第2話 北部屋の押入れの中
俺がこの社宅を初めて訪れたのは、その年の三月末、九州支社から滋賀県の支社に転勤が決まり、その事務引継ぎのため滋賀県に出向いた日であった。
その日の午前から午後3時まで、中身のない、退屈な事務引継ぎが行われた。
午後3時過ぎに引継ぎが終わり、俺は前任者が運転する車に乗り込み、俺にとってこの出張の最大の目的である、これからの生活基盤となる社宅の下見に向かった。
前任者は、その社宅部屋の現在の居住者でもあった。
「社宅は事務所から3キロ程離れている所にあります。車だと10分程度、歩きだと30分ぐらい掛かりますよ。」
と前任者は路程をざっくりと説明しながら、大津駅を真横に横切る県道をひたすら西へと車を向かわせた。
西の空には、鰯雲が浮かび、3月末とは言えど、まだまだ春は遠い気配が漂う天気であり、時間帯的に、丁度、オレンジ色の夕陽が、鬱蒼と茂り、どんよりと黒緑色に鎮座する山々の上に遠慮がちに陽を放っていた。
「あの山は比叡山ですか?」
「そうです。延暦寺は右上の頂上付近にありますけど、真向かいの山々も比叡山の麓の一部ですよ。」
俺は何となく真向かいの山々が重たく感じた。
そして、その山々の上で夕陽を放っている太陽が、何となく痛々しく感じ取れた。
比叡山に遠慮する太陽
夕焼け色と言った風流な陽光ではなく、弱々しく、媚を放つ悪意の光
西の空にそんな違和感を俺は抱いていた。
車は県道の行き止まりまで行くと、右折し、琵琶湖まで通ずる下り道を単調に進んで行った。
途中、踏切前で車は停車した。
「もうすぐ着きますよ。」
「この線路はJRですか?」
「いえ、これは京阪です。社宅近くに最寄駅はあるんですが、事務所には通えないんですよ。なんかねぇ、役に立たず、うるさいだけなんですよ。」
と前任者は苦笑いを浮かべた。
車が踏切を渡り、左手のコンビニを過ぎると、
「あれです。」
と前任者が指で示した。
「3階建なんですね。今時、珍しい造りですね。」
「そんなんですよ。この辺はお寺が多く、市の景観条例があった関係で3階までしか造れなかったみたいです。
今となっては、琵琶湖沿いに高層マンションが乱立し、景観は台無しですがね。」
と前任者はまた苦笑いを浮かべ、左ウインカーを点滅させながら、
「ここが入口です。ここしかないんですよ。ちょっと入り難いんですよ。ヨイショ!」と言いながら、ハンドルを左に切った。
その入口は両脇に石膏の門柱が建てられ、鉄格子は開いたままであった。
敷地内に入ると、一直線の立派な道路が伸びていた。
その道路は、500mはありそうに長く、道幅も10mと広々としていた。
俺は両脇を見渡した。
両脇には古びて汚いコンクリート壁の建物が連なっており、右側の建物はベランダ越しに窓ガラスが板で覆われており、黒いビニールシートを貼られている部屋も見られ、人どころか、生命体自体の存在は全く感じられなかった。
車は道路の半分近くで停車した。
「この棟です。ここの2階ですよ。」と前任者が車を降りながら顎を向けた。
その棟の壁面には「5号棟」と剥がれかかった黒ペンキで明示されていた。
俺は前任者の後に続き、社宅の階段を登って行った。
前任者は「203号」の部屋の標識の前で立ち止まり、
「この部屋です。」と言いながら、鍵をドアノブに突き刺した。
玄関ドアは血の色のように錆びて汚かった。
前任者はドアを開けると、
「中はね、意外と綺麗なんですよ。」と
ここで初めて社宅に係る内容を口にした。
なるほど、確かに、外観に比べると室内は確かに綺麗ではあったが、この10年間、東京や九州の都会で小綺麗なマンション住まいの単身生活を送っていた俺としては、決して、楽観できる代物には程遠い物件であった。
仕方がなかったのである。
社宅に住まざる理由があった。
この4月から娘が京都の大学に進学する。息子は東京の大学生。
加えて、妻の居る福岡市の賃貸マンション。
家賃だけで月30万は掛かる計算となる。
その上、俺が賃貸マンションを借りれば、月40万円、給料の殆どが家賃で飛んで行くことになる。
そこで、苦肉の策とし、俺の単身生活は終わりとし、家賃の安い社宅で妻と生活することになったのであった。
社宅であれば月5万で済むのである。
前任者は執拗に各部屋を自慢気に説明しているが、その内容は俺の耳には全く入って来なかった。
いわば、諦めの境地であった。
部屋の日当たりは悪く、湿気を帯び、空気中にカビの匂いが充満していた。
間取りはと言うと、それは妻との二人暮らしならば充分なスペースがあった。
3DKの構造であり、南側の奥に6畳の寝室、キッチンリビングは10畳の板間、西側に4畳半の子供部屋、そして、北側に押入れのある6畳の和室があった。
前任者が最後に北側の和室の障子を開けた。
俺は唖然とした。
窓ガラスに黒のビニールシートが貼られていた。
「あっ、これですね。この部屋、日当たりが悪く、冬は霜が酷いんですよ。このシートは霜対策です。」と
俺の驚いた表情を感じ取った前任者は慌てて、説明した。
この部屋に一歩踏み入れた。
「グニュ」と畳が凹む音が鳴った。
畳も湿気で劣化していた。
ソワソワと歩く俺を見て、
「小野さんが引っ越すまでに、畳は替えておきますからね。」と前任者は、復して説明をした。
俺が奥の押入れの前まで行くと、前任者は、更に慌てて、こう言った。
「そこの押入れ、私、開けたことないんですよ。
単身でしたから荷物が少なく、押し入れまで利用することがなかったんで…
ここも、小野さんが引っ越すまで綺麗に掃除しておきますよ。」と俺に釘を刺すよう説明だけをし、決して、その引戸を開けることはなかった。
この北側の部屋の押入れの中
ここに、これから始まる怨霊に満ちた恐怖の根源が全て詰まっていたのだ。
この時、俺は知る由もなかった。
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