第29話 哀愁の景色に悟る

 多幸と会った後、俺は誰も居ない社宅へと戻った。


 今までおどろおどろしく感じていた社宅自体、何も感じない。


 不気味さも恐怖心も何も感じない。


 部屋に戻るなり、俺は暫し、電気も着けずに北部屋に座り込んだ。


 ほんと、途方に暮れた…


 多幸は信じるか信じないかは俺次第と言うが、多幸の想像と見た夢は非常にリンクする。


 俺は押入れ四隅北の一角を見つめた。


 真っ暗闇で何も見えない。


 その暗闇に死界への入口があるのか…


 俺はそう思うと、今現在、俺という存在は生存しているのか否か、自分自身でも分からなくなった。


 多幸は言う。


「貴方の意識裏の世界はあの女が主導権を握っている」と


 そんな…


 まるで、俺の人生の半分はあの女の為に続いていたのか…


 意識ある世界の俺とは…


 至って平凡な人間である。


 恋愛も失恋も経験し、普通の女性と結婚し、子供を2人設けた普通のサラリーマンだ。


 この社宅に来るまで、こんなに途方に暮れることもなく、言わば凪いだ波の無い海を航海して来た人間だ。


 これが俺の知る人生


 しかし、これは半分に過ぎなかったのか…


 無意識に歩んで行った道があったのだ。


 あの女に俺は確かに言った。


「俺も決してお前を裏切らない。」と


 何故、そう言ったのか…


 現実、意識ある今現在、夢の中の出来事を思い出すことは不可能である。


「あの女に言わなければならない。」


「何を…」


「お前と一緒には行けない。」


「お前を裏切らなければならない。」


「何故?」


「俺には愛する家族が居る。」


 こう自問自答する中、俺はあの女に会って、言わなければならないと思い至った。


 俺はリビングから布団を北部屋に移した。


 押入れ四隅西の杭は抜いたままだ。


「早く現れてくれ…、俺を迎えに来いよ…」


 俺はそう思いながら、あの『送り道』の夢を見ようとした。


 しかし、見ようとして見えた夢などない。


 更に思うに…、俺の企てはあの女に全てみすかされているかのように、何日経っても『送り道』の夢は表出して来なかった。


 そんなある日


 新居への引っ越しまで残り2日となった時であった。


 相変わらず、『送り道』の夢を求めながら眠りに着いたその夜、


 俺は金縛りにあった。


「はっ」と目が醒める。


 声が出ない!


 身体が動かない!


 俺は思った。


「遂にあの女が迎えに来たのか!」と


 俺は暗闇の中、押入れ四隅北を見つめている。


 すると、その方向と真逆の方向である南側、部屋の外、廊下が「ぎゅ、ぎゅ」と軋む音が聞こえて来た。


 俺は眼球を精一杯、その方向へと向けた。


 足音は止まり、暫し、静寂と沈黙の時が辺りを覆い、心臓の鼓動だけが鼓膜を刺激していた。


 十も数えないうち、部屋の襖が「すぅ~」と開いた。


 俺は覚悟し、その開いた空間を睨んだ!


