第二十三集:社鼠城狐
檻は屋敷の中央、密室の中に設置してあった。近所に娘の叫び声を聞かれないようにするためだろう。
「刑部尚書殿、お嬢様はどんな
「……兎です。隣の州にいる友人に会いに行った帰り、襲われてしまったようで……。噛まれたらしいのです。侍従たちはみな死んでいました。きっと、ちょうどお腹がいっぱいになったのでしょう。娘だけは一応生きていたのですが……」
声にならない唸り声を発しながら檻の中を飛び回る娘。
「……発情しているのですね」
「くっ……。こんな娘の姿を見ることになるなんて……」
野生の兎は春が発情期のはずだが、今目の前にいるのは
それは雑食である豚の特徴を得れば何からでも栄養を摂ることが出来、兎ならば繁殖が容易になるからだ。
娘は髪を振り乱し、服を裂き、自分が女性で妊娠可能であることをずっと
「はやく、早く治してください!」
刑部尚書は泣き崩れ、スペンサーに縋りつくようにその服を掴んだ。
「尚書殿、では、ビジネスとまいりましょうか」
「……へ? す、スペンサー殿、び、びじねすとは?」
「おっとすみません。取引しましょう」
「む、娘がこんな時に取引ですと⁉」
そういって食って掛かろうとする刑部尚書とスペンサーの間に割って入り、わたしは袋に入った薬を見せた。
「こちらの薬が欲しければ、取引してもらわなくてはなりません」
「な! そもそも、この狐面の男は誰なんだ! こんな怪しい奴まで屋敷に招き入れたつもりは……」
スペンサーに合図され、わたしは変身を始めた。
「え……。わ、わああああああ!」
朱く焔のように揺れる九尾に、長くたゆたう紅蓮の髪。
頭から新たに生えた耳は尖り、八重歯がさらに鋭く口元で光った。
二段階白くなった肌には、目元に鮮血のように艶めく紅がひいてある。
爪は漆黒に染まり、鋭利さが増す。
「こちらはわたくしの新しい助手、
「な……」
「もし自衛を呼んだら、
わたしは
「ひ、ひぃい!」
刑部尚書は尻もちをつき、わたしを見上げて震えあがった。
「簡単なことです、尚書殿。あなたには
「か、間者ですと……? わ、私に
「いえ、違います。あなたはその手腕と抜け目のなさから、
「な、なんのことだか」
「わたくしが知らないとでも? 蒐集屋敷の商品の中には、〈情報〉も含まれているのですよ」
わたしは火の玉を刑部尚書の顔に近づけた。
「くっ……、認めるしかないようですね。で、それがどうしたというんです」
「わたくしに
「……き、危険が大きすぎます! 皇伯殿下がどれほどの私兵をお持ちか知らないからそんなことが言えるのです! それに……、協力したとして、私に何か利益でもあるのでしょうか」
「お嬢様の命ですかね? 利益としては大きくないですか?」
「……人命を賭け事に使うなど、スペンサー殿は血も涙もないお方のようですね」
刑部尚書は目を血走らせ、顔を真っ赤にして抗議の意を示した。
ただ、そんなものはスペンサーには通用しない。せせら笑うように、微笑んだ。
「あなたの庭の立派な池には何が沈んでいるのでしょうね?」
刑部尚書は肩を震わせ、目を大きく見開き、顔面が蒼白になっていった。
「な、なぜそれを……」
「さぁ、どうなさいます?」
落ちたようだ。どんなに汚いことをやってきた人間でも、自分の子供の命は惜しいらしい。
いや、娘だから惜しいのだろう。女性は政治の道具だ。良いところに嫁がせれば、嫁ぎ先の家がさらに大きな後ろ盾となるからだ。
「お嬢様のこの姿については口外しません。
「……わかりました。取引に応じます……。だから、は、はやく、薬を……」
わたしは袋から丸薬を一つだし、なおも喚き続ける娘の口の中へ弾き飛ばした。
すると、幾度も骨が折れるような音がした後、娘の耳が元の位置まで戻り、顔も人間のものへと戻っていった。
身体のところどころに生え始めていた兎の毛も抜け落ち、肌の色も健康的なものへと変わっていった。
「な、治ったのですか!」
「いえ? まだですよ。同じ丸薬、または粉薬をあと三回飲ませなければなりません」
「じゃぁ、じゃぁ、はやく……」
「いえいえ。あとの三回分はあなたがもたらす情報の価値と交換です」
「くっ……」
「のらりくらりとかわされたら困りますからね。それに、
刑部尚書は「戦争」という言葉にまた震え出し、わたしの方を見て「く、くそ!」と叫んだ。
「うちの
観念したのか、刑部尚書はうなだれながら呟いた。
「……なぜそんなに英王殿下が気になるのです」
「知りたいのですか?」
少しの沈黙の後、刑部尚書は首を横に振った。
「……いや、知りたくもない。取引は成立しましたから。それ以上、何も関わりたくない。では、最初の薬のお礼に、なんでも一つお応えします。質問をどうぞ」
わたしは面をしたまま、口元を
「
「……そういうことか。千八百二体だ」
「証明できるのか」
「実験の過程から結果まで、すべて記帳して残してある」
「今渡せ」
「あれがあるから皇伯殿下は私に手が出せないのだ。なぜお前に渡さなければならない」
「渡したくないのなら、死んでも護り抜け。もし紛失や焼失でもしようものなら、役割のないお前など殺してやる」
「……わかった。今までよりもさらに厳重に保管すると約束しよう」
わたしは布を消すと、再び口を閉ざした。
胸糞悪い。もう、話したくもない。
刑部尚書は関わっていたのだ。それも、ずっと昔から。
英王が、弥王と梅寧軍を陥れ、皆殺しにするための作戦に、素材を提供していたのだ。実験体となる罪人を。
八万もの梅寧軍をたった一晩で壊滅させるほどの
でも、よく考えればすぐに気付けることだった。
この国で、軍関係以外で、一番人が集まっているのはどこか。
答えは『牢』だ。
罪人の程度にもよるが、牢を管理しているのは刑部。
そこの
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます