第26話 昔話 / 月日は流れ
日本での生活が始まった創は、大量の本が敷き詰められた谷崎の部屋にあるソファで眠っていた。
夢たちが帰国したのは年度始めを少し過ぎた4月半ば。
首都圏の桜は散り始め、葉桜が見え隠れしている。
私立鍵丘学園の大学部に夢は学生として編入した。
経済的な支援は、谷崎と父である準が合同で行うこととなった。
夢が学業へ復帰すると、創は夢の授業が終わるまでの間は、谷崎が保護者として彼を預かることになっている。
日々の習慣である機能の習得と、急激な生活の変化によって創の脳はいつも以上に疲弊を繰り返し、アメリカにいた時以上に睡眠時間が増えた。
誕生してからは、平均して10時間ほどの睡眠をとっていたが、日本に来てからはさらに2時間以上の睡眠を加え、日中の半分はこうして睡眠をとっている。
たまに眠りから覚めては、谷崎が用意してきた本を手にとり、必要であればノートとペンで気になることにメモをとっていた。
非常に限定された空間で創はできることをこなすことにした。
*
創が時折眠っていると、まっさらな空間に再び自らが立っているのだ。
白い空間のなかに現れる彼女は、いつも唐突に創の目の前へ現れていた。
眠る最中、エリシアが創の下へやってきた。
エリシアの姿は、同じ服に同じ顔、同じ背丈――何もかもが変わらなかった。
「ソウ――また会えましたね」
「エリシア――!」
創は限られた空間の中で生活している内容をエリシアに伝え、相談や悩み事を逐次報告していた。
エリシアはその報告を受けるたびに感心し、共感し、まるで姉弟のように親密な状態であった。
因みに谷崎は創の寝顔を見るたびに笑顔で満ち溢れていたという旨の話をしていた。
そんな繰り返しの時間が過ぎてゆく中で、創はエリシアと初めて出会った時の事を振り返っていた。
「どうしてエリシアはあの時、ぼくの前に現れたの?」
「私はソウが暴走することによって、初めて誕生したのです」
全ての始まりは、創の引き起こした作用によるものであった。
「――もしもぼくが暴走しなかったら、ずっと会えなかったんだね」
「その通りです。私は何の意識も持たないソウの細胞として機能していました」
「ということは、エリシアはぼくの一部でもあるのか」
「ええ。あなたが使った力には“クロロ”という名前があります」
唐突な名前に創はためらうことなくエリシアに問いかけた。
「エリシアが名づけたの?」
しかし、返ってきたものは意外な答えでもあった。
「クロロは私のもうひとつの名前なのです。私の名前であるエリシアと、その姉妹関係にある細胞がクロロと呼ばれています。ソウの暴走はもう一つの“私“である”クロロ“の正常な発動でもあったのです」
エリシアは細胞で、家族のように別の細胞との関係があると創へ伝えた。
「ねぇ、エリシア。クロロとは話せないのかな?」
創はエリシアとクロロが同じヒトの姿をしているのかと思い、率直に質問を投げかけた。
「コミュニケーションがとれるのは、どうやら私だけのようです。エリシアは理性に、クロロは純粋な力に特化されて構成されています」
創は残念そうな顔で、少し溜息を吐いた。
秘密だらけの状況を共有できる相手が増えると思っていたからだ。
「そうなんだ……」
願いはかなわなくとも、創はこの力をどうしても使いたかった。
エリシアへひとつの提案を出し、判断を仰ぐことにした。
「あのさっ、ぼくはこのクロロっていう力をもっと上手に使いたいんだ! ぼくの大事な人たちを守れるように、使いこなせるようになりたい!」
創の持つ純粋な想いにエリシアは感化される。
「ソウ……」
一瞬驚いた顔を見せたが、次の瞬間には柔和な笑顔へと変化していた。
「そんなに焦らなくてもいいんですよ? だってあなたはもう十分にコントロールができているはずです」
エリシアは創がまだ知らない身体の状態を説明することとなった。
「えっ、どういうこと?」
エリシアはさらに詳しい説明を付け加える。
「あの暴走はクロロ本来の力を行き渡らせるために、沢山の力とそれによる痛み止めの成分を排出していたのです。今はそれらを出し切って、しっかりとソウの身体に組み込まれているはずです」
聞いたことない言葉が飛ぶ中、自分の中で理解できた言葉をなんとか噛み砕いて納得させた。
「うーん。なんだか難しいことはわからないけど、もうあの時のようにはならないってこと? それならすごいや!」
少し前までの暗い表情が嘘のように晴れ、真っ白な空間を両足で蹴り上げジャンプしていた。
「はい。でも、使うときはちょっとずつクロロを使っていきましょうね」
最後にエリシアが注意事項を伝え再び別れることとなった。
「うん! また何か変わったことがあったら教えるからね!」
去ってゆくエリシアの背中に手を振って見送った。
真っ白だった景色が暗転し、意識の覚醒が始まっていた。
創は布団をかぶり、朝日の差し込む新居の天井を二つの瞳で見つめていた。
