それは、絶対に―――

 ずっと前から知っていた。

 そう語ったエリクは、とても静かな表情をしていた。



「シアノ君、気付いてた? 毎日のように、僕にごめんなさいって言ってたこと。」

「え…?」



 やはり、そんな自覚はなかったらしい。

 きょとんとして目をまたたく無垢な姿を見ていると、胸が引き絞られるようだった。



 エリクは目を伏せて、過去の記憶を手繰たぐる。



 これは、ぼくのせいなの?

 全部、ぼくが悪いの?



 ごめんなさい。

 ごめんなさい。



 お願い。

 お願いだから、死なないで……



 毎日のように、頭に響く幼い声。

 始めは、気のせいかと思った。



 だが、ジャミルに従わされる日が重なるにつれて、その声はどんどん強くなっていく。

 それで、おかしいと思うようになったのだ。 



 そんなある日、闇に沈んでいた意識が微かに浮上した時。

 自分の口を借りた誰かとシアノが話している声を聞いた。



 シアノは自分を〝父さん〟と呼んで、いつも泣きそうな顔をしていた。

 そしてその誰かは、まだ殺さないから大丈夫だと優しく語りかけていた。



 もしかしたら、自分の意識が不自然に途切れる時には、シアノが父と呼ぶ何かが動いている時なのかもしれない。



 それに思い至り、即座に方針転換。

 怪しまれない程度の頻度で、素直に体を明け渡してみることにした。



 何にも反応せずにじっとしていれば、相手は自分が覚醒していると分からないのだろう。

 奇跡的な確率でしか意識を維持できなかったものの、その時にはどんな言動でも盗み見ることができた。



 そして、シアノがあんなにも懺悔ざんげを繰り返す理由も分かってしまったのだ。



 だから、ミゲルからシアノが自分の命を狙うかもしれないと聞いた時、即で否を唱えた。

 仮にそれが事実だとしても、シアノの本心までそうとは限らないと。



「ぼくの声が、エリクに…? そんな、父さんみたいなことが……ぼくにもできるの?」

「うん。僕にはちゃんと、シアノ君の声が届いていたよ。」



 シアノの両手を握り、エリクは真摯しんしに語りかける。



「シアノ君。これは君のせいじゃない。今まで、よく頑張ってきたね。もう大丈夫だから。これ以上、嫌なことはしなくていい。」



「………っ」



 そう告げた瞬間、シアノが大きく顔を歪める。



「でも…っ。ぼくがいい子じゃなかったら、父さんは―――」

「シアノ君!!」



 とっさに、シアノの言葉を遮ってしまっていた。



「今の君には、理解できないかもしれない。でも、よく聞いて。」



 自分に怒鳴られて、びっくりしたのだろう。

 びくりと肩をすくませたシアノは、どこか怯えた表情でこちらを凝視している。



 でも、伝えなければいけない。

 そうしないと、この子は永遠に呪縛から解き放たれない。





「君のお父さんのそれは―――絶対に〝愛〟じゃない。」





 身を切るような思いで、現実を突きつける。



 当然ながら、シアノにはその意味が分からなかった様子。

 理解に苦しむ赤い瞳が、戸惑いで大きく揺れていた。



「あい、じゃない…?」

「君のお父さんは、君のことが好きじゃないってこと。」

「………っ!? ち、違うもん!!」



 分かりやすく言葉を噛み砕いて伝えると、途端にシアノが首を横に振った。



「父さんは、いつもぼくに優しかったもん! 前の父さんや母さんだったあの人たちみたいに、ぼくに痛いことをしたり、ぼくを捨てたりしなかった! ずっとぼくを守って……いい子だって、何回も褒めてくれたんだもん!!」



 父さんを否定しないで。

 ぼくから、唯一の存在を取り上げないで。



 幼い悲鳴が心に深く突き刺さって、あまりにもつらい。

 ミゲルも同じ心境なのか、力のこもった目元には涙が浮かんでいた。



 本当に、なんてむごいことをしてくれたんだろう。

 自分以外に味方がいないことにつけ込んで、こんなにも幼い子供を洗脳して、自身に縛りつけるなんて。





 盲目になっているこの子を救うためには、この子の世界を壊して、この子を傷つけるしかないじゃないか……





「……僕だったら、君にこんなことはさせない。」



 切なさをこらえて、そう告げる。



「シアノ君、君だったらどう? たとえば僕に……ルカを殺せって言える?」

「―――っ!?」



 訊ねた瞬間、シアノが全身を凍りつかせるのが分かった。



 この子はきっと、聡い子なんだろう。

 瞳の奥で何かが壊れていく様を眺めながらそう思って、同時にやるせなかった。



 どうしてこの子が両親から捨てられたその時に、自分がこの子と出会えなかったのだろうと。



「本当に好きなら、言えないはずだよ。大好きな子に、大好きな人を殺せだなんて……そんなひどいことは言えない。いや、。」



 自信を持って、そう断言する。



 いくら周囲からさげすまれる竜使いでも、洗脳と愛情の違いくらい分かる。



 自分がルカやカティアに注いでいる愛情と、シアノの父がこの子に注いでいる愛情。



 それらは決して、同じじゃない。

 同じであってたまるか。



「……分かんないよ…っ」



 しばらくの沈黙の後。

 シアノは、震える唇でそう言った。



「ぼくのことが好きじゃないなら、どうして父さんはぼくに優しくしてくれたの…? なんで褒めてくれたの? 分かんない…っ。………〝好き〟ってなんなの?」



 再び泣き出してしまうシアノ。

 激しく打ちひしがれているこの子に、これ以上の現実は見せられなかった。



「ごめん……ごめんね。こんなことしか言えなくて。」



 シアノをきつく抱き締めて、エリクは自身も涙を流しながら語りかける。



「今はまだ、分からなくてもいいよ。だけど、感じられるなら感じてほしい。少なくとも、僕とお父さんの〝好き〟は違うって。」

「ううぅ…っ」



「つらかったね。もう大丈夫。今度は、絶対に君を一人にしないよ。」

「ふえぇ…っ」



「大丈夫だから、こっち側に戻っておいで。みんなで生きて、一緒に笑える未来を創ろう。」

「―――っ!!」



 みんなで生きて、一緒に笑える未来を。



 シアノにとってそれは、自分とレクトを明確に分ける言葉だっただろう。

 そしてきっと、今のこの子が一番欲していた言葉。



 腕の中で、シアノが息を飲んで固まる。

 数秒後に震え出したシアノは―――



「うん…。うん…っ」



 何度も頷いて、初めて自ら手を伸ばして抱きついてくれた。



 この子の父は、一度でもこんな風に、この子を泣かせてあげたことがあっただろうか。

 剥き出しの心を受け止めて、この子がつらい時ほど、この子の傍に寄り添ってあげただろうか。



 寄り添うつもりが、あっただろうか。



(確かめてやろうじゃない。)



 自身にすがりついてむせび泣くシアノを抱くエリクの瞳に、激しい怒りが宿る。





 その左目は、深い赤できらめいて―――




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