『君を愛した僕は、まだ君を抱きしめたい』
八咫烏
プロローグ
桜の花びらが春の風に乗って舞っていた。
まるでダンスを踊っているかのように、くるくると空を泳ぐ。
春の陽気はどこか嬉しそうでーーまるで桜たちが「ようこそ」と囁いているようにも感じられた。
そんな季節の始まりの中で、ただ一人、
起きてから咳が止まらなかった。
季節の変わり目や寒暖差が酷いと昔から喉が焼けたかのような違和感に悩まされる。
寒さがまだ残る空気に肩をすくめながら洗面所に移動して吸入薬を吸い込む。少し苦い薬の味がじわりと口に広がる。
うがいをするついでに顔を洗い、鏡を見る。
映ったのはいつ見てもクマの酷い、自分の顔だった
(…….ほんと、ひどい顔だな)と朔夜は思った。
顔をタオルで拭き、リビングにやってきた。
誰もいない静かな空間を、アナログ時計の秒針の音の「カチカチ」という音だけが響いている。
冷蔵庫から食パンを一枚取り出し、オーブントースターに放り込む。
朝は二人とも仕事で夕方まで帰ってこない。
朝はいつも、一人だ
にゃー
ソファーの隅の方から猫の小さな鳴き声がした。
愛猫のアサヒだ。 全体的に白く尻尾だけが黒っぽく染まっている。
(1人ではなかったな)
そう呟いて、朔夜は少しだけ口元を緩めた。
アサヒと戯れているとパンの焼ける「チン」という音が聞こえた。
手を洗い、焼きたてのパンを皿にのせる。
ブルーベリージャムをスプーンで塗り、インスタントコーヒーを入れる。
誰も居ないリビングで、少し早めの朝食をとる。
パンをかじるとアサヒが「にゃー」と寄ってきた。
いつも何かを食べ始めると、こうして物欲しそうな顔をしてやってくるのだ。
やがて、学校向かう時間がやってくる。
慌てて制服に着替える。 制服は紺色のブレザーだ。
ブレザーの袖を通し、鞄を肩にかける。
靴を履き、玄関を出ようとしたところーー愛猫のアサヒが足元に擦り寄ってきて甘え始めた。
「もう家出るんだけど」と朔夜はアサヒに呆れながらも優しく話しかけそっと頭を撫でて家を出た。
家を出ると、春の匂いがした。
➖―――匂いといっても何かが香るわけではなく、空気の温度とか、風の柔らかさとか。 そんな感じ。
朝の光に照らされた街は、どこか眩しくて、春を歓迎しているようで、目を細めたくなる。
どこからか桜の花びらがふわりと一枚制服の右肩に落ちてきた。
朔夜はそれをそっと摘み、少し見つめてから優しく遠くにふっと吹き飛ばした。
気づけば、時間がかなり押していた。
ゆっくりしすぎたせいで、電車の発車時刻が迫っている。
朔夜は駅までの道のりを早歩きから次第に小走りになり、最後には全速力で駅に向かった。
ギリギリで電車に乗ることができたが、駅まで全力で走ったから息が切れて胸が苦しい。
座席に座り息を整えマスクを付け直す。
乗り換えの駅に着き、電車を降りる。
乗り換える電車が来た。
乗車しようとすると背後から押された。
(押すなよ)と朔夜は少し悪態をついた。
30分ほど満員電車に揺られ、ようやく降車駅に着いた。
電車を降りると、いつもと違う空気がした。
新学期ということもあってか、ソワソワした空気が漂っている。
改札を出て、いつもの道を歩く。
朝の光はすっかり高くなり、住宅街の塀越しにさく花が、春の到来を告げていた”
少し歩くと、小さな神社が見えて来た。
神社を通り過ぎると、蓮根畑が広がる
蓮根畑が広がる車が一台ギリギリ通れそうな道を通ってようやく校門が見えてくる。
朔夜が通う、朧月学園だ。
校章が、朧月と羽をモチーフにし、ラテン語で、Foris in adversis(逆境の中で強し)と刻まれている。校是はFortitudo ex infirmityate(強さは弱さから生まれる)を使用している。
門をくぐると右側には芝生でできた運動場がある。
校門から校舎までは50メートルほど離れている。
昇降口に着くと、クラス表が張り出されていた。
クラス表を見て、喜ぶ声、落胆する声、様々な声を聞きながら朔夜は自分のクラスをそっと静かに確認し、その場から立ち去った。
教室に行くと、すでに数人が教室で喋っていた。
朔夜は喋っている新たなクラスメイトを尻目に、自分の席に着いた。
席について、本を読んでいると、右横から声をかけられた。
黒髪のをロングヘアで毛先だけ巻いた髪型をした華奢な女の子が話しかけて来た。
「何を読んでいるの?」
朔夜は、驚いた顔をしたけど、すぐに表情を戻した
「西村○太郎の十津○警部シリーズ『生命』を読んでる」
と朔夜が言うと
「サスペンス小説が好きなの?」
と聞かれた。
「親父、父さんが読んでたのを貰っただけで好きとかじゃ」
と朔夜は少し照れ気味に答えた。
「てか、君の名前は?」
朔夜が聞くと、
「自己紹介がまだだったね、私は亜悠奈
と涼やかな声で言った。
朔夜は、亜悠奈にどこか儚げで静かな魅力を感じた。
それが、この春を大きく変えていく最初の一歩だと、朔夜はまだ知らない。
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