最終章 約束の合図は窓の外から
引っ越しの日、その日は雪が降っていた。
雨音がしない深々とした白い水の塊が綿のように空から舞い降りていた。
地上の物を兎に角全て白く覆う事を使命とされたように休むこともなく、せっせと降り続いていた。
そして、白く覆う事と同時に生き物の気配を包み込み、音鳴る物の息の根を止めるよう雑音を吸収し、内も外も、あたり構わず、静寂を構築していった。
社宅からの荷出しは順調に進み、昼前には業者のトラックは社宅門を出て行った。
俺は物の消えた各部屋を周り、最終確認を済ませ、部屋を後にしようとした。
ふと、気づいた。
玄関の下駄箱の上に杭とお札が残っていた。
北部屋の押入れの四隅西に多幸が突き刺した杭
俺はあの女を招くためその杭を抜き取った。
暫し、杭のその後の在り方を勘案したが、そのままにし、俺は部屋を出た。
玄関ノブに鍵を掛けた。
俺がこのドアを二度と開けることはないものの、また、部屋の中に戻って来ることは承知していた。
空気のような姿となるのか
隙間風となり中に入り込むのか
いずれにせよ、この部屋は『送り道』で、あの女と一緒に永住地として辿り着いた終点であることには間違いがないのだ。
俺はそうしっかりと覚悟を決めて部屋を後にした。
管理人室に行き、鍵を渡した。
管理人は言った。
「これで5号棟は誰も居なくなった。」と
「そうじゃない。
邪魔が居なくなったのだ。」と
俺は心で呟いた。
社宅門を車で潜り、妻と娘の待つ大津駅へと向かった。
ナビゲーション用にスマホのGoogleマップをセットしていた。
暫く進むと、Googleマップは見当違いに進路を促し始めた。
「右折してください。」
「右折してください。」
「右折してください。」
俺はGoogleマップをミュートにし、こう呟いた。
「心配するな。何処にも行かないよ。」と
大津駅で妻と娘を拾うと、新居のある栗東市へと向かった。
近江大橋を渡り、琵琶湖の西から東へと進出を果たした。
途中、草津市の不動産屋に寄り、新居マンションの鍵を貰った。
妻と娘は初めて訪れる新居マンションを待望している様子であった。
マンションに着くと、既に引っ越業者のトラックが待機していた。
俺達家族はマンションの最上階の9階までエレベーターで行き、部屋の中に入った。
綺麗な造り、広々した間取り
景色もよく、陽当たりもよい。
俺は妻と娘に各部屋を案内し、南の洋室は娘用に、リビングの向かいの和室は妻用に割り当て、玄関口の北部屋は俺が使うと言った。
荷入れが始まった。
各室にそれぞれの荷物が手際良く運ばれて行った。
俺は北部屋で自分の荷物を整理していた。
北部屋の隅に片扉の押し入れがあることに気づいた。
俺は部屋のドアを閉め、誰も居ないことを確認し、押入れの扉を開いた。
造花の花束が置かれていた。
錆びた血の色をした薔薇の造花であった。
俺は心に囁きながら、女を怒った。
「くどい事をするな。俺は何処にも行かない!」と
俺は誰にも気付かれないよう、造花の薔薇をゴミ袋に押し込んだ。
荷入れも順調に終わった。
各自、部屋の片付けを済ますと、夕食がてら近くの居酒屋に行った。
妻も娘も新居のマンションに満足していた。
特に妻が喜んでいた。
「良かったわ。部屋も綺麗だし、何よりも空気が違うわ。
湖の西と東とでこんなにも違うのかしら。」と
確かに湖の東は土地も広々とし、東彼方に鈴鹿山脈が見渡せ、西のように比叡山に圧迫されるような息苦しさは全くなかった。
雪は今尚、深々と降り続いていた。
午後8時にはマンションに戻り、各自、入浴を済ませ、自室でのんびりと寛いでいた。
妻が俺の部屋に来た。
「貴方、この狭い北部屋で大丈夫?
仕事も忙しいのに…
私の和室と代わっても良いのよ。」と
俺は言った。
「この部屋が一番静かそうで気に入ったんだ。」と
「それなら良かった。」と妻は言い、部屋に戻って行った。
妻は、あの社宅の悍ましい出来事に関して、一切口にはしなかった。
口にすると、また、祟られるような気がしていたのであろう。
俺は何かを待っていた。
女からサインは確かに受け取った。
ナビゲーションと花束
確かに了知した。
覚悟は決めていた。
その夜、妻と娘は早々に寝てしまった。
俺はなかなか眠れなかった。
深々と降り続く雪が音どころか時間も吸収したかのように、時が止まったように感じていた。
俺は部屋の電気を消し、ベットに横になり、スマホをいじっていた。
時刻は午前0時を回った。
スマホのニュースを見ると、滋賀県内に大雪警報が出されていた。
確かに外の風が強くなったように感じた。
俺はキッチンの換気扇スペースに煙草を吸いに行った。
換気扇を回すとリビングの鳥籠の中でインコが一声鳴いた。
俺はキッチンの灯りを消して煙草を吸った。
「薔薇の花束か…」
俺は押入れにあった花束のことを考えていた。
「心配するな。お前からの送別の品は受けとならないよ。
回りくどく俺を試しやがって。」と
俺はある意味、あの女の気持ちがいじらしくも感じた。
部屋に戻り、ベットに横になった。
いつの間にか眠り掛けていた。
その時
「トン、トン」と窓から音がした。
眠り掛けていた俺は、ふと窓を見遣った。
「トン、トン」
確かに音がする。
俺は雪が窓を叩く音だと思った。
「トン、トン、トン、トン」
窓を叩く音が明らかに人工的な音を連呼し始めた。
「ノックをしてる…」
俺はそう思った。
地上9階、ベランダもない部屋窓
「トン、トン、トン!」
音は強く、はっきりと存在を知らしめるノックの合図を奏で始めた。
その時、スマホが光った。
「友達リクエストが届いています。」と通知が流れていた。
俺は何気なくスマホを掴み、その通知を開いた。
こうメッセージが書かれていた。
「窓を開けて」と
俺はベットから起き上がり、部屋の電気を付けることなく、カーテンを開き、スマホの灯りで窓を照らした。
見えるのは向こう側マンションの部屋々の灯りと、暗闇を白文字のように描き続ける降雪であった。
俺に戸惑いは全くなかった。
「迎えに来てくれたんだね。」と
俺は囁きながら、窓を開けた。
窓を開けた瞬間
何かが俺の手首を掴んだ。
俺は掴まれた腕を見た。
白い手が俺の手首を掴んでいた。
俺はその白い手首の下を見た。
女が居た。
眼球の無い、顎が砕け、口が裂け、舌が半分千切れた女が俺を見ていた。
「バタンッ」と
北部屋のドアが部屋に入り込む突風により大きく音を立てて閉まった。
物音に気づいた妻が部屋を開けた時、
開いた窓から大粒の雪が無数に入り込み、カーテンが手を振るように靡いていた。
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