第9話

「おはようございます。ずいぶん忙しそうですね」


「ミーア……って、もう朝なのか⁉」


 早起きして身支度を整えたミーアが執務室を訪れると、カーテンを閉め切った部屋で仕事をしていたイーサンがいた。


 降り積もった紙の山に埋もれながら寝ていたらしく、頬にはインクの跡が残っている。


 満足に体を洗っていないのか、頭髪は荒れ放題になっていた。


 イーサンがカーテンを開く。太陽は山脈の頭から少しだけ姿を現していた。


「依頼を渡す話だが、少し待ってもらえないか? あと十数分で終わるから」


「わかりました。下のロビーで待ってますね」


 ミーアは至れり尽くせりの立場なので、必要以上に贅沢をしたくない。


 イーサンが書類と格闘する様子を尻目に執務室を出ると、ロビーへの廊下でエリスとすれ違った。


「おはよう。イーサンから依頼はもらえた?」


「仕事で忙しいらしくて、しばらく待ってくれって言われました。これからしばらくロビーで待っているつもりです」


「女の子を待たせるなんて、イーサンも最低ね」


 厳しい言葉とは裏腹にエリスの表情は明るい。曲がりなりにもイーサンを信頼していることが伝わってきた。


「いってらっしゃい」


「はい」


 ミーアは愛想よく笑みを浮かべてエリスと別れた。


 ロビーに行くと、昨日とは比べ物にならない人で溢れ返っていた。


「すごい……」


 驚きのあまり、ミーアは感嘆の声を上げた。村にあった小さな冒険者ギルドとは比べ物にならない。多種多様な人々が行き交う様子は、見ていて飽きそうにもない。


 呆けて棒立ちになるミーア。誰かが肩に当たった感触で現実に引き戻された。


「すまんな、嬢ちゃん」


「こちらこそ、ぼーっと立ってしまっていました。すみません」


「タイアーはいつもいい加減なんだから……」


 ミーアが顔を上げると、男女二人組のパーティーの姿があった。


 タイアー、と呼ばれた大柄な男は、不機嫌そうに顔をそむける女性に平謝りしている。表情に焦りが浮かんでいないあたり、本気で怒っているとは思っていないようだった。


 彼氏と彼女のようなやり取りに、ちょうど時期であるミーアは羨ましく思う。いつか自分もそんな男性に出会えるのかと考えてしまう。


 ふと、イーサンの顔が浮かんだが、全力で頭を振って妄想をかき消した。


「お二人はお付き合いなさってるんですか?」


 真面目なミーアの表情に、大男は盛大に笑う。


「ただの腐れ縁だよ。お互いにいい相手が見つからないから、渋々一緒に冒険しているだけさ」


「そんなこと言って、いつも私にパーティーを組んでくれって頼み込むのは誰かしら? 今日だって泣きついてきたじゃない」


「メアリー、そこまではしてないだろ」


 メアリー、と呼ばれた女性のからかうような言い方に、今度はタイアーが不機嫌になる。しかし口論に発展しないことが、二人の仲の証明だった。


 羨望と尊敬の眼差しを込めてミーアは二人を見つめる。


 メアリーはその視線に気づくと、ミーアに水を向けた。


「あなたは一人でどうしたの? 魔法使い一人じゃ冒険にも行けないでしょ、誰か連れはいるの?」


「いえ、私一人です。イーサンから依頼をもらうことになってるので、ここで待ってるんです」


「どうしてこの子に手を焼くのか……あいつが何をしたいんだか、ほんとわかんねぇな」


「いい人なのに、忙しくしすぎてるところが多いのが残念よねぇ」


 タイアーとメアリーは顔を見合わせてそう言った。


 どうやらイーサンは女性受けが良い男性ではないらしい。だからどういうつもりだ、とミーアは自分の感想に突っ込みを入れる。


 三人で話し込んでいると、ロビーにイーサンが歩いて来るのが見えた。


 冒険者二人と話すミーアを見て、少し不快そうに唇を歪める。


「おいおい、二人でミーアを口説いてるんじゃないだろうな」


「馬鹿なこと言うなよ。この子を口説いて誘拐したのはお前だろ、イーサン」


「誘拐って言うな! 人聞き悪いだろ」


 くだらない口論をぶつけ合うイーサンとタイアーに、ミーアはメアリーと目を合わせて呆れ笑いを浮かべる。


 このままでは時間の無駄と判断したメアリーは二人の間に割って入り、強引に話を中断した。


「私とタイアーは依頼があるし、イーサンもそこの女の子と用事があるんでしょう?」


「そうだった。ミーア、街の外に行く準備は出来てるな?」


「はい。一通りの準備は終えています」


 イーサンはタイアーの傍から離れると、ミーアの方へと近づく。


「そんな訳だ。じゃあな、タイアーとメアリー」


