その名前

「高砂、って父の苗字なの」乾いた洗濯物を畳みながら、世間話のついでみたいに守屋さんは話し出した。

「ああ……だろうな」テンちゃんも私も頷く。島に『高砂』なんて苗字はひとりもいない。

「でも変更手続きってちょっと面倒だし。二十年弱使ってきた苗字でもうわたしの一部だし。母の旧姓には、きっとしないと思う」

「ああ」テンちゃんは聞いているのかいないのか曖昧な返事で窓の向こうへ目を遣った。

 外は今日も雨。ざあざあ強い風とともに窓ガラスを叩く。まるで梅雨に逆戻りしたような空気だった。

「祖母は生まれも育ちもここだから、『守屋のおばあちゃん』って呼ばれるじゃない? でもわたしは、よそ者だから、『守屋のおばあちゃんの孫』なのよね」

「そんなんガキのうちは皆そうだよ」

「天司君はちゃんとその名前で呼んでくれる人もいるでしょう? でもわたしは、仮にこの島で、誰かと結婚したとしても」

 ぱちっ。と、私の目の前で、視線がぶつかる音がした。先に逸らしたのはテンちゃんのほうだ。

「きっと、『どこどこの奥さん』になるだけなのよ」

「……?」よく理解してなさそうなテンちゃんに守屋さんはもう一度言う。

「一生、誰かの何々って呼ばれるんだ、って思ったら憂鬱になっちゃって。でもそんなとき、天司君が呼んでくれたでしょ。わたしの苗字」

 花が咲いた。そんなふうに感じるほど、魅力的な笑顔だった。

「自分でも驚くくらい嬉しかったの」

 ありがとう、と守屋さんに言われて、テンちゃんは別に、とかたいしたことじゃない、とかぼそぼそ答えながら耳の後ろを掻いた。テンちゃん、その癖、知ってるよ。私、知っている。

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