温泉街の耳かき


その店も入ったのは全くの偶然だ。

まだ景気が良かったバブルの時代、最初で最後となった入社した年の社員旅行でのことだった。

湯煙に包まれた温泉街。

歩いているのは土産物屋が並んだ通り。

昨日飲んだアルコールが残って少し気分が悪かったのだが、水をがぶ飲みしてひと汗流したおかげで毒気が抜けたのだろう。

朝風呂を浴びて風に当たりたくなった俺はふらりと歩く。

有名な温泉街なせいか朝の時間帯だというのにもう土産物屋が開いている。

とくに買うつもりなどなかったのだが、一軒、また一軒と眺めているうちに何か買おうかという気が生まれ始めていた。

これまで名前は知っていたが、来たのは初めてという温泉地。

昨日から思っていたのだが竹細工の工芸品が随分と多い。

どうにもこの地域の特産品らしい。

そんなことを考えながら裏通りにぶらりと入る。

そこで俺は、その店を発見した。

ひと気の少ない裏通りにあるその店の店構えは明らかに表通りにあるものよりも小さい。

当然、置いている商品の数も少なく、本当に竹の工芸品専門店といった雰囲気だ。

土産物と言えば食べ物に代表される消え物が好いと相場が決まっている。

そして一番困るのが現地で作られている民芸品

とりあえず現地の名前が頭についたクッキーか饅頭でも買っておけば嫌がられることはない。

今回は社員旅行ということで職場への土産は必要ない。

自宅の両親の土産物もすでにクッキーをひと箱買っているので、これから買うのは個人的な土産ということになる。

だから気まぐれに竹細工を買ったとしても問題ないだろう。

そう思い、暖簾(のれん)を潜り店内へと進む。


入った店内は外とは一種の別世界だった。

四畳半程度の狭い店内にはそこかしこに竹細工が並んでいる。

ここは空気が違う。

俺はグルリと店内を見渡し、その理由を理解した。

狭い間取りの店内の奥。

そこに大量の青竹が積まれており、その横には削るのか切るのか用途は分からないが複数の工具が置かれていた。

なるほど、つまりここは土産屋であり竹細工の工房ということだ。

俺が店内に入って来た音でも聞こえたのか、工房から現れた男も「いかにも職人」といった雰囲気を醸し出す白髪の親父だった。

その親父を一瞥(いちべつ)し、俺は改めて店内に並んだ竹細工を見る。


「なるほど、色々とあるんだな」


その種類に俺は舌を巻く。

ざる、箸、コースター、といった日用品から、竹を絵画のように編んだ調度品まである。

中には湯豆腐の豆腐を掬うための竹製のフォークなんてピンポイントなものまで置いてある。

とはいえ、あまり興味のないものを買っても仕方がない。

記念にひとつ買っていくならコースターでも買おうかと思い、棚に手を伸ばしたところで、俺はそこに在るそれに目を向けた。

指で摘まむくらいの細い竹の軸、その先が匙(さじ)のように広がっている。


「耳かきか……」


手に取って俺は呟いた。

普段あまり使うことがない、というよりも耳かきなんて普段はしない。

家中探せばどこかにはあるのだろうが、どこにあるのかも分からない。

正直あまり必要なものではないのだが、そのときの俺は何となくその耳かきが気に入ってしまった。


「1200円か……」


耳かきなんて100円ショップでも売っているのだから、値段だけ見ればけっこう高い。

しかし逆にそれが俺の興味を引いた。

そもそも観光地の土産物なんて意味のない無駄なものだ。

本当に必要なものならスーパーなり百貨店なりにでも足を運んで買っている。

温泉街で買った1200円の手作り耳かき。

土産話の値段としてはリーズナブルな価格じゃないか。

俺は口元を緩めると耳かきを手に取り、鞄から財布を取り出した。


そしてその晩、自宅に帰った俺は土産のクッキーを両親に手渡すと早速耳かきを取り出して耳の穴に突っ込んだ。

そして苦笑する。


「何だ、やっぱりこんなものか」


1200円で買った耳かきは何とも使いにくいものだった。

正直、あの工房にいた職人のオーラを放つ親父が手作りで生み出したお高い耳かきなのだから、ボリボリ音を立てながら俺の耳垢を掘り起こしてくれると思ったのだが、正直イマイチだ。

何というか、耳の奥がうまく掻けないのだ。

そうして俺は職人が作った耳かきを机の引き出しの中に投げ入れた。






その日、帰宅した俺は何よりもまずソファの上でゴロリと横になった。

景気が悪くなった途端、会社があっさりと潰れて転職したのだが、営業の仕事というのは思いのほか辛い。

歩く。

とにかくたくさん歩く。

そのせいでもうクタクタだ。

特にここ数日で空気の悪い大通りを行ったり来たりしたせいか鼻がムズムズする。

鼻毛の伸びるスピードが上がっているし、耳毛もきっとガンガン伸びていることだろう。

そんなことを考えると耳もムズムズと痒くなってくる。


「なぁ、母さん」

「何?」

「耳かきって、どこにあったっけ?」

「テレビの下の引き出しにない?」

「…………あっ、あったわ」 

そうしてガリガリと掻きむしるのだが上手くない。

もう少し奥が痒い気がするのだが、痒いところに手が届かないのだ。


「ん……届かないな」


痒いのに掻けない。

そんなもどかしさがよりいっそう耳の痒さを助長する。

掻き方が悪いんだろうか?

普段耳なんてほったらかしだから、どうにも要領をえない

ひょっとしたら耳かき自体が悪いのかもしれない。

そもそも良い耳かきって何だ? って話もあるのだが、とにかく耳は痒いままだ。

そのとき俺はふと何年か前に買った耳かきのことをお乱した。

1000円以上の大枚をはたいて購入した高級耳かきだ。

一度使って机の中にしまいっぱなしになっていたあの耳かき。

あれならばこの痒みも治まるのではないか。

そんなことを考えて俺は自室の机の引き出しを開けた。


「……あった」


見るのは久しぶりだが記憶にたがわず例の耳かきはそこに眠っていた。

念のために先ほどの耳かきも持ってきたのだが、こうしてみると随分と形状が違う。

まず目につくのはフワフワの梵天だ。

温泉街の耳かきには梵天がついていない。

そして先っちょの匙の部分。

テレビの下にあった耳かきは緩やかなカーブなのだが、温泉街の耳かきは曲がりがきつく、急角度になっている。

次に長さ。

温泉街で買った耳かきは明らかに長い。

テレビの下にあった耳かきがボールペンくらいの長さなら、温泉街の耳かきは箸くらいの長さがある。

とはいえ、長くても別に意味はないように思えてしまう。

何しろ耳かきなんて入れてもせいぜい2㎝かそこらしか耳に入れれない。

それ以上を責めれば鼓膜が破れ、カタツムリみたいな形のアレとか、三半規管とかがつぶれて深刻な障害が発生するだろう。

ひょっとしたら死ぬかもしれない。

あの工房の親父は何を考えてこんなに長い耳かきを作ったのだろうか?

