8 ダイヤモンド鉱山② 〜変な新入りがやって来た〜
「大丈夫?」
その青年はわたしの身体をひょいと軽く持ち上げてから、ゆっくりと地面に下ろした。
わたしは彼の顔にじっと見入る。不思議な雰囲気の持ち主だった。
濡れた鴉の羽ような漆黒の髪に、煉獄の底みたいに燃え盛る紅い瞳。その相貌がアンドレイ様とあまりに対照的で、思わず少しのあいだ見つめてしまった。
「どうした?」彼は首を傾げる。「怪我はないと思うが……」
わたしははっと我に返って、
「だっ、大丈夫だ。助けてくれてありがとう」
慌てて彼に頭を下げた。
「そうか。じゃ、行こうか」
彼は落ちていたわたしの鶴嘴を拾い上げて坑夫たちの待つ持ち場へと向かう。
わたしは慌てて彼を追いかけた。そしてパッと鶴嘴を受け取って、彼と並んで一心不乱に岩を掘る。周りに迷惑を掛けられないから、早く今日のノルマを達成しないと……。
ゴツゴツと硬い岩に刃が当たる音だけが洞窟内に響いていた。
わたしは隣で涼しい顔をしながら器用に鶴嘴を動かしている彼のことが妙に気になって、チラチラと横目で眺める。
彼は「異物」だ。
――と、一瞬で分かった。スカイヨン先生から教わった間諜の心得だ。
その仕事柄、緊急事態に遭遇することの多い諜報員には、なによりも観察眼が必要らしい。なぜなら一瞬の判断の誤りが、自身の命を危うくするからだ。
だから、よく観察すること。自身が置かれた場面にそぐわないような「異物」を探し出すこと。警戒すること。常に頭を回転させること。
それらの注意力・思考力が生命線なのだ。
隣にいる彼は労働者然とした小汚い恰好をしているが、それが付け焼き刃のものだとすぐに分かった。
栄養状態がすこぶる良い肉体……血色がいいし、埃まみれの髪の艶もいい。襤褸服の下は普段から意図して鍛えられたしなやかな筋肉で、彼の動きは鶴嘴というよりかはまるで剣を持っているようだ。
それに、どこか品のある立ち居振る舞い…………、
彼は貴族、ね。
でも……一体なんのために、わざわざこんな場所まで来たのかしら?
道楽? お忍びの視察? ……まさか、わたしと同業?
いずれにせよ、最大限に警戒するに越したことなさそうね。
「なに?」と、彼が出し抜けにこちらを向いた。
わたしは思考を読まれているような錯覚に陥って、心臓がドキリと飛び出しそうになった。労働の汗とは違うものが額に流れる。
「い……いやぁ、見ない顔だなぁって思って」
「僕は今日から働くことになったんだ。名前はレイだ。よろしく」
「そ、そっか。こちらこそよろしく。わた――オレはオディオ、だ」
「オディオか。それにしても随分若そうだな」
「あぁ、オレの家は貧しくて、おまけに両親が身体を壊したから長男のオレが働きに出ているんだ。ここは厳しいがそのぶん給金はいいだろ? ……で、オマエはなんでここに?」
わたしも彼――レイにここにいる理由をさり気なく尋ねる。
さぁ、どう答えるのかしら、このお貴族様は。
彼はニッと笑って、
「僕も君と同じようなものだよ。全く、互いに苦労するな」
素知らぬ顔で言ってのけたのだった。
「そうか。お互い大変だな」と、わたしは心無い返事をする。
「そこ! 無駄話をするな!」
監視の怒声を合図に、わたしたちは仕事に戻って再び黙々と穴を掘る。
ま、そうなるわよね。見ず知らずの初対面の人間に本当のことを話すわけはないか。
だとしたら、こちらも彼の茶番に付き合うことにするわ。わざわざ彼の本当の身分のことを指摘して、厄介な問題に巻き込まれでもしたら面倒だしね。
……スカイヨン先生からも好奇心で事件に首を突っ込むなって、きつく言われているし。
「ここの仕事はどうだ?」と、レイが出し抜けに小声で尋ねてきた。
「えっ? あ、あぁ、思ったより過ごしやすいよ。来る前はどんな地獄が待ち受けているかと戦々恐々としていたから」
わたしは監視に怒られないように今度は手を止めずに答える。
彼は目を丸くして、
「悪い噂しか聞かなかったということか?」
「う~ん……」わたしはしばし思案して「きっとオレの家が田舎だから、正しい情報が入って来なかったんだと思う。ほら、噂って広がれば広がるほど元の話と違う内容になっていくものだろう?」
「なるほど。君はかなりの辺境の地の出身のようだ。それで、噂とは違ってどう思った?」
「どうって……噂は当てにならないな、って。――ああ、あと王太子殿下は凄いな。ここの待遇は殿下が改善されたんだろう?」
彼は矢庭に得意げな顔になって、
「まぁな」
ニヤリと笑って、したり顔をした。
え、なんなのかしら、この人。なんで自分のことのように偉そうにしているの?