隣ではパジャマを着て眠り続けている母親の夢が、掛け布団を遠くに追いやり、豪快に大の字を作っている。
そんな光景を目の当たりにする創は母の寝相の悪さにただ苦笑いするばかりだった。
*
創は少しずつクロロのコントロール可能な範囲を広げていくことにした。
最初は夢が監視する中、体組織の回復も兼ねて薬品の入った浴槽で発動させる。
すると創の髪の毛があの時と同様に長く伸び、緑色の髪が浴槽の液体へ入り込んでいった。
瞳の色に変化はなく、しっかりと自我を保持しながら変化することができた。
その後は浴槽から出た上でクロロを発現し、持続可能時間を夢がデータに取っては更新してゆく日々が続いた。
夢は学業の合間に、創の飲む安定剤の改良を繰り返し、年々錠剤の数が減少していった。
大学院へ入る頃には、創は全くと言っていいほど浴槽の薬品に浸かる必要がなくなり、長かった睡眠時間も人間と同じ時間まで短縮されていった。
身体的な成長も数年で大きく変化し、身長は175センチに到達している。
表情にあどけなさを残しつつも、そこには凛々しさが加わり、瞳は以前より輝きを増していた。
大学院の博士課程が終わった母とともに、現在の家へ引越し、研究室の準備も行った。
そして、夢が鍵丘学園の大学部で教授として勤める一年目には、ある人物が訪れることになった。
研究室のソファで読書をする創の下に、夢と彼女に従事する学生が一緒に入ってきた。
「こんにっちは~!」
「今日から一緒に研究や事務をやってくれるジル・レザックさん。大学1年よ」
「よろしくお願いしま~す!」
「あ、ああ、どうも……」
立ち上がった創はジルという活発な女子学生に対し、どう対処したらいいか困惑していたが、握手をすることによって解決することにした。
既に創の事情は夢が説明しているらしく、自分がバイオロイドという異なった存在にもかかわらず気さくに接してくれる人物だった。
日本国籍を取得しているらしく、現在は家族で日本に移住しているそうだ。
たまたま夢の講義を受けたジルが講義終了後に食事をして意気投合したのが切っ掛けになったという。
最初は彼女の元気さに対して創は控えめに接していた。
しかし、会う回数を重ねるに連れて、ジルはそのことに疑問を感じ、創へアドバイスを送った。
「もっと伝えたいことを言って良いんですよ! 過去に起きてしまったものはしょうがないこと! だからこそ今があるんです!」
創にとって、ジルの発した言葉は、一番求めていた言葉だったのかもしれない。
今まで起きた出来事を心配されまいと、気丈に笑顔を作っていた自分がいた。
この行為は逆に、自然と壁を作ってきたのではないかと気づくことはできていた。
それが明確となったのは、ジルがたった今紡いだ、声の数々。
エリシアには多くの事を話せていたが、母である夢や、関わりの深い谷崎とも、無意識に壁ができてしまっていた。
家族や親しい人物であっても、やはり秘密というものは作られてしまう。
たとえそれが遠慮なく話している自覚があったとしても。
「ジルさん。改めて言うと、俺は人間じゃありません。もしも俺が、ヒトの姿を留められず、怪物になってしまっても、俺を信じくれますか?」
「もちろんじゃないですか! どんな姿になってもあなたはあなた――つまり、創くんです」
エリシアの言葉から創の暴走は二度と考えられないということは理解していた。
それでも、体組織の維持を止め、細胞の活動停止による命の崩壊が早まるという事態がなくなったわけではない。
そうなった時、創に関わった人たちは、離れていってしまうのだろうか。
自分に関わる全ての記憶は、ただの生物のデータとしてのみなのか、という不安がまとわりついていた。
「創くんのバックアップはみんなでやるのです。だから、決して孤独ではありません」
底抜けの前向きさに押し切られ、真剣且つ堅牢な表情が、思い切り和らいでしまった。
「ありがとう――少し、楽になれました」
「もうっ! さっきから堅いですよ! あたしに敬語はいりませんからね! あと、姉弟だと思って、おねーさんと呼んでください!」
「でも、ジルさんは敬語じゃ――」
「あたしはこの方が話しやすいんです。それに、大人たちに囲まれてばかりじゃ、息苦しくなってしまいますよ?」
創が指摘した矛盾点に、いわばゴリ押しで反論するジルに対して、自然と笑みがこぼれてしまった。
「はははっ――わかったよ、姐さん」
「うん! いい笑顔です!」
エリシアと初めて出会った時にも、創は笑顔が大切だと言われていた。
それはどんなに悲しい時でも、それらを吹き飛ばして、笑えるように。
耳の中でかすかに、エリシアの声が聞こえた気がした。
――ソウはずっと笑っていてください。あなたの笑顔が、みんなを助けてくれますよ。
自分自身が落とした影と完全に向き合える日まで、いつかやってくることを信じて、創は笑っていた。
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