第3話 触らぬ神に祟りなし

 第三章 良一の舞台


 ―成長期―


 前世の記憶を持ったまま転生した良一の頭脳はなんせ成人男性のレベルであり、言葉を発するようになった途端、天才時現る‼ スーパーキッズ降臨! 神の化身と全世界を驚愕させた…


 という都合の良いことはなく、脳の発達はリセットされているらしく、実際はお勉強も一からやり直しだった。どうやら記憶といっても体感したことや感動した時に深く心に刻まれた思い出が張り付いているだけらしい。ファンタジーの世界では良くある辻褄合わせだ。


 良一は伝統ある良家の跡取り息子。お金はあっても、ただ遊んで暮らすという飼い猫のような生活は許されなかった。一歳で英語の英才教育がスタートし、三歳から家庭教師が五人就いた。平日は、小学校から帰宅するとみっちり三時間の学習。その上、土日はバイオリン教室に、乗馬クラブ。将来は約束されているはずなのに、上流階級の見栄とステータスのために子供が犠牲になっている。そのくせ決まってこう言うのだ。


「あなたのためなのよ」




 しかし、反抗することはできない。『親に逆らうは』たしか善ポイント、マイナス云点だ。あの世の審判で失敗して、こんな世の中に再び戻されるより、今生を完璧なものにして絶対に永久ビザを取得するんだ!



 実際は、親に逆らう機会もなかった。母親は決まって、父親が帰宅する一時間前にきつい香水の匂いを振りまいて仏頂面で帰宅し、派手でセンスの悪いブランド服を脱ぎ捨てて清楚で上品な服に着替え、芦屋巻あしやまきの髪を一本に結わうのに大忙しだ。父親は帰宅して風呂を済ますと寝室に直行して大鼾をかいている。



 両親ともに、殆ど外で食事と晩酌を済ますので、自宅で一緒に食事をするのは、新しい宝石や絵画のお披露目ホームパーティーのときくらいだ。もちろんその他大勢と一緒に。



 両親は良一が転生した時から既に冷め切った関係だった。



 母親は結婚前、某民放キー局の人気アナウンサーで、美と知性を兼ね備え、学生時代はミス○○と名のつくものを総なめにし、周囲からの羨望の眼差しを、そのまま自分の生きる活力にしていたが、諸先輩方に右に習えの追いつけ追い越せで実業家と結婚した途端、世間の目は羨望の眼差しから軽蔑と嘲笑に変わった。


 母親は再びあの羨望を浴びたいがために、実業家が持ち歩くブランド品としてではなく、一人の女性として、連日、出歩いては若い男性と恋愛ごっこをして心の平常を保っているのだ。


 父親は、産まれたときから帝王教育を受けており、善財家の繁栄のためだけに生きている。そのための犠牲など省みたことがない。卵を産んだ親鳥に餌をやる必要はなくなった。






 小学校四年生の夏、水泳の授業が始まった。ここは名門私立の超セレブ校。室内の温水プールで、まるで高級リゾートホテルのお飾り施設かと見紛うほどの内装。本気で水泳を教える気はおそらくない。


 良一は小善ポイント稼ぎのために理科の授業で使った実験道具の後片付けを手伝っていて、休み時間を五分費やした。小便を済まして大急ぎでプールの更衣室に向かった。皆、着替えを済ましてプールサイドで早速はしゃいでいる。


 はずだった。が、物静かでいつも一人で行動する劉生りゅうせい君が更衣室の隅で着替えもせずに膝を抱えて下を向いている。


 良一は授業開始に遅れたくないのだが、こんな場面に二人きりにされて、放っておくのも気が引ける。


「劉生君、どうしたの? 授業始まっちゃうよ」


「あぁ、なんでもないんだ。先に行って」


 劉生君の声をまともに聞くのは初めてかもしれない。それにしてもなんてか弱い声だろう。


「水着忘れたとか? 先生に言えば替えがあるんじゃないかな」


 良一は大慌てで自分の着替えを済ませながら、尚もお節介を焼いた。


 劉生は下を向いたまま首を横に降る。


「体調が悪いの? それなら保健室に…」


 良一が劉生の腕に手を伸ばした瞬間、



「いいから!」


 腹式呼吸で発せられた劉生の腹の底の声に、良一の両肩がピクッと反応し、一瞬、前世で培った座右の銘が頭を過ぎる。




(さわらぬかみにたたりなし)



 良一はプールサイドで点呼をとる担任教師に、劉生君は体調が悪いようだと告げた。


 その後すぐに、担任教師に連れられ、更衣室を出て行く劉生の足取りは、鉄下駄でもはいているかのように重い。


(本当に体調が悪いようだ、またちょっといいことをしたぞ… え?)


