千年堂のお稲荷様②ー7
鬼婆婆改め千年堂のお婆婆はしばらく名雪の隣に座って息を整えていた。大量の汗をかいていて、彼女も相当消耗しているように見える。
疲れを感じさせる長いため息を吐いてから、名雪のことを見て、顔の右側を指差した。
「顔、悪かったな。手当てしよう。チビの身体も拭いてやらんとな」
「あ、あの……」
正座して頭を下げた。動くと右の顔がギリギリと痛んだが、奥歯を噛んでそれに耐えた。
「ありがとうございました。この子のこと、助けてくれて」
お婆婆がはっ、と笑った。
「なぜお前が礼を言う。これはこっちの問題だ」
「でも……この子、助けてくれたんです。僕のこと」
血を吐きながらも怪物に対峙し、少女は名雪を守るために結界を張り続けた。
「その……何か、手伝わせてもらえないですか? 身体拭くのも、水汲んできたりするのでも、何でもします」
お婆婆はしばらく名雪のことを見ていたが、
「……お前、さっきから気になってたんだが、ずいぶんと他人行儀だな?」
予想外の言葉を返した。
驚く名雪ににじり寄り、その紫色の瞳が名雪の瞳を覗き込む。
鬼婆婆に頭からガブリと食われるのではないかという恐怖に震えていると、お婆婆が「はぁん」と一人で納得して頷いた。
「お前、記憶をいじられてるな」
衝撃的なことを言われ、そして名雪の中でパチリとパズルのピースが合った。
昔お婆婆に会って、しかも助けられたことがあるような無いような、その曖昧な記憶。
お婆婆がニタリと笑った。
「そっちの『稲穂』を助けてやったこと、まさか忘れたのか? 恩知らずめ」
あ、と声が出た。
稲穂。それはかつて、名雪が飼っていた茶色の小型の雑種犬。大人しく優しく、おっとりした性格だったが、やはり犬らしく散歩好きで、よく二人で外に遊びに出かけた。父親はおらず、母には捨てられた名雪にとって、誇張ではなく唯一の家族だった。
急速に記憶が蘇ってくる。
目の前の鬼婆婆が助けてくれたのは、実際には名雪ではなくその「稲穂」であった。
幼かった名雪がタチの悪い悪霊に取り憑かれそうになった時に、守ってくれたのが稲穂だった。そして名雪の代わりに呪いを受けてしまったのも稲穂の方で、どうすることもできずに途方に暮れていた名雪を助けてくれたのがお婆婆だったのだ。
「思い出したか?」
目の前に、般若面すら可愛く見えるお婆婆の笑顔があって悲鳴を呑んだ。
「失礼なガキだな……。なに、別に今さら礼や見返りを求めようなんて思っちゃいやせん」
「あっ、あの!」
「ん?」
「記憶がいじられてるって……」
誰が? なんのために? そもそもどの記憶が正しくて、どの記憶は違っているのか?
「お前……」
お婆婆が目を瞑ったまま言った。
「母親はどうしてる?」
「え?」
なぜそんなことを聞かれるのか不思議だった。しかし聞かれた以上、そのままに答えた。
「他に男を作って、家を出ました」
は、とお婆婆が鼻で笑った。
「いいだろう。名雪、これを見ろ」
言ってお婆婆が手を、いわゆる影絵の時にする「狐の顔」の形にした。
名雪が見る先で、その合わせた指を素早くスライドさせ、
パチン!
音が鳴った途端、名雪はトランス状態に陥った。
いま目で見ている光景が、徐々に他の映像に置き換えられていく。
周囲で燃え盛る炎。
少し前方に、霊力者らしき四人の人間がいて、顔を布で覆っていた。袖のない右の前腕には、十二支を表しているらしいそれぞれの文字。
そしてその後方には、明らかに人間とは異なる巨大な人影。
頭の中では現在進行している事実とは異なる映像だとわかっているはずなのに、それでも絶望的なまでの恐怖を与えてくる、「鬼」と呼ばれる存在。
そして彼らと名雪との間に、一人の女性が立っている。
その細い体で、しかしまるで、名雪の前に立ち塞がるかのように立っている。
「かあ、さん……?」
呼ぶと女性が振り返った。白いTシャツは、彼女が流した血によって、白いところが残っていないくらい真っ赤に染まっていた。名雪に気付き、一度驚き、困ったように笑って見せた。
途端。
名雪の視界が、先ほどまでの千年堂に帰ってくる。
薄暗い屋内には松明の炎が灯り、名雪の少し前にはかつて見た母親の姿ではなく、お婆婆が座っていた。
名雪の頬を、なぜか大粒の涙が伝っていく。
「母さんは、男と出て行ったんじゃ?」
お婆婆が小さくため息をついた。
「違う。……あいつは、お前を守るために、戦って死んだ。もう、この世にはいない」
「……なんで?」
自分でも何を指しているのか分からないくらい、たくさんの「なぜ?」が含まれていた。
しかしそこで名雪は、ふと違和感に気づいた。
「……あいつ?」
お婆婆が今度は舌打ちした。
名雪が確信する。お婆婆は、名雪の母のことを知っている。
その時。
激しく混乱している名雪の隣で、寝ている子狐が苦しそうな声を上げた。
「悪いがその話は後だ」
言ってお婆婆が立ち上がる。
「手伝ってくれるなら儂も助かるが、どうするよ?」
仔狐を指し示すお婆婆に息を飲んだ。
そうだ。優先順位を考えなければならない。
いま一番大事なことは、生きている子狐。自分の家族の話は、後回しだって良い。
未だ熱いままの疑問を無理やり呑みくだし、頭を振って名雪が立ち上がる。
そんな名雪にお婆婆は頷き、先立って歩き始めた。
着いたところは台所で、想像していた井戸に竈門といった年代モノよりは、はるかに現代的なガス温水器付きの水道があった。
