#4.5 乙女の秘め事
「あぁ、恥ずかしかった……」
日が傾き始めた通学路に、ため息がひとつ漏れる。その細い息は、隣を走る車の走行音に混じって空気に溶けていく。
私の羞恥心も、そうしてどこかへ連れて行ってくれたらいいのに。
「はぁ」
そして私はまたひとつ、帰路にため息を落とすのだった。
あの後、火照った頭を保健室で冷まし、放課後になってから荷物を取りに戻った。
これまで真面目一辺倒で生きてきた私にとって、授業をサボるというのは初めての経験だった。保健室の先生は、『お年頃ね』と言って見逃してくれたけど、事あるごとに取り乱していては、卒業できるかも怪しくなってくる。
それでも、今朝は一緒に登校する約束ができたし、初日にしては大きな前進だと思うことにした。
『ふふん、ふん――――え?』
『あ……』
まさか、鼻唄を歌っているのを間宮君に見られるなんて。もしかしたら、能天気な女だと思われてしまったかもしれない。
でも、仕方ないよね。……手紙交換するの楽しかったんだから。
友達という建前を使ったとはいえ、彼と言葉を交わせたことが純粋に嬉しかった。
「ふんふん、ふふん、ふふーん……」
気付けばため息は、詞のない旋律に変わっていた。
家に帰ると、私は自室に駆け込んだ。そして、鏡を取り出して自分の表情を確認する。
「うーん……変じゃないよね」
摘まんだ頬をぐりぐりと回しながら、だらしなくなった口元に活を入れる。
それから何事もない風を装い、リビングに顔を出した。
「ただいま」
「あら渚、おかえりなさい」
すでに夕食の支度に取りかかっていたらしく、お母さんはキッチンから現れた。
お母さんは私の顔を見つめると、にやりと目を細める。
「何か良いことあったでしょ」
「えっ?」
「渚ったら、分かりやすいんだから。おでこにそう書いてあるわよ」
その指摘に、私は慌てて額を押さえる。
「ふふ、本当に素直な子ね。そんなこと、書いてあるわけないでしょ」
お母さんはそう言って、舌を軽く突き出した。
「もう、からかわないでよ!」
「ご飯の時にゆっくり話聞かせてね。あ、お父さんにも聞いてもらった方がいいかしら」
「そんなんじゃないから!」
お母さんをキッチンへと押しやることで、私は抗議の姿勢を見せる。
昔からそうだ。お母さんには隠し事が一切通用しない。
私は一度呼吸を整え、お母さんへの恨み節を呟く。
「本当にお節介なんだから」
……でも、明日の作戦を成功させるためには、お母さんの協力が不可欠だった。
しばらく二の足を踏み、私は意を決してキッチンのお母さんに声をかける。
「あの、お母さん……」
「どうしたの?」
「……生姜焼きの作り方、教えてくれないかな」
きっと、私の耳は真っ赤になっていたと思う。
だって、こんなことを頼んだのは、生まれて初めてだったから。
お母さんは、少し驚いたような顔をした後、私を見て静かに微笑んだ。
「今晩のメニューは、生姜焼きに変更ね」
◇
「いただきます」
お父さんが帰宅し、家族三人で食卓を囲む。
自分の手料理が並ぶ光景に、私は浮足立っていた。
「ねぇあなた。今晩のメニューを見て、何か気付かない?」
食事に箸をつける直前、お母さんが不思議なことを言い出した。
お父さんは、その質問に眉をひそめる。そして、何かを察した面持ちで生姜焼きを口に運んだ。
「この生姜焼きは、誰が作ったんだ?」
「私だけど……」
「そうか」
私の返事を聞くと、お父さんは箸を置いた。俯いてはいるが、肩が小刻みに震えている。
もしかして、まずかったのかな? 一応、お母さんが毒見をしてくれたんだけど。
「お、お父さん……?」
「……ぞ」
「え?」
「お父さんは認めないぞ!!!!」
そう叫びながら、お父さんはリビングから飛び出して行ってしまう。
嵐が去ったリビングで、私は呆気に取られていた。
「実はね、この生姜焼きは普段とは違う味付けをしているの」
「違う味付け?」
差し出された生姜焼きを食べると、すぐ違いに気がついた。
「甘い……」
「でしょ。私がお父さんの胃袋を掴んだ時も、この味付けだったのよ」
お母さんは胸に手を当て、誇らしそうな表情を浮かべる。
「だからね渚、この生姜焼きを作るってことは、好きな相手が出来たと言っているようなものなの」
「す、すす好きって、私はそんな――」
「キッチンに来た時のあなたの目。あれは恋する乙女の瞳だったわよ」
目は口ほどに物を言うものね、とお母さんは声を弾ませた。
「好きなんでしょ? その子のこと」
「…………うん」
昔から、お母さんには隠し事が通用しなかった。いつもそうやって先回りして、私の背中を押そうとする。
「ねぇ渚、どんな料理にも使える隠し味って知ってる?」
「ううん」
「それはね、愛情よ」
そう自信たっぷりに言うお母さんは、お父さんの出ていった方を温かい眼差しで見つめていた。
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