置いていかれた。

七戸寧子 / 栗饅頭

 あ、置いていかれた。


 電車が動き出して、そう思った。


 いや、ちゃんと乗ることはできた。平日昼前の車内では座席も退屈そうで、私の少々ボリューム不足なヒップを預けさせてもらった。車窓には向かいの下り電車。その景色がスライドしていく。お、やっと私を運ぶこの機械が動き出したのか。呆然と思った矢先、身体に一切の慣性がかかっていないことに気付いた。思えば、ドアが閉まる音も聞こえなかった。それなのに車窓の奥の景色は流れていって、私はこの世のことわりから置いてけぼりをくらってしまったのかと思った。


 少しして、向かいのホームが顔を出す。単純に反対の電車が出ただけだった。動き出したのはあっちの方で、こっちはまだ駅に留まったままだった。ぷしゅ、と炭酸の栓を開けるような音と共にドアが閉まり、がたごとと鉄の箱が揺れ始める。一瞬こわばった身体がゆるりとほぐれ、気が抜けていくのを感じた。これが漫画やアニメだったら、私からも『ぷしゅ』という擬音が漏れていたことだろう。あいにく、この世界はそういった類ではないようだ。


 ……仮に、本当にこの世の理から置いていかれてしまっていたらどうだろう。その方が、少しは主人公らしさがあったかもしれない。残念ながらそんな超常的な非日常は起こらなかったし、起こるにしても多分それは私ではない。大学生活二ヶ月目にして三度目の一限寝過ごしをやらかし、そこで焦るでもなく大胆にまるっとサボるわけでもなく、上手でもないメイクをして電車に乗っているような芋女は主役というタマではない。


 なんだか虚しくなって、車窓の青空に目を向ける。この中途半端なタイミングで空を眺めるのも、やはり私はフィクション向けではないなという気がした。物語の主人公が空を仰ぐのは、物語の『転』となる場面で苦悩するシーンか、全てが終わったあとの締めの段落だと相場が決まっている。今の私はどちらでもないだろう。


 とりとめのない思考。脳内を回遊していたそれらが、ほんのちょっぴり繋がりを持つ。


 置いていかれた。


 私は主人公になれない。


 近頃SNSを眺めていて感じていたことが初めて言葉になった。大学に進学してからも、高校時代の同級生とはSNSでゆるく繋がっていた。人によっては髪を染め、人によっては毎日誰かとの食事を撮り、人によっては知らないかわいい女の子との写真を上げていた。まだ男の気配を感じさせる人はいないものの、それらは私が過ごす新生活よりはるかにキラキラしていた。


 なんだか、みんな先に行ってしまった。タイムラインで私だけがここに置いていかれている気がした。普段は見る専に徹しているストーリーズに上げた学食の写真には、いいねのひとつもつかなかった。


 別に彼女らなら主人公になれるとは言っていない。私よりは適正があるだろうけど。


 ふーっ……。


 どこか、行きたい。


 別に今日の講義はサボタージュを決め込んでも問題ないだろう。何かあれば、数少ない友人がなにか教えてくれる。出席日数は全然余裕。


 こんな時は、そう、旅をしよう。


 旅をしよう!


 なんだか急に気分が上がって、ちょうど滑り込んだ駅で電車を降りた。大学の最寄りまではまだまだあるし、路線が一つしかない駅だから個人的なお出かけで乗り換えに降りることもない駅だった。何があるのかも知らないし、おそらくはなにもないのだが、ちょっとした冒険として地図を見ずにぶらつこう。可愛い雑貨屋だったりランチによさそうな店だったりがあれば入ってみよう。最悪、中古屋にでもよって宝探しをしよう。


 期待に胸を膨らませ、駅構内を出る。


 そして、肩を落とす。照りつける太陽。もう七月になったのだ、この暑さは想定内。それにしても、私の中で生まれかけていた煌めく何かを捻り潰すには十分だった。ぷしゅ、と胸の期待が抜けていった。思えば、財布の中も心もとない。


 はあ。


 なんとなく、空を仰ぐ。別に私の人生の転機になるわけではないだろうけど。それはそれとして、いい天気だ。見慣れないビルが青空を僅かに遮るのが居心地悪いが、逆に新鮮で途中下車の収穫としてはそこまで悪くもなかった。


 やっぱり、旅はしたい。飛行機にでも乗って、この空をびゅーんと横切って、別の国にでも行ってみたい。それをストーリーズに上げれば、まだ私も少しは主人公っぽいかもしれない。


 ……もしも、本当に私が主人公だったらどうだろう。『主人公らしくない』というのも漫画やアニメではマイナスな気がするが、何かを拗らせた大学生が書く小説の主人公などであればアリな気がしてきた。


 この空を仰いでいるのは、中途半端なエンディングの前触れだったりしたら?


 まあ、きっと『だからどう』というわけでもないのだろう。尻切れトンボに物語の幕が閉じ、客席と遮断されたステージの上で私は『あ、置いていかれた。』とでも思うのだろう。そして、そこに深い何かを感じるわけでもなく、まだぎりぎり間に合いそうな二限に向かうべく電車に乗り直すのだ。


 これは本当に私の妄想でしかないのだけど、そう考えてみたらちょっぴり癪で、あの青空の向こう側でこちらを見ているであろう読者に一矢報いてやりたいという気になった。この小説を閉じられてしまう前に、私が置いていかれないうちに、何かしてやろう。


 例えば、ここで手を伸ばして、あのビルのてっぺんに手を掛けるふりでもして、よっこらせと向こう側へ旅にでも……。

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