真実
第58話 真実1
「飛び込んだのは姫ではござらん」
長い長い十郎太の回想を聴いていた面々は、突如割り込んだ声に振り返った。
「本間殿!」
いつからそこにいたのか、戸口の影に立っていたのは柳澤の家老だった。
「あのとき我々は、狙われておるのは姫じゃと勘違いしておった。それゆえに橘が姫に扮した小夜を連れ出したのじゃ」
「小夜? あの小夜か?」
半分腰を浮かした十郎太に、本間は「さよう」と返した。
「勝孝殿が差し向けた小夜は、実によく働いておった。だが小夜が間者であることは橘がすぐに見抜いたのでな」
「知っていて泳がせたと申されますか」
「そうじゃな」
家老は涼しい顔で室内に入って来ると、向かい合う勝孝と月守の真横に陣取った。
「そして小夜が薬を盛った時に橘が致死量だと告げたんじゃな。小夜の反応を見るために。可哀想にのう、あれは勝孝殿を信じ切っていたんじゃろうな、橘に向かって『死んで詫びるゆえ殺してくれ』と泣いて懇願したそうじゃ」
「お小夜ちゃん……」
ボソリと呟いた狐杜の声は、思いの外大きく響いた。そこに家老が
「橘は小夜を不問とし、そのまま姫の世話係の任を与えた」
なぜ、と言いかけて、十郎太は途中で理由を理解した。橘は小夜を守ったのだ。
「小夜は任務を遂行できなかった。橘が許しても手ぶらで帰せば、帰った先で殺される。それが殺し屋の掟じゃと知っておる。ゆえに小夜を手元に置いたんじゃよ、橘は」
何かに気づいたらしい勝宜が「まさか」と勝孝に視線を投げた。
「橘殿は萩や桔梗丸と共に、小夜と弟を父上から守るつもりで」
「そういうことじゃ。橘は先輩として放っておけなかったんじゃろうな」
「先輩?」
それまで黙って聞いていたお八重が目を剥いた。勝宜とほぼ同時だった。
「橘という名は儂がつけた。儂が左近の桜、奴が右近の橘となるように」
「名付けたって……御家老様?」
「橘は萩姫が生まれたときに最初に来た刺客だったんじゃよ」
これにはさすがに十郎太も驚きの声を上げた。
「あれはまだ橘が十二の時じゃったな。先ほどの十郎太の話にあった刺客、あれが橘じゃ。お初の方さまに抱かれた姫に一直線に向かって行ったな。全く無駄のない動きじゃった。儂が一瞬でも気づくの遅かったら、姫様はこの世にはおられん。刺客が子供と気付いてさすがに儂も驚いたが、儂の刀を返しおったもんでの。これは只者ではないと思うたわ」
当時、本間帯刀は木槿山最強の呼び声高く、『刀を返せず』と恐れられていた。
「その時にお初の方さまが『
「だから! 自分がお初の方さまと本間さまに助けて貰ったから、お小夜ちゃんのことも同じように助けてあげたのですね、橘さまは」
「ならば、その橘どのは今どちらにおられるのです」
興奮するお八重を遮るように、勝宜の静かな声が響いた。
「川に飛び込んで、そのままなのですか」
家老がチラリと月守に視線を送るが、彼は表情一つ変えずに勝孝をまっすぐに見据えていた。
「そうじゃな、もう橘は戻らぬ」
諦めたようにボソリという本間から父に視線を移した勝宜は、その名を呼んだ。
「何ゆえに、そんなにこだわるのです。萩が柳澤の主であることの一体何が不満なのです。父上はいつも言っていたではありませぬか、力のあるもの、才のあるものがその仕事をすれば良い、仕事が出来る者は評価されるべきであると」
息子と目を合わせようとしない父に、勝宜はさらに畳みかけた。
「萩は他人の話をよう聞いておられる。他人の気持ちに寄り添うこともできる。それこそが民の上に立つ者の才にございましょう。何ゆえ邪魔をするのです。萩が困ることがあらば、助けるのが我ら一族の仕事にございましょう」
勝孝が口を開いた。
「……らぬ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます