第40話

「何度目かわからないですけど、本当に大丈夫なので。あとは自分でやっちゃいますから、もう寝てください。明日も仕事なんですから」

「眠気なんてどっか行ってるから気にするな」

「それは……いえ、そういう話じゃなくてですね。そもそも手当てしてもらう必要がないわけで」

「知ってる。だからってほっとけないだろ」

 彼女に包帯を巻きながら、いつものように答える。

 あまり嬉しくはないが、包帯の巻き方が上達していた。

 傷の深さや多さにも驚かなくなったし、素肌を見て息を呑むなんてことも……いや、完全にないわけじゃないが、そういう感覚も薄れていた。

「頭のほうは……大丈夫か」

「その言い方はどうかと思いますけど、そうですね。血は止まってるので、拭き取れば枕も汚れません。どうせならシャワー、浴びたいところですけど……」

「何度も言わせるな。明日まで我慢しろ」

「……わかってます」

 彼女はまずシャワーを浴びて汚れを落としたがったが、却下した。

 せめて傷口が塞がるまでは控えるべきだと思ったのだ。

「ちょっと沁みるくらい、なんともないのに」

「まだ言うか」

「言ってみただけです」

 なにが面白いのか、彼女は小さく肩を竦めて笑う。

 こっちはさっきからずっと顔が強張っているっていうのに。

 積もりに積もった感情が、表情筋に絡みついている。

「……あの、違ってたらすみません。もしかして、怒ってます?」

 こんな風に、彼女が確認したくなるくらいには、はっきりと。

「別にそんなこと……」

「ありますって。逆にどんな感情だったらそんな顔になるんです?」

 確かに彼女が言う通り、怒っているような顔をしているかもしれない。

 でも、怒っているのかと訊かれると、なにかが違う気がする。

 不機嫌、という要素は間違いなく含まれているだろうけど。

「……俺だって、よくわかってないんだよ」

 彼女に対して俺が怒りを覚える理由は、正直見当たらない。

 用意すると言っていた夕飯を作っていないから?

 さすがにそれはない。

 なら傷の手当てをするのが大変だから?

 それも当然違う。

 彼女は手当てなど不要だとすら言っていて、俺の自己満足でしかないのだから。

 じゃあ、なにが気に入らないのか。

 浮かんでくるのは、数ヶ月前にも味わった自分に対する不甲斐なさ、無力感だ。

 だから結局のところ俺は、自分に対して怒りを覚えているのだろう。

 どこまでも自分勝手な感情で、彼女に余計な気を遣わせている。

「すまん。筋違いってのはわかってるんだけどな」

「そんなこと。あなたのそういうところ、私はいいと思いますから」

「でも迷惑、だろ?」

「迷惑、というか……」

 適切な言葉を探すように、彼女は自分の手のひらを見つめる。

 それから顔を上げ、笑みを浮かべた。

「やっぱりこれは、私の問題ですから」

 だから気にしないでくれるのが一番だと、優しい笑みが物語る。

 もう本当に、何度も言われていることだ。

 正義の味方である彼女の事情に、俺はどうあっても介入できない。

 あまりにも現実離れしすぎていて、正しく認識すらできていないのだから。

「……わかってる……あぁ、わかってるんだけど、な」

 それでもなにか、あるんじゃないかと考えてしまう。

 微かにでも触れられる、奇跡みたいななにかが。

「食事と寝床があるだけで、もう感謝しかないですよ、私としては」

「食事のほとんどはそっちが用意してるけどな」

 布団に関しても、いくらかは彼女が出資しているし。

「まぁ、なかなかわからないかもですね」

「なにがだ?」

「いえ、なんでも」

 よくわからないが、彼女は見えないなにかを噛み締めるように目を閉じて、柔らかすぎる笑みを浮かべた。

 思わず見惚れそうになったのは、積もりに積もった不安が和らいだせいだろう。

「その、あれだな。俺にできそうなことがあれば、なんでも言ってくれ」

「なんです、急に?」

「いや、なんとなく……あー、世界を守ってもらってるお礼、みたいな感じだと思ってくれればいい」

 なにかをしたいという理由を探して、ふと浮かんだのがそれだった。

「別に見返りなんて……と言いたいところですけど、うーん」

 軽く笑って流されるかと思ったが、彼女は顎に手を当てて頷く。

 それから思案するように視線を彷徨わせ、また頷くと俺を見た。

「なんでもって、言いましたよね?」

「俺にできそうなことならって部分、忘れないでくれよ」

 良からぬことを企んでいそうな彼女の楽しげな目に、俺は釘を刺す。

「わかってますよ。ちゃんとあなたにできる……拍子抜けしちゃうくらい簡単なものです」

 そこまで言われると、逆に不安を覚える。

 俺の経験上、こういうときに女性が口にするお願いは、男にとってハードルが高いものだったりすることが多い。

「……で、なんだ?」

 どんな言葉が飛び出しても動揺しないように、俺はしっかり身構える。

「次の休み、私とデート、してくれませんか?」

 案の定、彼女はとんでもなくわけのわからないことを、とてもいい笑顔で言い放った。

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