明らかに無駄な長さの耳かきを見て、ふと考える。

しかし……


「まぁ、いいか」


親父の頭の中など、どうでもいい。

それよりも耳の中の痒さをどうにかする方が優先だ。

未だ耳の痒みは俺の耳の穴の奥底をグジュグジュとかき回し強烈な違和感を作り出している。

一刻も早くコイツを排除せねば。


「さて、届いてくれよ」


祈るように呟く。

買った当初一度試してイマイチだったのであまり期待せずに使った温泉街の耳かき。

しかしソイツの思いもよらぬ一撃に俺は思わず声をあげた。


「おほっ!」


思わず恥ずかしい声が出た。

そこはまさに俺が掻きたいと思っていたポイントだ。

かつての不甲斐なさが嘘だったかのように今宵の匠の耳かきは俺の掻いて欲しい部分を掻きむしってくれる。

多分窪みか何かになっているのだろう。

先ほどの耳かきでは届かなかった部分からバリバリと音がする。

コイツが俺の耳をウズウズとさせていた元凶だ。

匠の生み出した耳かきの先端はその耳垢の塊に食い込むと力強い音を立てながら心地よい快感とともに白っぽい塊を摘出していく。


「くぉぅ……ぅ」


恐らくそこは今までの三十余年の人生の中で一度も触れたことのなかった場所なのだろう。

痛みにも似た強烈な快感が俺の脳みそをかき混ぜていく。

そこで俺は初めて気がついた。

痒い場所は耳の奥だとばかり思っていたのだが、実際の部分は思ったよりも随分と浅い。

ただ入口部分から急カーブを描いているせいで指でほじろうと思っても届かない部分なのだ。

そうして俺は理解する。

なるほど、この耳かきの匙が急な角度になっていたのはこのためか。

確かに直線的な耳かきの動きではこの部分をクリティカルに掻くことは不可能だろう。

俺の脳裏であのときの親父がニヤリと笑った気がした。


「ぅぅ……ぃぃ」


これまでにない感覚に酩酊感を覚えながら俺は耳かきを摘まんだ指に力を入れて軽く手首を返す。

同時にこれまで以上に大きな音を立て、耳垢の塊がバリバリと打ち砕かれた。

たぶんコイツが痒みの首魁(しゅかい)に間違いない。

会心の手ごたえに俺は頬を緩ませると、耳かきの匙に収まっているであろう耳垢の塊を穴から引き出す。

急いではいけない。

ゆっくりと、零れないように。ズルリズルリと掻きだしていく。

そのときの耳道を這う匙のフィット感がまた良いのだ。

そうして引きずり出した耳垢は爪の先ほどもあるけっこうな大物だった。


「すごいな……」


あまりの威力に小さく呟く。

同時に脳裏で再び竹細工職人の親父がニヤリと笑った。

こうして俺は相棒を手に入れたのだ。







その日、出張から帰った俺は荷物を床に放り出すと、すぐさま身体をソファの上に投げ出した。

ホテルも良いが、やはり生まれ育った我が家が一番だ。

数年前から一人になったため、家の中は散らかりがちだ。

ならば、そこに鞄が加わってさらに散らかったところで誰も困ることはない。

疲れた。

そろそろ中年に差し掛かる身体に3時間の新幹線はつらい。

重たい身体をクッションの上で遊ばせながらリモコンでテレビつける。

映っているのは夜のニュースだ。

そこにいるのは世界一の大国の大統領。

普段から問題発言の多い御仁だが、今度も何かやらかしたらしい。

そんな言ったこともない国の見慣れた大統領の顔を見ながら、俺はふとテレビの音が聞こえにくいことに気がついた。


「そういえば、出張続きで最近していないな」


耳を人差し指でほじれば、指先には白い滓(かす)がついている。

うん、久しぶりにやるか。

月に一度ほどの頻度で行う耳垢取りは俺の密かな楽しみのひとつだ。

月に一度。

これが大切だ。

あまり短い頻度でやってはいけない。

ガッツリと溜めてゴッソリと取る。

そのカタルシスこそが真の快感なのだ。

俺はしばらく使ってやっていなかった相棒を手に取るために机に手を伸ばす。

ところがだ。


「あれ?」


おかしい、相棒が見当たらない。

普段はペン立てに入れている長年の相棒が姿がないのだ。

しばらく放っておいたせいでヘソでも曲げられたのか。

そんな益体もないことを考えたときだった。


「――!!!」


俺は尻の下にある異物感に気がつく。

そして恐る恐る見た尻の下から現れたのは二つに折れて変わり果てた相棒の姿だった。


「はぁぁっ…………!!!」


何ということだ。

こんなことで十年以上付き添った相棒を失ってしまうなんて。

強烈な慚愧の念が俺の胸中を荒れ狂う。

これまで疲れた俺を癒してくれた大切な相棒。

その躯を前に途方に暮れ、その晩俺は喪に服した。



次の日の夕方、俺はドラッグストアにいた。

目的は耳かきだ。

先日長年の相棒を亡くしたばかりではあるのだが、いつまでも落ち込んでいる訳にはいかない。

耳の痒みにそれほど困ってはいないのだが、耳かきをしないというのも収まりが悪い。

こうして新たな相棒を求めて俺は店内を徘徊する。

棚に並んでいるアメニティグッズを眺めていると、その端の方に新たな相棒候補は鎮座していた。

シンプルなスプーンタイプ、最新のコイル式、変わり種ならブラシ式、色々と置いてある。


「うん、とりあえず全部買うか」


全部買った。

そうして持ち帰る。

目の前には三本の耳かきだ。

この中のどれかが俺の新たな相棒になる。


「まずは王道からいくか」


最初に手にとってのはシンプルなスプーンタイプ。

一般的な物なので使いやすくはあったのだが、以前の相棒と比べてやはり匙の部分のカーブが浅い。

俺の耳垢スイートスポットである入口近くの窪みの部分に届かないのだ。


「……駄目だな」


どうにも俺の眼鏡には敵わないようだ。

ため息を吐いて、俺は次の耳かきに手を伸ばす。


コイル式……駄目だ。


ブラシ式……違う。


ワイヤー式……これじゃない。


綿棒……取れるんだけど、そうじゃないんだ。


まいったな。

どれも痒いところに手が届かない。

俺は嘆息して机の上に視線を落とす。

そこには変わり果てた相方の亡骸があった。





その日、俺は湯煙の中を歩いていた。

裏通り。

朧げな記憶だが、こんな道だった気がする。

記憶の底にある角を曲がり、その店は現れた。

当時から古びた印象のあったせいか、かえって変わらぬ雰囲気を醸し出している。

中に並んでいるのは竹製品だ。

親父は……あの時点で高齢だったから、まさかいないだろう。

さぁ、新しい相方よ迎えに来たぞ。

そう決心すると、俺はそのまま暖簾(のれん)をくぐった。


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