⑤-5

 深夜の公園にパシャパシャと水飛沫が上がる音が響いていた。彦一が水飲み場で屈んで豪快に自分の頭を洗っていた。排水溝に流れていく水に鮮やかな血の色が混じっている。

「大丈夫ですか?」

「ああ、もう塞がってる」

「薬も無いのに凄いですね。それにしてもヒヤっとしたなあ。俺彦一くんが後ろから消火器で殴られた時さすがに死んだかと思いましたもん」

「……」

「玄狐の力もなかなか使いどころが難しいですよね。接近戦で使ったら全員焼き殺しちゃいますもんね」

 大橋がコンビニで買ってきてくれたタオルを受け取り、がしがしと頭を拭いた。白いタオルに赤い染みが広がる。こっちは殴られたり締められたりして散々な目に合ったのに大橋を見上げると衣類一つ乱れていない。彦一は恨めし気な視線を大橋に送った。

「……よかったのか」

「ん?」

「揉め事を起こして」

「ああ……まあ大丈夫でしょう。少し予定は狂いましたが思わぬ収穫がありましたね。顧客リストを洗わなくて済みそうだ」

「あの連中と対立してしまった」

「それは心配いりません。大事にはなりませんよ。あそこは一応中立地帯ですからね。自分たちのシマの外でせこいシノギをやってたことが上にばれたら粛清ものでしょうから、報告なんてできませんよ。それに組織の下っ端が起こしたいざこざに幹部連中が出張ってきても旨味ないですし」

 先程まで乱闘騒ぎを起こしていたとは思えないくらいあっけらかんとしている。この程度で大橋の立場が揺らぐことはないのだろう。

「今日はもう休みましょう。明日から容疑者を絞って痕跡を探します。中学生くらいの女の子――伊澄さんからの報告とも合致してますね。だんだん近付いてきた感じがしませんか?」

 刺青の男から聞き出した情報――牢獄の女の話。潔乃の周囲に現れた人形使いの少女と、無関係とは思えなかった。彦一はきつく拳を握り締め、陰に潜む得体の知れない存在を牽制するように、鋭い視線を巡らせた。


 公園から十分程歩き、繁華街の隅にあるホテルに辿り着いた。大橋が確保してくれた宿泊先だ。もうすぐ日を跨ぐという時間帯なのに玄関の灯りは煌々と輝いている。

「なっ……」

 彦一は足を止めた。一人の少女が寒空の下、玄関の花壇の縁に腰掛けている様子が目に入った。柔らかそうな色素の薄い髪、伏せた目に長い睫毛、血色の良い小さめの口に、厚着をしていても分かる長い手足――

「んで、」

「俺が許可したんですよ。今日は何の日か彦一くん知ってます? 修学旅行です。修学旅行なんて学生時代の一大イベントじゃないですか。こんな貴重な機会逃すなんてもったいないでしょう?」

「何を考えて……」

 話し声に気付いた少女――潔乃は、閉じていた瞼を開けて立ち上がり、二人を迎えた。呆気に取られている彦一を尻目にホテルの中へ入るよう促す。彦一は顔を背けた。潔乃の姿を、直視することができなかった。


「大橋さんの狙い通り、ここ二、三日の間でも数回出入りが確認できます。私が見た灰色の靄と同じものです。やっぱり聚華楼を拠点にしてるんだと思います」

「えっ過去の痕跡も分かるんですか? そんなの専門の調査員でも難しいですよ。貴重な人材だなあ」

 大橋と潔乃がホテルのロビーで会話を交わしている。いつも機嫌の良さそうに微笑んでいる彼女とは違って、真剣に対等に大橋と話し合っている。彦一は久しぶりに見る彼女の横顔に、後ろめたい思いを膨らませていた。護衛を勝手に下りたのだから責められても仕方ない。怒っているだろうか。彼女の表情はひたむきだ。……しかし何というか、しばらく見ない内に、少し、大人っぽくなった、ような……

「もう遅いですから伊澄さんも休んでください。詳しい話はまた明日しましょう。では俺はこれで」

「大橋はここじゃないのか」

「ええ、俺は実家へ戻ります。飛んでいけばすぐですから。いつかお二人もお招きしたいですねえ」

 大橋はにこりと笑うと「それじゃあおやすみなさい」と言って何の躊躇いもなくホテルから出て行ってしまった。途端に、残された二人の間に息が詰まるような重苦しい沈黙が下りる。何か言わなければいけないのに、何の言葉も出てこない。

 潔乃が真剣な眼差しで彦一を見つめた。

「会いたかった」

 そのまま距離を詰めてくるので彦一は思わず後退りをしたが、すぐに柱に逃げ道を塞がれてしまった。なんだか凄みを感じる。彼女の射抜くような瞳から視線を逸らせなかった。

「大丈夫とか気にしないでとか、散々言われてきたけど、どうしても心配しちゃうよ」

 言葉に詰まるような言い方をする。潔乃が彦一の濡れた髪をじっと見据えている。怪我をしたことが勘付かれている。

「あんまり無茶しないで……」

 甘い香りが、彦一の鼻先をふわりと掠めた。潔乃が彦一の左肩に額を当てて、彼の左手をぎゅっと両手で包み込んだ。彦一は絶句してただ固まっていた。ひんやりとした指先の感触と、ほとんど触れそうなくらい近いところから伝わってくる体温と、花を思わせるような甘くて柔らかな香りに、頭がくらくらとした。無意識に右手で彼女を抱き寄せそうになって、寸前のところで留まった。身体の芯に火が灯ったような感覚に戸惑う。自分が今どんな表情をしているのか自分でも分からない。

「……彦一君、疲れてるよね。今日はゆっくり休んで。私もう行くね。……おやすみなさい」

 何も応えない彦一に、潔乃が寂し気な笑みを見せた。振り返って歩き出す。離れていく彼女の背中に手を伸ばして、しかしその手はそのまま虚空を搔いた。今何をしようとした。呼び止めて何をする気だった。俺は……もっと彼女に触れていたかったのか。

(そんなこと許されるわけ……)

 柱に沿ってずるずると頽れた。まだ乾ききっていない髪の毛をくしゃりと掴んで頭を抱えた。塞がったはずの傷がズキリと痛んで血を流しているような気がした。

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