三つの月と、蜜色の。

桐月砂夜

第一章

第1話 はじまり

1-CHAPTER1

 薄暗い獣道を荒い息をたてながら、娘がひとり走っていた。額には汗がにじんでいる。

 空気が吸えない。肺が痛い。けれど足を止めるわけにはいかない。あの男たちはとても怖い。とても。

 大きな荷物は投げ捨てた。けれど尚も追いかけてくる。何故。金品が目的ではないというのか。

「待ってよ可愛こちゃん」

「そっちの森は霧のなか」

「誰もが道を失うぜ」

 娘を追う男たちは唄うように口にしながら、徐々に距離を詰めてゆく。

 足に力が入らなくなってきた。もう駄目なのかと思ったところで、娘は気がついた。


 アォォーン……


 何か聞こえる。

 足を止めないまま、娘は目だけで声の方を探す。自分の荒い息と重なりそれは分かりづらい。けれど確かに聞こえる。娘は必死に耳を傾けた。


 アォォーン アォォーン……


 声がいっそう近くなった。

「おいコラァ!!」

 男たちの声がすぐ、娘の背中から放たれている。

 娘は決心した。このままあの声に真っ直ぐ向かおう。

 もう何が自分を待っていても良い。

「あっ」

 娘は思わず声を出した。目の先に崩れかけた、それでもしっかりと存在する灰色の煉瓦を湛えた廃墟がある。

 娘は速度を落とさないまま土を蹴り、ちょうど崩れて低くなっている煉瓦の壁を飛び越えた。必死に首を動かすと、奥に樽や木箱が雑多に並んでいるのに気付いた。

 娘は躊躇なくその塊の陰に身体を潜めた。

「追い付いたぞう」

「此処かな」

「こっちかな」

 男たちがいやらしい声で近づいて来る。ざくざく、べしんべしん。薄っぺらい靴の音と共に。

 男たちはもうすぐそこだ。両手で口元に握りこぶしを作り、娘は強く目を閉じた。もう駄目だ。


 その時だった。

 強い衝撃があり、辺りの樽や木箱ががたがたと揺れた。娘は思わず目を開けた。それはまるで、上階から何か大きなものが落下したような音だった。

 娘が困惑していると、男たちの声がして、我に返った。尚のこと身体を小さくした。

「おい、こっちに女が来なかったか」

「答えろよ」

「大男」

 男たちの言葉に、娘は縮こまっているのも忘れて顔を上げてしまった。

 ひとが起こしたというのか。何か落ちてきたようなあの衝撃を。娘は信じられなかったが、男たちは確かにその人物らしきものに声をかけている。

「何黙ってんだよ」

「ぶっ飛ばすぞ」

「おら、これは何かなあ」

 男たちのひとりが、がしゃり、と何かを装填したようだ。武器だろうか。耳を澄ませる。


 ひとときの間があった。

「銀は効かぬぞ」

 初めて発せられたその低い声に娘はびくりとなった。上から落ちた、いや着地したであろうそれは、本当に人間だったようだ。

「俺は狼だが」

 男の言葉に娘は大層驚いた。狼だって?

「お前たちが言う只の〝オオオトコ〟なのだからな」

 しかし今は事の顛末を見守るしかない。自分から此処に飛び込んだくせに、ひとごとのように何も出来ないのが情けなかった。

 

 ずだん、と重厚な何かの音がした。それは娘が先ほど必死に蹴り上げたところから聞こえたので、土の上のはず。今隠れている足場のような煉瓦では、より大きな音を立てたに違いない。

 男たちの声から余裕が消えた。慌てるようなそれが重なる。

「待て待て待て」

「何だよそのでっけえ剣はよ」 

「地面にぶっ刺しながらこっち睨むなよ!」

 そして揃って大声を出した。

「こえーよ!!」

 

 それから男たちの態勢は大きく崩れたようだ。必死な様子が伝わって来る。先ほどの威勢は何処に行ったのだろう。口々に叫んでいる。

「こんなやつに勝てるか」

「退散!退散!」

「早く戻れ!下がれ!」

 

 最後にまたもひいい、と声を揃え、男たちの声は遠ざかってゆく。靴の音もあっという間に聞こえなくなり、男たちが全力で逃げ出したのが分かる。


 フン、と鼻を鳴らすような音がしたあと、がしゃり、男たちが言っていた剣だろうか、それを煉瓦に立てかけるような金属音がした。

「そこのお前」

 そして間髪入れずに先ほどの低い声が娘に向けられた。

 咄嗟に動けないでいると、少しの前を置いて、また言われた。

「出て来い」

 恐る恐る木箱の淵に手を掛け、娘は顔を出した。目だけで見上げたが、男の組まれた腕しか見えない。

「見たことのない顔だな」

「旅人か」

 そうです、と掠れた声で答える。

 男が先ほどよりは静かに言った。

「おい、こっちを見ろ」

 娘は、はい、と返事をして、今度は上体を出して男をしっかりと見た。

 いや、見上げた。


 そこにはほんのり蒼味がかった黒色を湛え、所々に白いふさの混じった、大きな狼が鎧を纏って、人間のようにずしりと立っていた。

 娘は絶句した。ほんとうにこのひとが降りてきた音だったんだ。そして焦ってしまう。今まで誰からもこのような目で睨まれたことなどなかったからだ。

 狼は尚も娘を睨み付け、何も言わない。

 さっきとは打って変わって、静寂が訪れた。


 しばらくすると娘は、ああっ、と何かに気付いたような声を出した。狼の尾がぴく、と少し動いた。そして娘はついに頬を涙が伝ってしまい、グローブ越しに瞳をこすった。

「勝手に入って、申し訳ございませんでした……」

 娘は樽の後ろからよろよろと出て来た。

 今、自分はあまりにも無力で、そして無礼でしかない。娘は、そのまま俯いてしまった。

 狼はしばらく黙り、そのようなことではない、と言う。そして続けた。

「狼が目の前にいるのだぞ」

「恐ろしくはないのか」

 娘は狼を見上げ、改めて見つめたが、尚も頬をぬぐいながら首を振った。

「恐怖など全く感じておりません」

「それに」

 娘は自分の両腕をぎゅうと抱いてから、呟いた。

「さっきのひとたちの方が、よっぽど怖い……」

 狼は黙っていた。

「ああ、でも」

 ぱっと顔を上げた娘に、狼はまたびく、と尾を動かす。娘は涙をぐいっとぬぐい、赤くなってしまった鼻で狼を見上げた。明るい顔だった。

「ほんとうに大きい方ですね」

 狼は驚いたように少しだけ目を大きくして、今度は訝しげに眉をひそめた。

「何なのだお前は……」

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