 ケンカはどこへ行ったのか。イーサンは二人と仲睦まじく手を振って別れた。


 話がひと段落した様子だったので、ミーアは口を開く。


「私たちはどうするんですか?」


「頑張ってもミーアに見合う依頼が見つからなくてな……正直どうするか迷った」


 頭を掻きながら苦し紛れに言った―サンに、ミーアは肩を落とす。


 ミーアでは実力不足だと遠回しに言われてしまい、ちょっと傷つく。しかし正論であるので反論することはできなかった。


「そこで、だ」


 イーサンは中指を立てる。その瞳には名案が思い付いたのか、輝きが宿っていた。


「俺と一緒にアクアパイソン討伐に行ってもらう」


「ええ⁉」


 想像していたより困難な案件だったので、ミーアは思わず声を上げてしまった。


「アクアパイソンって、高度な水魔法を扱う魔物ですよね? それに、かなりの巨体で獰猛な性格だって聞きますよ。私に倒せるんでしょうか?」


「まず無理だな。一撃で楽になれればマシな方だ」


 バッサリと言い切られたミーアは、皮肉めいたイーサンの言葉に眉を顰める。無意識のうちに声が低くなってしまった。


「それなら、どうして私を連れて行くんですか?」


 イーサンは一度目を閉じ、いやらしい笑みをミーアに向ける。そして、


「おとりだ」


 と、悪びれもなく言い放った。




「綺麗な湖ですね……魔物がいるなんて信じられないです」


「初めてここに来た奴はみんなそう言う。だが、アクアパイソンと出会ったらそんなことは言えなくなるからな。覚えとけよ」


 イーサンとミーアは、メルコポートの郊外にある湖に来ていた。


 近くの丘から水面を見渡せば、際限なく綺麗な青が輝いている。若草色の草原と新緑色の森林は、湖の色と見事な調和を成していた。


 心地よいそよ風に吹かれながら、イーサンは乱れた髪を撫で付ける。


「お前にはここから適当な魔法を放ってもらう。一撃だけでいいから出し惜しみをするな」


「その後は?」


「ひたすら走って逃げろ。さもないと食われるぞ」


 冗談を言っているように聞こえないのが気味悪い。ミーアは背筋を何かが伝った気がして、つい体を震わせた。


 イーサンか背中の大剣を抜き取り、眼下に広がる魔獣の巣に視線を向ける。


 不敵な笑みを浮かべて、まるで今からの戦いを楽しみにしているようだった。


 が、なぜか大剣をすぐに仕舞ってしまう。


「せっかくここまで来たんだ。少しぐらい散歩をしても文句は言われないだろう?」


「ええ……」


「ミーアもメルコポートの周辺の地理を勉強した方がいいんだから、丁度いい機会だ」


 正しいようで正しくないイーサンの意見に、ミーアは釈然としない面持ちで天を仰いだ。


 小鳥のさえずりが聞こえ、小川を流れる水の音が渇いた心を潤していく。


 下手な歌を口ずさむイーサンの後ろを、ミーアは頬を膨らませながら歩いていた。


 木々の間から程よい光が差し込んでおり、ミーアが思っていたよりもずいぶん明るい。絡まった木の根が足元に無いのもありがたかった。


「どこに向かってるんですか?」


「風の向くまま、気の向くまま、って感じだな。どこに行きたいとかは決まってない」


「詩的に表現するならクリスさんの方が上ですね」


 ミーアの言葉に、大きなクリスの肩が少し震える。どうやらクリスに負けたと言われるのが不快だったらしい。


 イーサンの思わぬ弱点を発見できて、ミーアはほくそ笑んだ。


 しかし追撃を加えるほどの性格の悪さは持ち合わせていないので、ミーアは黙っておくことにする。


 気持ちよく森の様子を見渡していると、ふと立ち止まったイーサンの背中にぶつかった。


「どうしたんですか?」


「……ああ、ちょっと気になるものがあってな。ほら、あそこ」


「あれは、何かの木の実ですか?」


「そうだ。この辺りだとレグの実って呼ばれてるな」


 ミーアは顔を上げて、木の実、レグの実に目を向ける。


 球体で、日差しを閉じ込めたような鮮やかな黄色をしている。なんだか美味しそうな見た目ではあった。


 イーサンは樹上のレグの実を見つめて、穏やかな表情で目を細める。


「レグの実は、俺の初恋の相手の大好物だったんだ」


 思い出すように、手にした砂をこぼすような声でイーサンは呟いた。


「……そうなんですね」


 ミーアは相槌を打つ。


 静かな空気に水を差したくないので、ミーアはそれ以上何も聞けなかった。


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