』の守護者、ハイジが立っていた。
「……ハイジ」
震える声でどうにか話しかけたが、ハイジはそれに構うことなく剣を振るい、矢を叩き落とした。この後に及んで矢を射る敵がいるようだ。へたり込んだまま動けずにいるあたしを狙うすべての矢を叩き落とすと、ハイジは獣のような速度で弓兵たちに迫り、暴風雨のように蹂躙して回った。
あたしは無理やり意識を立て直し、倒れる『はぐれ』の青年に近寄る。
すでに死んでいる?
口元に耳を近づける。
いや、まだ息がある。
(ハイジに『はぐれ』を殺させちゃダメだ)
(まだ息があるなら、せめてとどめはあたしが……!)
青年は相変わらず死んだような目で虚空を睨んでいる。
「……、…………」
青年が何事かをつぶやく。
どうでもいい。
あたしにとっては『はぐれ』だろうがなんだろうがただの敵だ。
(ハイジに『はぐれ』を殺させてはダメだ)
なぜかそう強く感じた。
青年の傷は深い。血を失いすぎている。このまま放っておいてもすぐに死ぬだろう。ならば、せめて苦しみを長引かせるようなことはすまい。
ハイジに拷問されていたピエタリのことを思い出す。
死が確定しているのなら、一秒でも早く殺してやるのは慈悲だ。
どこか言い訳がましくそんなことを思い、あたしは
『……自由に……』
ピタリと思わず件を止める。
硬直した。
ゴホ、と咳き込む青年の口からゴブリと血が溢れる。
どれほどの執念なのか、すでに失われた腕を必死に動かしながら、青年はそれを口にした。
『……殺せば、自由、に……』
見れば、青年の虚な目からとめどない涙が溢れている。
『……帰りたい……』
「……ッツ」
ゾワ、と悪寒のようなものが背筋を駆け巡った。
そうだ、この青年は『はぐれ』だ。
おそらくハーゲンベックから、あたしたちを殺す報酬として自由の立場を約束されたか何かだろう。
そして、あたしたちの目の前に現れた。
つまりは――敵だ。
断じて同情などではない。
ただ、その瞬間あたしは『
途端、ほんの一瞬ではあるが、感覚が、心の構造が、故郷にいた頃の自分――鈴森凛に戻ってしまった。
何の罪の意識もなく人を殺している自分に、驚くほど強い嫌悪感が湧き上がった。
たとえそれが必要なことだったとしても。
あたしは目を強く瞑り、首を左右に振り、心の中にいる過去の自分を振り払う。
そうだ。
忘れるな。
あたしは黒山羊――ハイジの相棒だ。
(……ごめんね)
手を止めていたのはほんの一瞬のことだった。
早くしなければこの青年の命は失われ、ハイジが『はぐれ』を殺したことが確定してしまう。
あたしが止めを指すことにどれほどの意味があるかはわからないが、ハイジはあたしのために『はぐれ』に手を上げたのだ。
そう思い、目を瞑ったまま一思いに心臓に
「よせ、リン」
「……ハイジ」
閉じた目をゆっくりと開くと、青年の胸に先ほどまではなかったはずの大きな剣傷があった。
(死んでる……?)
(なぜ)
もちろん、ハイジしかいない。
あたしの一瞬の躊躇を見て取ったハイジは、あたしの手を汚させるまいとして、『はぐれ』の青年を殺したのだ。
「……どうして?」
「同郷なのだろう? お前が殺すべきじゃない」
「だ、だって、そんな、ハイジだって……」
あたしは震える声でハイジを問い詰める。
「だってハイジ、『はぐれ』を守るために戦ってきたんでしょう?」
「そうだ」
「じゃあ!」
「いいんだ」
「いいわけないでしょう?!」
「いい」
なぜかハイジは妙に優しい声でそう言って、あたしの頭に手をポンと置いた。
(?!)
こんなことはこれまでに一度もなかった。
あたしがスキンシップを図ろうとすると引き剥がすのが常だったハイジが、静かな表情であたしの頭に触れている。
あたしは悲しくなって目を閉じる。
目の前に転がるあたしと同じ色の髪と瞳を持つ、名も知らぬ骸の存在――その存在がどれほどハイジを傷つけたのか。
気休めだってよかった。
ハイジを助けたかったのに、でももうそれは永遠に叶わない。
(あたしが――)
あたしがあそこで躊躇しなければ。
ハイジが『はぐれ』を殺すことにはならなかったのに。
目を開けて見上げれば、ハイジはどこか晴れやかな、いつもの険しい表情が嘘のような優しい表情であたしを見ていた。
「……ごめん、約束したのに」
「いいんだ。お前が死ぬよりは、ずっと」
ハイジは一度だけそっとあたしの頭を撫でると、手を引っ込めた。
怪訝に感じてつい顔を見てしまった。
そんなあたしを見て、ハイジはフッと緩く笑って見せた。
「……らしくないわ」
ハイジにこんな表情は似合わないと思った。
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