もしかして、彼も王太子殿下の信奉者?
「……なんでオマエが嬉しそうにしているんだよ」
思わず問いかけた。
「えっ! だ、だって……。そ、そうだ! 僕たちの未来の君主が褒められると嬉しいものだろう?」
やっぱり。彼も王太子殿下に傾倒しているのね。
それにしても、平民からも貴族からも慕われている王子、か。素晴らしいわね。この国は安泰ね。
そう言えば、アンドレイ様のことをこんな風に褒めている方々を見たことは…………、
――と、ふと頭の中にぼんやりと思い浮かべてから、わたしはブンブンと顔を左右に振った。
いけないわ、なにを無礼なことを考えているのかしら。
アングラレス王国にいたときは平民と関わることなんて皆無だったし、貴族たちもアンドレイ様の婚約者であるわたしの前で王子の批評なんて怖くてできないわよね。
だから、アンドレイ様に関するレイモンド王太子殿下みたいな素敵なお話をわたしが耳にする機会なんてないはず。これは仕方のないことなのよ。
だって、いつも隣にいる婚約者のわたしが彼の素晴らしさを一番よく知っているもの。
「どうした?」と、レイがわたしの顔を覗き込んだ。
「わっ!」
思わず鶴嘴を落として仰け反る。きゅ、急になんなの、この人!
わたしはバクバクする心臓を押さえながら、
「な、なに!?」
「いや、心ここにあらずって感じだったから。心配で」
「それはご心配どうも! あっち行けよ」と、わたしは鶴嘴を持って仕事を再開しはじめる。
「悩みがあるのなら僕が聞いてやろう」と言って、彼は自信満々にポンと胸を叩いた。
「はぁ?」
わたしは顔をしかめる。
本当になんなのかしら、この人は。初対面なのに馴れ馴れしいわね。
「結構だ」
「冷たいなぁ。一人で抱えて悶々とするより、人に頼ったほうが楽になるぜ」
「うるっさい! 早く仕事に戻れよ。今日のノルマが終わらないと晩飯抜きだぞ」
そう……いくら環境が良くなったって、働かざる者食うべからず。与えられた仕事をきちんと終わらせないと懲罰が待っているのだ。
わたしは体力がなさすぎて、初めの頃は毎度のようにノルマを達成できずに、見かねた坑夫たちがこっそり手伝ってくれていた。
本当に、彼らには感謝してもしきれないわ。
……同時に、仲間というものの尊さを初めて知って、なんとも言えない温かさを覚えたわ。
「あぁ、僕はもう君の倍は掘っているけど?」と、彼はしれっと答える。
「えぇっ!?」
驚いて彼の足元を見ると、本当にわたしの倍……いえ、それ以上に砕かれた岩の山が出来ていた。
い、いつの間にこんなに仕事を進めていたのよ! さっきからずっと喋っているのに!
彼はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて、
「半分あげようか?」
「いらない!」
「遠慮するなよ」
「しつこいな! 口より手を動かせよ! 今日のノルマに間に合わないぞ!」
「え? もうすぐ今日のノルマを終えるけど。……やっぱり、半分いる?」
「いらないって言ってるだろうっ!!」
「こらっ、そこっ! 黙って仕事をしろっ!!」
監視の怒気を含んだ濁声がまたぞろ洞窟内に響き渡った。
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