「うっ!」と


 喉が唸った。


 真っ黒な影の塊…


 暗闇の塊…


 そんな得体もしれない黒い空間が部屋の前に漂っていた。


 そして、その黒い空気は大きな丸い塊のまま、俺の方に霧が立ち込むように近づいて来る。


 俺の顔に、俺の鼻に、俺の口の中に…、


 黒い空気が接触し、侵入して来る…


 俺は麻酔を掛けられたように意識が遠のいて行った。


【『送り道』を歩いている。俺は無意識に右隣を見遣ると浴衣を着たあの女が居る。


 そして、中指と薬指ではなく、しっかりと2人は手を繋いでいる。


 俺は何かを女に言おうとしている。


 しかし、何かを言おうとすると、女が話しかける。


「あれを見て!」と女が先を指差す。


 すると朧げに夕焼けに輝く景色が浮かんでくる。


 川面はオレンジ色にキラキラと輝いている。


 なんとも言えない哀愁感が俺の心を覆う。


「懐かしいねぇ。」と女が呟く。


 俺が何も答えないと、女が嬉しそうにこう言う。


「あの河原、貴方と一緒に遊んだ河原…、魚を追ったり、水かけっこしたりして…、楽しかった…」と


 女の言葉が俺の脳裏に画像を映し出した。


「そう、日が暮れるまで、遊んだ…、毎日、毎日、あの子が居た…」


 俺は少年時代を思い出していた。


 初恋の少女


 名も忘れ、顔立ちも思い浮かばない、懐かしい初恋の少女


 男の子のように真っ黒に日焼けした、瞳の大きな少女


「あの子…、お前だったの…」


「うん!」


 女は歯に噛みながら「こくり」と頷く。


『送り道』を歩む。


 次に木々の隙間から七色の朝日が差し込む森の中に景色は変わる。


 足元の土は黄土色で柔らかい。


 姿の見えない小鳥達が楽しげに囀る。


 大きな椋木の幹が見える。


 女が指差す。


「あの幹の根に2人で座って、沢山、お話したよね。」と


「そうそう、なんでもない話を良くした。」


 俺は何も疑いもなく哀愁に身を寄せてしまっていた。


「話すだけで楽しかった。」


「うん!安心した。」


「そう!安心したわ…、2人だけの空間だったもの!」


「そうだ!」


「初恋…、唯一の恋…、永遠の恋人、私はそう貴方を思っていたわ。」


「俺もだよ。一番失いたくないもの、それがお前だった…」


 森を抜けると高原が開けた。


 大山が正面に聳え立ち、左右後ろは緑の草原


 風達は笑うように2人の髪を悪戯に靡かせる。


 2人で思い切って草の上に寝転んだ。


 草原は幼く軽い2人の純な身体をふんわりと優しく跳ね返す。


 声は風達に邪魔され、2人は何かを叫びながら満面の笑み浮かべている。


 少女は微笑みながら目を閉じる。


 俺は真似して目を閉じる。


「何が見える?」と少女が囁く。


 瞼を通して橙色の陽光が霞む。


「お前の笑顔が見えるよ。」と俺は言う。


「私も貴方の優しい笑顔が見えるよ。」と少女が答える。


 2人は草原のベットに横たわり、そっと掌を重ね合わせた。


『送り道』は哀愁の思い出を数々と表現して行く。


 2人とも懐かしんだ。


 映像の休憩時間


『送り道』は賑やかな縁日へと戻る。


 俺は女に言おうとしていたことを思い出せずにいた。


 そんな俺を分かっているのか、女は自身の言い分で俺の口に蓋をする。


「私…、ずっと貴方と一緒に居たかった。


 病気さえしなければ…


 貴方の前から消えたりしなかった、絶対に…、消えたり…」


 女の綺麗な横顔に涙の雫が一筋通った。


「でもね…、私…、いつか…、必ず、貴方とまた逢えると信じていた…、


 良かった…」


 女は泣きながら笑いながらそう囁いた。


 俺は女の掌を強く強く握った。】


 俺は夢から目覚めた。


 なんとも言えない目覚め


 悲しくもあり、切なくもあり、懐かしくもあり、胸一杯に様々な想いが詰まった目覚め


 何故か俺の瞳は濡れていた。


「初恋の人…」


 俺はやっと一言、そう呟いた。


 大切な思い出の箱が開き、そこに居る主人公として、あの女が存在していた。


 俺は思った。


「俺を一番大切に思ってくれるのは彼奴かも…、だって…、俺の宝物、俺の穢れのない想いまでも再現してくれるんだ。


 あの綺麗な思い出を。」と


 そして、自然に感じた。


「もう、止めよう…、彼奴を拒むことは、もう、止めよう」と


 


 


 


 


 

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