第16話 この国で一番安全な場所は、おれの腕の中だ
持っていたマグカップをぶん投げた。
正直、届くとは思っていない。だけど、威嚇ぐらいはできるだろう。
投げると同時に、走り出す。
脳から熱い粒子が放出されるのを感じた。
ばくり、と心臓が拍を打ち、末端までその熱がいきわたる。
マグカップはおれを先導するように弧を描き、もうほとんど残っていない内容物を吐き出しながら、ウェイターに向かって飛ぶ。
異変に気付いたらしい。
シトエン嬢が椅子から立ち上がろうとする。
そこを、ウェイターが取り押さえる。
音を立ててシトエン嬢が椅子ごと倒れ込んだ。
ウェイターが馬乗りになるのを見て、理性が簡単にぶち切れた。
ばちり、と網膜が光を爆発させる。
「おれより先になにしやがる!」
気づいたら、派手にウェイターの顎を蹴り上げていた。
だが、確実にヒットしたわけじゃない。
思ったほどの衝撃がつま先にこない。
案の定、ウェイターはシトエン嬢から飛び離れ、片膝をついて態勢を整える。
逆刃にもったナイフで、ネコ科の動物に似た目つきでこっちを睨んでいた。
「シトエン嬢を!」
怒鳴った。
すぐに騎士数人が駆け寄るのを、視界の端で確認する。
「おれは今、最高に機嫌が悪い」
佩剣の柄を握り込み、ひき抜く。
しゅうしゅう、と身体中から熱が放出されているのが自分でもわかる。一気に精神が昂り、不機嫌なはずなのに、うははは、となぜだか笑いたくなる。それを、ぎりぎりと奥歯を噛み締めて潰し、舌なめずりをする。
しゅい、とウェイターだけ周囲から浮き上がるように、色彩が濃く見える。雪山の中、獲物を見つけた気分だ。
「団長」
背後でも数人の騎士が剣を構える気配があった。
明らかに多勢に無勢だ。あのウェイター逃げるかな、と思ったが。
ウェイターは低く構えた姿勢のまま間合いに入ってきた。
そこから、伸びあがる。
下から上に。
短剣が、確実におれの喉元を狙ってきた。
半歩下がり、背を逸らせる。
鼻先すれすれで、短剣を握ったウェイターの腕がかすめた。
空を切る短剣。そこを、柄部分で払い、軌道を変える。脳天に打ち込もうとしたら、「左っ」とラウルの声。
瞳だけ移動させると、いつの間に持っていたのか、左手にも短剣を握っており、それがおれの腰を狙っていた。数歩下がると、切っ先が服のすぐそばをよぎる。
短剣を使うせいで、間合いが近い上に、動きが速い。
右と左で合わせ技を繰り出してくるのもうっとうしい。
だけど。
いくつかの攻撃パターンがある。見切れる。
右、左、と来たところで、おれは身体を左に開いて、長剣を捨てた。
殴りつけるように伸ばされた奴の左腕を両手でつかみ、身体を反転させて背中に載せる。
そのまま、足を払って勢いよく地面に叩きつけてやった。
ぎゃ、と悲鳴を上げて仰向けに転がったところを、腕をねじってひねり上げる。
「縄、もってこい! 縄!」
おれが言うと、騎士の一人が素早く駆け寄り、地面でのたうとうとしている男の胴を縄で縛り上げる。
「もう手を離してください。あとはこちらで」
ラウルがおれからウェイターの腕をもぎ取るんだけど、その容赦のないこと。おれよりがっつり関節きめるから、痛そうなのなんなの。
「団長は、あっち」
手加減してやれよ、と言おうとしたら背後を指さされた。
なんだろう、と振り返ったら。
とすん、と前から衝撃が来た。
シトエン嬢だ、と気づくまでに数秒かかった。
彼女は銀色の髪を揺らしておれの腹辺りに顔をうずめ、背中に腕を回してしがみついていた。
「こわかったですか? 大丈夫ですか?」
そういえば、押し倒されて馬乗りになられたんだっけ、と思い返し、ラウルに「やっぱり関節はずせ」と言いかけたら、彼女はがばり、と顔を上げた。
