百一回目の解体新書
駄犬
百一回目の解体新書
事の始まり
最低で、最高の、解体だった。刃物が血と油でテラテラと輝き、筋に沿って刺し身にするのも、繊維を断ち切って汚らしく切り分けるのも、「人間の肉を切っている」という高揚感は比類なかった。
俺の父親は英語教師だった。母親は歯科助手。とりわけ不自由のない中流家庭だったと思う。独り立ちして五年間は仕送りが途絶えることなく届けられ、それを余らせて貯金に回してしまうほど、金の扱いに頓着がなかった。慢性的なストレスに圧迫され、地を這うような生活を送っていたことは、渇いてひび割れた手が雄弁に語っていた。何を苦としてそのような状況に陥ったか。いわゆるこれは、露悪的な身の上話となる。だからこそ聞き漏らさないでほしい。
原点は子どもの頃に受けたカエルを解剖する授業だった。俺は誰よりも手際よく解剖し、先生に褒められた。それが何よりも心地よく、仄かな感触に確かな手応え感じていた。それから半年間、カエルの解剖に打ち込んだ末、次の段階に進んだ。道路で潰れた猫を引っ張って、一匹目を解剖。二匹目は飼い慣らされた人懐っこいネコ。野生のネコは捕まえるのになかなか苦労したものだ。数をこなすだけ、解剖に掛ける時間は短くなっていった。中学時代は数え切れないほどのネコをバラした。高校に進んだとき、解剖医なんてものは俺の天職だと思ったが、ろくに勉強してこなかった為に現実的な選択肢とはならなかった。身に付けたナイフ捌きを活かすかのように、或いはアルバイトの延長上、なりゆきで料理人になった。
俺は見る間に渇く手に確信を得る。どの道に進もうとも、公的な名目の下、行う解剖などに意義はないのだと。見えない力に逆らって行う解体にこそ、真髄は隠されているのだと。俺は下準備に入った。生活圏から少し外れた町を地図上で眺める。そして、目を付けた地域と自宅までの道程を指を使って確保した。二十四時営業のコンビニエンスストアがあるような通りは避けて、住宅街を縫って走る。人の目というリスクは避けられないが、事実を記録する監視カメラより、色とりどりの脳にこそリスクを託すべきだ。
胸に懐かしさが帰来する。野生のネコを追いかけ回した苦さと、それが思いがけず報われた瞬間である。野生動物の警戒心を舐めてはいけない。二歩、歩みを進めるだけで視界から何度、消えられたか。だから俺は、軒裏の縄張り争いに割って入った。運が良ければ、二匹を同時に捕まえられる。
たったの一度だけ、腹の重いネコに当たったことがある。母体を失ってなお、独立して動く様は、まるで臓器の一部のようであり、忽ちみなぎった。ヘッドライトは木枯らしに巻かれたかのように焦点を狂わせ、陰部に溜まる血を気炎として吐き捨てる。
連日連夜、そんなことを繰り返していると、俺の行いがニュース番組に取り上げられた。周囲のざわめきや、社会的制裁を加えんと踊り出すマスコミの苛烈な報道合戦は、時間が経つにつれて下火になり、半年後には誰の記憶にも残らなかった。
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