 満足げな表情の良一を、チラリと劉生が睨んだような気がした。


(まさか、礼を言われる筋合いはあっても、なんで怒っているのさ)


 劉生の後姿を追いながら、良一はあることに気がついた。


(そういえば、劉生君、夏なのにいつも長袖に長ズボンだ。完全空調設備の校舎だし、送迎つきの登下校であればそれほど暑くはないだろう。上流階級の子女は、紫外線対策か、肌をあまり露出させない子もいる。いや、しかし、5月の、フォークダンスとパットゴルフだけの、『なんちゃって運動会』でも、たしか長袖の体操服を着ていた。さすがに男子では劉生君だけだった。女子の何人かは洒落たUV加工の上着を着ていたからあまり目立っていなかったけど、やはり不自然ではないか?)


 良一はビート版で足をバタつかせながら、劉生が人と交わるのを避けるような態度と、授業参観で発表した、家族を題材にした作文を思い出していた。



(劉生君の作文はずっと小さい頃に会った祖父、祖母とのお正月の思い出を綴ったものだった。他のみんなは、いかに父親の会社が大きいか、や、海外旅行で経験したことなど自慢めいたものが多かったのに)




「劉生君、まさか」



 ゲボッ


 ビート版がプールエンドに直撃して浮き上がり、同時に良一の鼻と口は思いっきりプールの温水を吸い込んだ。


 その日の放課後を迎えるまで、良一の頭の中は劉生のことで埋め尽くされた。水泳の授業が終わると劉生は教室に戻りいつもどおりの様子だったが、それなら尚のこと劉生の服の下が気になるというもの。しかし、劉生は触れられたくないのだ。体にも心にも。


 良一は悩みに悩み、迷いに迷った。前世で何度となく心を痛めるニュースを目にし、その度に憤りを覚えた。救えなかった周囲の大人。行政。たった一人でも勇気を振り絞って声を挙げたなら。その後の人生は180度、とはいかなくても90度変えることが出来たかもしれない。


 座右の銘である「触らぬ神にたたりなし」は自分を守る武器であると同時に、他人に向ける刃にもなることもある。


 振り返れば、それを恥じた前世でもあった。


 


 就職したてのころ、良く行くスーパマーケットーで焼塩サバを上着の中に隠した爺さんを見たことがある。スーパーといっても、日用品と手作りの弁当や惣菜を置いている、この店、なんで潰れないの? という日本不思議百巻に載ってもおかしくない類の店で、閉店近い時間帯になると殆ど客がいない。良一は面倒なことは御免だと、爺さんを咎めることも店員に通報もしなかった。その後も何度か爺さんを見たが良一は見て見ぬふりを続けた。数ヵ月後、高校生が爺さんを取り押さえた。その場に居合わせた良一はスーパーのバックヤードに呼ばれ何故か一緒に事情聴取を受ける嵌めになった。   


 なんでも、スーパーは爺さんの犯行に気付いていながら、被害額が小額なため回数で稼ごうと泳がせていたという。良一は数回犯行現場に居合わせたことから共犯者という汚名を着せられるところだった。爺さん一人分の惣菜に共犯者なんていねぇだろうに。まぁ、その結果、爺さんの犯行は推定100回以上、その常習性が争点となり、高齢ながら1年間の実刑を食らうことになった。




 あの時、良一が爺さんを制していたら、爺さんは起訴されて有罪になったとしても実刑は免れただろう。



 後日談だが、その爺さんは15歳の頃から炭坑で労働に勤しんでいたが、エネルギー産業が石炭から石油、原子力へ推移するとともに職と家族と故郷を失い、日雇い労働で日銭を稼いで命を繋いでいた。炭坑で患った肺に余命を脅かされながらも、医療に頼ることもできず、それでも、戦前国に仕え、戦後炭坑夫として日本経済を支えた誇りを胸に、お国の世話になることは恥だと生活保護の受給申請をしなかったという。僅かながらの年金では食べるものもろくに買えず、高齢で判断能力も衰えた故に本能のまま食物に手を出してしまったのだ。爺さんは店主が自分の行動を監視しているのに気付いていたが、哀れな老いぼれに食べ物を恵むという善処だと思い込んでいたらしい。

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