「王子は!? 大丈夫ですか!?」
「は?」
真剣におれを見つめるから、呆気にとられる。
「けがは!? どこか痛いところは!?」
しがみついていたと思ったのに、今度はぴょこんと離れ、おれの脚だの手だのを、ぱたぱたと触れて回る。どうも傷がないか確認しているらしい。
「いやあ、おれ」
なんだか、こんな風に心配してくれるのが新鮮だ。腰をかがめ、彼女と同じぐらいの視線にしてやる。
「別名『ティドロスの冬熊』ですからね。これぐらい、なんてことはないですよ」
安心させるように笑って見せると、彼女はようやく顔から強張りをほどいたようだ。
じっとおれを見つめ、それから両腕を伸ばしてくる。
おれが前かがみになると、首に腕を回し、またぎゅっと抱きしめてくれた。
ふと、可笑しくなる。
彼女にとっておれは、どんな風に見えているんだろう。
初日の夜、「痛いの痛いのとんでいけ」と言ったことといい。
いま、こうやっておれを抱きしめる腕といい、まるで幼い弟に伸ばしたそれのようだ。
「団長はしばらく、シトエン嬢のそばにいてやってください。やっぱり、カフェの二階を控室に抑えましょうか?」
ラウルが言う。
おれは彼女を抱きしめ返し、曲げていた膝を伸ばした。
ふわり、とあっけなく彼女の身体は持ち上がった。腰あたりで支え、ぐるりと振り返ると、ぴう、と騎士の数人が口笛を吹くが、無視無視。
「いや、移動しよう。ちょっと無理をしてでも早めにヴァンデルのところに行く方がいいだろう」
桃の件と言い、この刺客といい。なんだってんだ。
「数人はここに残って、そいつの裏を探れ。あとは準備出来次第、出発だ。イートン!」
おれはシトエン嬢の侍女の名前を呼ぶが、どうやら腰が抜けてしまっているらしい。なんだって、この侍女は大事な時に腰を抜かすんだ。騎士が数人がかりで立たせようと必死になっている。
「もういい。おれがシトエン嬢を馬車に運ぶ。そっちも誰か運んでやれ」
呆れてそう言うと、シトエン嬢がまた、ぎゅとおれの首にしがみついた。
「大丈夫ですか?」
小さく尋ねると、震えるように頷く。
「王子が無事で、よかった」
そんなことを言うからくすぐったくなる。まるで、こうやっておれを抱きしめていたら、どんな敵からも自分が守る、と言いだしそうな気配だ。
「おれは無事ですよ。いつでもね」
よいしょ、と抱えなおす。ぐい、と彼女の尻の下を支え、目の高さを同じにすると、驚いたことに彼女は泣いていたらしい。
紫色の瞳が、涙で潤んでいる。
「本当に?」
震える声で、シトエン嬢は尋ねた。
「本当に、あなたは大丈夫なの? 死なない?」
最後はただの泣き声だ。
ぼろぼろと涙をこぼし、シトエン嬢は幼児のようになきじゃくるから仰天した。えぐえぐ、ともう、言葉になっていない。
「これはこれは、姫……」「よほど怖かったのでしょう」「おやおや」
周りの騎士たちも動揺している。普段、女がいないからなぁ。
「シトエン嬢」
こつん、と額を合わせる。
鼻先が触れ合う距離で、に、と笑って見せた。
「おれは死にませんよ。そして、あなたも死なない」
ぱちぱち、と。
濡れた紫水晶のような瞳がまばたきをする。
「この国で一番安全な場所は、おれの腕の中だ。あなたはいま、そこにいるんです。なにも怖がることはありません」
そういうと、周囲の騎士たちも口々に笑った。
「それはそうだ。そこが一番安全ってもんです」
「ご安心なさい、姫。誰もあなたを傷つけない」
そう誰も。
もう、彼女を傷つけることなんてできない。
だって。
おれはずっと彼女の側にいるんだから。
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