お婆婆がタライにお湯を汲み、きれいなタオルをそこに二枚入れる。
「水が汚れたらここで替えろ」
指示に頷いて返した。
部屋に戻り、横たわる少女の隣に腰を下ろす。
少女の身体はまるで殺人現場に倒れている遺体のように血に塗れている。
タオルを絞って、おでこや頬を優しく拭いていく。
お婆婆は部屋から出て縁側に移動して、よっこいしょ、と腰を下ろすと、長いキセルに火をつけた。
外に出たのは多分だけれど、煙が少女に届かないように配慮しているのだろう。
「今朝は世話になった。儂からも礼を言う」
「え……?」
今朝。
――たすけてくれたひと。
「あの……。この子、なんでこんなになるまで……。確かに助けはしました。でも、こんなになるまで、してもらうほどのこと……」
青ざめて、今にも死にそうな少女の顔を見ていたら、喉の奥で涙が詰まった。
ぐったりしているその手をとる。自分の手の大きさの半分もない。
「確かに恩返しの意味もあったのかもしれない。だが……」
お婆婆が言って、一度煙を吸った。
「単純に嬉しかったんだろう。助けてもらえたことが。この二年間、そいつはずっと一人で、この地を守護してきた。誰にも手助けしてもらえず、たった一人で」
「この地を、守護?」
お婆婆が部屋を覗きこみ、久しぶりに名雪のことを見た。
瞳が暗闇の中で怪しく光って見えた。
「そのチビはな、正真正銘の神だ」
「え?」
「正式な名前は、第十七代護国院高座郡稲荷総鎮守・
ショックだった。
目の前の少女は、最高神と呼ばれる座に就くには、どう見ても幼過ぎるように見える。
「この子が、最高神……?」
「笑えるだろう? 土地神なんて普通、若くても六百から八百歳くらいの御霊が就任するもんだ。おかげで隠居したはずのババアも大忙しだわい」
言って再び引き攣ったような笑い方をする。
「どうしてこんな、小さな子が?」
お婆婆は問いに対して返事をせず、しばらく少し遠くを見るような視線で何度かタバコをふかしていた。聞こえていないわけでも無視しているわけでもなく、話の始め方を考えているような雰囲気がして、名雪も何も言わず、黙って子狐の腕をタオルで拭いていた。
「二年と少しほど前のことだ。こやつの先代が急逝してな。急に後継の土地神を決めることになった……が、決まらなかった」
「……就任できる神様がいなかったってことですか?」
名雪の言葉に、お婆婆はさも可笑しそうに笑った。
「そんなことはない。この地域は歴史があり、昔から人とミタマとで賑わっていて、意思さえあれば就任できるくらいの力のある候補も両手の指で数えきれないほどいた。つまり……誰もやりたがらなかっただけだ」
名雪が首を傾げる。
「単純な話だ。少し昔であれば、『土地神』の座は御霊であれば誰もが欲するものだった。信仰は豊富に存在し、大した仕事をしなくても、十分すぎるほどの見返りを得られた。しかし今は違う。典型的な『割の合わない仕事』になっている。
そうであっても、通常であれば、先代の神が後継を指名することで、土地神のシステムは強制的に続けられてきた。ただ今回は先代の急逝があったために指名制が機能せず、神候補達が集まって話し合いで決めることにした。そしてそのせいで決まらなかったのだ」
「まさか……」
子狐のことを見て思わず呟く。
嫌な予感が背中を這い上がってくる。
「最後は、押しつけたんですか? 他の神達が。この子に」
「そうだ」
体中の毛が逆立った気がした。
なんという、無責任。
自分はやりたくない。その理由から、自分達の中で一番弱いものにその役を押し付けたのだ。他でもない、仮にも神様やそれに近い者達が。
「それだけではない」
「え?」
「当初、神達の力は拮抗しており、誰も誰かにこの役割を押し付けられなかった」
名雪が子狐のことを見る。しかし押し付けられた存在は確かにここにいる。
二歳くらいの小さな子。
ふと違和感に気づく。先代の土地神様が亡くなったのが二年と少し前……
「そう。作ったのだ。神達は自分達の手で。自分達の重荷を押し付けるためだけの存在を。しかも……」
お婆婆が一度キセルをとり、煙を吸って吐いた。
「神々は自分達の責任を押し付けやすい、賢くて誠実な『次の神』を求めた。その結果、狐ではなく、大量の犬の霊魂を集めて精錬し、稲荷もどきを作ることにしたのだ」
「え? 犬?」
子狐(?)のことを見る。
「犬の霊って、お稲荷さん出来るんですか……?」
お婆婆がひひ、と笑った。
「信仰なんて昔から適当なものよ。ある宗教で最善の神と呼ばれているものが別の教えの中では最悪の魔王とされている場合もある。多くのものが気にしないならば、犬神が稲荷の座についても問題は起きん。そして大抵、神の中身についてまで気にする者などいない」
メチャクチャな話過ぎて唖然とする。
「実際……この一年、このチビは神としてまあまあ上手くやっていた。霊力も強く、もともと犬神だったというハンデは、むしろ犬神であることによる賢さや忍耐強さといった長所で補っていた。誠実なところもまた、土地神に向いていた……」
お婆婆が目を瞑り、小さくため息を吐いた。
「しかし今朝、想像していなかった理由で、これまでの均衡が崩れたのだ」
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